34-2(ディートリヒ)
ディートリヒが部屋に入ると同時に、後ろで扉が閉まる。片方は自分が支えていたので手を外し、片方は向こう側のクラウスが閉めたようだ。重々しく、地面を揺らすような音が響いた。
「こちらです、ディートリヒ」
そう、アウレリアが言って、部屋の中を進み始める。それに続き、ディートリヒもまた足を踏み出した。
部屋の中は、想像よりもずっと、温かい空気に満ちていた。神殿の中で最も女神に近い場所のため、溢れた聖力により、もっと空気が澄んで、冷えた空間かと考えていたのだが。
なぜ、神殿の他の場所よりも温かいのだろうかと、そう思いながら、前を行くアウレリア越しに、泉に目をやった時だった。
〈……レオノーレ……!〉
「っつぅ……っ!」
泉の水面に立つ、人影。それを目にした瞬間、頭の中で叫び声が聞こえて、頭を押さえる。ふらりと傾いだ身体に、前にいたアウレリアが驚いた様子でこちらを振り返った。「大丈夫ですか!?」と、声を上げながら。
手を伸ばし、ディートリヒの腕に触れるアウレリアは、心配そうな様子でこちらを見上げてくる。ベール越しでも、彼女が不安そうにしているのが分かり、ディートリヒは慌てて笑みを作った。女神を呼ぶ頭の中の声は、一度その名を口にした後、また静まり返っていたから。
「大丈夫だよ、アウレリア」と、ディートリヒは姿勢を正しつつ、アウレリアに声をかける。彼女の手に触れれば、彼女は少しだけ不安そうに首を傾げた後、こくりと頷いた。手を離し、泉の方に向き直って、再び歩き出す。
繊細に、それでいて隙のない浴槽のような泉の真ん中には、やはり先程見た時のまま、人影があった。金の髪と蒼銀の瞳。神々しさを纏う、異様なまでの美しさ。
〈……レオノーレ〉
頭の中で再度響いた声は、どこか懐かしさを覚えているように、掠れていた。
「女神様にご挨拶いたします。アウレリア王女殿下の婚約者であり、護衛の騎士、ディートリヒ・シュタイナー=ブロムベルクと申します」
膝をつき、騎士の正式な礼を取りながら、泉の中に立つ女神に挨拶をする。少々その位置が遠かったが、仕方がない。この泉は聖域であり、ディートリヒが足を踏み入れることなど出来ないのだから。
女神はそんなこちらの様子を眺めた後、〈初めまして。愛しい子たちの一人、ディートリヒ〉と、涼やかな声で言った。
瞬間、ぱっと女神の姿が消えたかと思うと、ディートリヒとアウレリアのいる場所から数歩先の泉の上に再び現れる。アウレリアが驚いたように肩をびくりと震わせ、ディートリヒは思わずさっと立ち上がり、そんな彼女の肩を抱いた。
女神はその様子を見て、その蒼銀の右目を嬉しそうに細めていた。
〈私の最も愛しい子を大事にしてくれて、ありがとうございます。……あなたをここに呼んだわけは、きっと、分かっているでしょう〉
『女神の愛し子』と、限られた者にのみ、許されたこの部屋に、『女神の愛し子』でも、神官でもない自分が招かれた意味。そんなもの、考えずとも分かる。
(そもそも、昨日の内に王太子殿下も言っていたからね)
女神も、会いたがっているかもしれない、と。
しかし、ディートリヒの影を見る女神の表情は、不思議と暗く見えた。何か、不安そうな空気を纏っている気がする。
久々に魔王に、いや、魔王となった男神に逢うからだろうか。それにしても、悲しそうな表情。
思いつつ、ディートリヒはアウレリアと顔を合わせると、その肩から手を離した。一歩、泉の方へと踏み出す。偶然なのか、必然なのか。ディートリヒから伸びた真っ暗な影は、ディートリヒと女神の間に伸びていた。
「お捜しの方は、こちらに。……ですが、先にアウレリアを避難させて構いませんか? 何が起こるか分からない場に、彼女を置いておきたくはないので」
元は男神と言えど、魔王は魔王である。そのような存在を解放しようというのに、全く危険がないとは誰も断言できないだろう。アウレリアを危険に曝すことなど、絶対に遠慮したかった。
思い、真剣にそう告げるディートリヒに、アウレリアは驚いたように「私は……」と声を上げるけれど。目の前の女神は、ふるりと首を横に振った。〈安心してください、ディートリヒ〉と、静かに微笑みながら。
〈完全に彼を廃する力はなくとも、しばらく封じるくらいの力はあります。彼はもう、神ではないのですから〉
〈もちろん、兄たちのように、完全に封じることが出来るわけではありませんが〉と、女神は続けた。
〈もしまだこの世界を害する気ならば、そのままこの世界から連れ去りましょう。この世界に彼を封じていたのは、私が傍にいたいと望んだから、なのですから。私も、覚悟を決めました。……そしてその覚悟を、私の最も愛しい子に見届けて欲しいのです〉
そう言って、アウレリアを見ながら微笑む彼女は、悲しそうでありながら、どこか晴れやかに見えた。どういう思いが込められているのかは分からない、複雑な笑み。
ディートリヒはそんな女神の姿を見ながら、アウレリアの方に顔を向ける。ディートリヒの視線に気付いたらしいアウレリアもまた、こちらに顔を向けて。静かに、頷いた。
(アウレリアが、望むなら)
いざとなったら、闇魔法で彼女だけ連れて逃げ出せば良いかと、そんなことも密かに考えつつ。ディートリヒは、その場にアウレリアが同席することに、素直に頷いたのだった。
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