21-2(アウレリア)
「殿下! 王女殿下! 大丈夫ですわ、ここは王城です! 危険なものなど何もありません! あなたはここにいます!」
侍女たちが叫ぶのが聞こえる。慌てた様子で、すぐ傍で何度も声をかけてくる。
無意識に喉を震わせていた声が、周囲の声が耳に染みこんでくるのを聞いて、少しずつ、小さくなっていく。
開いた目に映るのは、今まで見ていた光景ではなく、見慣れたベッドの天蓋であった。
心臓が異様に早く鼓動を打ち、全力で走った後のように息が切れる。
「殿下」と、侍女たちのいる側とは反対側から、低い声が聞こえてきた。焦ったような、切羽詰まったような、そんな声音で。
そちらに顔を向ければ、そこにいたのは、ここにいるはずのない人。先ほど部屋を出て、今は客間の向こうの廊下で、護衛の役目を果たしてくれているはずの人。
ごつごつとした、骨と皮だけの大きな手が、アウレリアの手を掴んでいた。
「殿下。王女殿下。大丈夫です。大丈夫ですよ。ほら、俺を見て」
ほっとしたように表情を緩めたディートリヒは、優しく、穏やかな声でそう囁く。「ね、ほら。間違いなく俺でしょう」と、彼はアウレリアの手を自らの頬へと当てた。
「あなたの傍に、危険はありません。ここは王城の、あなたの部屋だ。……さあ、目を覚まして」
指先には、げっそりと痩せてしまった彼の、少し荒れた頬の感触。するりと、自らの意思でそれを撫でて、ゆっくりと何度か、瞬きをして。
深く、息を吐いた。
(大丈夫。私はまだ、生きていた。戻って、これた)
「パウ、ラ。パウラ。紙と、ペンをお願い。いつも通り、書き留めて頂戴」
我知らず、ぎゅっとディートリヒの手を握りながらそう告げる。パウラはほっとしたような顔になると、「はい、すぐに」と言って、傍らの机についた。すでに準備されていた紙の上に、さらさらとペンを走らせる。今日の日付を書いているのだろう。
心配そうにこちらを見るディートリヒの方を一度見た後、アウレリアはゆっくりと目を閉じた。今まで見ていた光景を、間違いなく、思い出せるように。
「……場所は……」
アウレリアが口にしたのは、『黒の森』からほど近い、とある伯爵家の領地。伯爵の代理として、子爵が運営している場所である。視界の隅ではためく旗に、その子爵家の紋章が描かれていたから間違いない。
メルテンス王国では、どんなに小さな町であろうと、村であろうと、各地に紋章を描いた旗が飾られていた。こうして、アウレリアが夢に見た際に、すぐにどの場所なのかを判断するためである。
大きな文字が書かれている場合もあるが、デザイン性もあり、紋章が飾られている場所の方が圧倒的に多かった。
「『黒の森』の方から、大きな、あれは大きな蛇のような、バジリスクの一種、かしら。鶏の要素はない、原種に近いもの。……周囲の野菜や草木が急に枯れ始めたと思ったら、前半身をあげた巨大な蛇が……」
夢で見た光景を目の裏側に思い起こしながら、少しずつ言葉を紡いでいく。家を出て、畑に野菜を取りに来た《《アウレリア》》は、不意に森の方から野菜が枯れていくのが見えて、顔を上げたのだ。
それはあまりに巨大な蛇。夢の中のアウレリアの何倍の大きさだろうか。少なくとも、起き上がった前半身だけでも、三倍はあった。鋭い牙の一つ一つさえ、嫌というほどに目に映る。その呼吸だけで周囲の生き物が死に絶え、空を飛んでいた鳥が何羽も落ちてきた。
「《《私》》は近くの人たちに逃げるように声を張り上げながら、走って。……でも、蛇は、動きがすごく、早くて……」
だんだんと枯れていく草木。近づいてくる、死の気配。
走って、走って、あと少しで、村の外れにある自分の家に逃げ込めると思った、その瞬間。
胸の真ん中から飛び出した、バジリスクの尾の先と思われる、刃物のような鋭い物。ごぼりと口から零れた、液体。
色も感触も、匂いも、分からない。だけど、分かる。
あの時確かに、《《アウレリア》》は死んだのだ。
「兄様には、周辺の村から人々を避難させるようにと。その方が、騎士たちも存分に戦えるでしょうから」
事細かく夢の状態を伝えたアウレリアは、そう締めくくり、また深く息を吸って、吐き出す。
大丈夫。あれは自分であって、自分ではない。だから、大丈夫。
あの時の自分であった誰かを救うために、夢を見たのだから。
「では、次の夢を見ましょう。……ディートリヒ卿は、部屋の外に」
ゆっくりと目を開きながら、ディートリヒに外に出ているように告げようとしたアウレリアは、彼の表情を見て口を噤んだ。こちらを見る視線はあまりにも真っ直ぐで、真摯で。
首を横に振ると、「俺も、ここにいても?」と彼は問うてきた。
「手を離して、ここにいるだけで良いので。……何もしませんから、あなたの傍にいても良いですか?」
静かに言う彼に、少しだけ気圧された後、周囲に視線を巡らせれば、侍女たちもまた戸惑ったような顔をしていた。
そもそも、なぜ彼が、いつの間にこの場所に入ってきたのか、アウレリアにはさっぱり分からないのだけれど。
(彼のおかげで、いつもよりもずっと早く、目覚められたのは確かだわ)
意識が混濁し、泣き喚き、周囲の手を振り払って。そうしてやっとのこと正気を取り戻していたというのに。
彼の声を聞いたら、すぐに目が覚めたのだ。ここが、現実なのだと。だから。
「……それならば、私が目覚めたら、《《目を覚まさせてください》》」
ここが現実だと、分かるように。まだ生きているのだと、信じられるように。
ディートリヒはゆっくりと頷く。真面目な顔のまま、「何度でも起こしてあげる」と言って、彼はアウレリアの手を握っていた自らの手を、放した。
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