8-2(ディートリヒ)
「そちらの方は、とても具合が悪そうですが」
頭の中に響く声に邪魔されて、何の音も上手く聞き取れない中、何故か彼女の、アウレリアの声だけは、真っ直ぐに聞こえた。返答するレオンハルトの言葉は、何と言っているのかまるで分からないというのに。
頭の中の声の主もまた、彼女の声を聞きたがっているようだ。そんなことを思った。
アウレリアはレオンハルトに、ディートリヒの状態を聞いているようだった。心配そうな様子に申し訳ないと思うと同時に、少しだけ嬉しく感じた。
彼女は素早くクラウスに指示を出し、ディートリヒが休めるようにと客間を手配してくれた。このような場所で座り込んでいては、アウレリアもレオンハルトも、帰還式へは向かいにくいだろう。それに、休むことは出来ずとも、一人でいる方が少しは気が楽である。素直に有難いと思いながら、彼女の言葉に耳を傾けて。
とん、と、彼女の手が肩に触れた。
(……あれ?)
薄く、目を開く。その瞬間、不思議なことが起きたのだ。
魔王城からの帰路、光魔法を使おうと、魔法薬を飲もうと、何も変化がなく。一か月以上の間、ひたすらに頭の中に声が響き渡っていたというのに。
ぴたりと、止んだのだ。おかしな程に、一瞬で。
「彼の名前は?」
彼女がそう、レオンハルトに問いかけるのが聞こえた。髪色も目の色も、容貌さえも変わってしまったのである。彼女が自分に気付かないのも無理はなかった。
「彼の名前は……」と、レオンハルトが呟くのが聞こえる。彼の声がここまではっきりと聞こえるのは、随分久しぶりの事だった。眠ることが出来ず、食べ物が喉を通らず。ディートリヒの体力が落ちるのに比例して、段々と声は大きくなっていったから。
「ディートリヒ・シュタイナーです。殿下」
レオンハルトが、静かにそう答えた。一拍の間を置き、ディートリヒの肩に触れているアウレリアが、「……え?」と呟くのが聞こえた。
おそるおそる、身を屈め、こちらを覗き込んできた気配がして。ゆっくりと、ディートリヒも目を開ける。薄いベール越しに、彼女と目が合った気がした。
「王女殿下、に、ご挨拶、いたします……。俺は……」
声が消えても、ふらつく身体がすぐに回復するはずもなく。立ち上がることすら出来ず、せめて挨拶はと思い、至近距離でぼそぼそと呟く。
アウレリアは慌てた様子で、「良いのです。無理をなさらないで」と、ディートリヒの言葉を遮った。
「髪色が変わっていたから、気付きませんでした。大丈夫、……ではないですね。少しだけ待ってください。今、クラウス卿が客間を用意してくれていますから」
そう言って、彼女は自分の背後を振り返る。クラウスが来るのを待っているのだろう。レオンハルトもまた、「もう少しだけ我慢しろ」と、心配そうに言ってくる。
そうしているうちに、どこからか足音が聞こえて来た。一人ではない。おそらくは、三人。
久しぶりに、自らの耳が機能していると感じた。
「お待たせいたしました、殿下。客間の用意を申し付けてきましたので、すぐに向かわれても大丈夫かと。騎士たちを連れてきましたので、彼らに運ばせましょう」
目だけを向けて、様子を窺う。角を曲がって現れたクラウスの後ろには、彼の言葉通り、二人の騎士が従っていた。二人とも、真っ白な団服を身に纏っている所を見るに、アウレリア付きの護衛騎士なのだろう。
「殿下と、レオンハルト卿は式の方へ」と、クラウスは続ける。確かに彼の言う通りだった。ディートリヒがいなくとも問題ない、とまではいかないが、王太子はディートリヒの状態を知っている。何とでも言い繕ってくれるだろう。
しかし、アウレリアとレオンハルトは違う。彼らが謁見の間へと入らなければ、帰還式は始まらない。だから、クラウスの言葉に従い、彼が連れて来た騎士たちが手を貸してくれるのに、身を任せようとした。
アウレリアが頷き、騎士たちと場所を入れ替えようと、身体を起こす。その過程で、ディートリヒの肩から、彼女の手が、離れた。
「……うぁ……っ」
低く、ディートリヒは唸った。一気に、あの頭に響く声が戻って来たから。
急に呻きだしたディートリヒに、アウレリアが驚いたように動きを止め、「大丈夫ですか!?」と声を上げる。再び彼女の手が、こちらに伸びて来て。
ぎゅっと、その手を掴んだ。
「……ああ。そういう、こと、か……」
ぼそりと、呟いた。
頭の中に響いた声は、またしても、跡形もなく、消えていた。
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