42-1(ディートリヒ)
「いや、もうここで移動させてくれれば良くないか? 早い方が良いだろうから」
『黒の森』の調査のために、黒騎士団の者たちを移動させるという目的で呼ばれた、王太子イグナーツの執務室。時刻はすでに、夕方に近い。アウレリアの元に届けられた依頼書から、ディートリヒは自分が、今日はあくまでもいつ、どこに、誰を移動させるのかを打ち合わせるものだと思っていた。実際、イグナーツはそのつもりだっただろう。しかし、だ。
黒騎士団の一人であり、勇者という称号を持つ実力者として呼ばれたレオンハルトは、二人の話を聞いていたのかいなかったのか、面倒臭そうな顔でそう言い放ったのだ。「どうせ、することはいつでも同じだろう」と。
「近くの村にでも飛ばしてくれれば、荷物なんかは調達できる。今日はそこで休んで、しばらくはそこを拠点にして周囲を探るつもりだから、明日にでも神殿にビアンカ達の派遣要請を頼む。合流次第、そこから森の奥に調査範囲を広げれば良い」
さらさらと、彼は何でもないことのように言うけれど。魔物の棲み処である『黒の森』に入ることをここまで軽く言えるのは、彼がそれ相応の実力者だからだろう。他の騎士たちは、はたしてどう思うか。
一人、執務用の椅子に腰かけたイグナーツもまた同じことを考えたようで、ディートリヒと同じく、執務机を挟んで立ったままのレオンハルトを見上げるようにして、「部下たちには何と言うつもりだ?」と問い掛ける。レオンハルトは首を傾げながら、「何も」と答えた。
「今日のところは、俺だけで良いから。明日の朝から森の中を調査してるから、少しずつ、他の騎士たちを送ってくれれば良い。……調査って言っても、何かあるのは間違いないんだ。最終的にはドラゴンが飛び出してくるって話だし、早めに動いて損はないだろうから」
『黒の森』を調査する都合上、レオンハルトはすでに話してあった。人里に現れる魔物の数が急激に減ることも、後に現れるドラゴンのことも、それを追い立てたのが人間であるだろうことも。
確かに、調査が早いに越したことはない。早く異変が見つかれば、早く対応できるのだから。しかし。
「一人で行くつもりか?」と、イグナーツは渋面を作って呟いた。
「レオンハルト卿が相当な実力者であることは、この目で見ていたから知っているつもりだ。だが、いくら森の奥に進まないとしても、一人で行くのは……」
イグナーツの言葉に、ディートリヒもまた頷いた。さすがに一人というのは素直に同意出来ない。「魔物だけじゃなくて、相当な力を持つ人間も、森に入り込んでいるかもしれない」と、ディートリヒも言葉を続ける。
しかしレオンハルトは首を横に振った。「いや、一人の方が良い」と言って。
「ディートリヒの言う通り、相手が人間なら、尚更だ。誰も知らない内に入り込んで調査した方が、誰にも気づかれず、見えてくるものもあるだろうから」
そう、真面目な顔で告げるレオンハルトの言葉は一理あるもので。ディートリヒと目を合わせたイグナーツは、諦めたような表情を作ると、一つ息を吐き、「分かった」と呟いたのだった。
そうして、当初の予定を完全に裏切る形で、レオンハルトを『黒の森』にほど近い、国境の村まで送り届けたのである。
(一人だけ放り出すわけにもいかないし、俺も一度向こうに行くことになったから。……少し、疲れたな)
いつの間にか、日が落ちる寸前の時刻となっていた。最初から予定していたのならば、もう少し準備も出来たというのに。急なことだったものだから、慌てて魔法陣を描いたりと、なかなかに疲労を覚えてしまった。
そろそろアウレリアの終業の時間でもあるため、心配しているだろうと、足早に彼女の執務室へと向かう。騎士であり、体力があるとはいえ、魔力を消耗して疲労した身には、彼女の部屋の重々しい扉が、いつもよりも重く見えた。周囲の護衛騎士たちに挨拶をした後、一つ息を吐き、ゆっくりと扉を押して。
「……昨日、あまりぐっすり眠れていなかったようなのです」
聞こえて来たのは、彼女のそんな呟きだった。
「私が身動ぎをした時に、すぐに目を覚ましていたようですから。とても疲れていたようなのに」
心配そうな声音で呟かれた言葉。その対象が自分であることにすぐに気付き、内心で苦笑する。気付かれていたか、と。
(色々考えて、結局あんまり眠れなかったんだよね。体調も元の通りだし、少しくらい眠らなくても大丈夫なのに)
自分のことを心配する彼女の言葉が愛らしくて、嬉しくて。思わず頬を緩めるディートリヒの耳に、「そうですね」という、クラウスの声が聞こえた。
「ディートリヒ卿の影に宿る魔王を、私の影に移せたら良いのですが。魔王がそこにいるから、殿下と卿は共に眠っているのでしょう? 卿も魔王がいるから眠れないのでしたら、私の影に魔王を移して、一度落ち着いて一人で眠る時間を与えられたら良いかもしれませんね。……私が、殿下の傍にいれば良いので」
「たまには、一人でゆっくり眠るのも良いでしょうし」と続いた言葉に、ディートリヒは固まる。「は?」と、ほとんど吐息でしかない低い声が、零れた。
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