39-2(ディートリヒ)
目の前にいる、愛おしいたった一人の人は、あまりに無防備で。きっとこちらの葛藤なんて、気付いてもいないのだろう。
そんな無情なところさえも愛らしいのだから。あとはただ、自分が耐えるしかないのだ。
(婚約式まで、あと一週間ほど。王太子殿下は、せめてそれまではと言っていたけれど)
本来ならば、王女や貴族の令嬢が嫁ぐ際、その結婚式まで純潔であることが求められている。他国の王族に嫁ぐ場合もあるため、結婚前に他の誰かの子を身ごもっている可能性があってはいけないからだ。それは、相手が国内の高位貴族であっても同じこと。
ディートリヒもまた、高位貴族の仲間入りを果たしたわけだが。自分の場合、彼女と離れている時間の方が少ない、というよりも、ほとんど傍にいるような状態であるため、別の誰かの子を身ごもる隙など存在しないと言って良い。だからこそ、王太子もまたあのようなことを言ったのだろうけれど。
(あくまでも、王太子殿下の言葉でしかないんだよね。婚約式のあと、結婚式を行うまではおおよそ一年くらい、か。……やっぱり駄目だ。殿下が許してくれたとしても、俺が許せない。だって、もし)
もし、子供を身ごもってしまったならば。
開かれたばかりの、『女神の愛し子』の生誕祭。神殿の前に集まった人々と、その歓声を思い出す。
これまでは、彼女が自分を受け入れてくれるならと、そう考えていた。彼女さえ良ければ、それで、と。けれど。
あれほどまでに民に愛される彼女に、ほんの少しでも、瑕疵を作るわけにはいかなかった。彼女自身のためにも、絶対に。
(拒絶してくれれば、それで良い。でも、受け入れてくれたら? 俺のことを、求めてくれたら? ……加減なんて、出来るわけないじゃないか)
口付ければ、絶対にその先を味わいたくなる。その肌を暴きたくなる。彼女が拒絶すれば、止めることも出来るだろう。けれど、そうじゃなかったら。
全て全て、その身体の隅々まで自分の物だと印をつけて。しつこいくらいに、この腕の中に留め置くだろう。時間という概念を忘れるくらい、ずっと。
そうすれば、どうなるのか、なんて。貴族的な学のない自分でも、分からないはずがない。
(彼女は、国民を愛し、愛されるべき人だ。防ぐことの出来る瑕疵は、一つも作ってはいけない)
例えば、辺境伯爵に嫁ぐ王女でありながら、結婚前に子を宿している、のような。
避妊する方法はいくつも考えられるけれど、その全てにおいて、確実だとは言えなかった。彼女が自分の名誉を傷つけるのは構わない。元々、ただの孤児で平民である。そのようなもの、なくしたところで何とも思わない。
けれどその逆は、絶対に許せない。
ならばやはり、自分が耐えるしかないのである。生殺しであろうと、何だろうと、絶対に。
「……本当に大丈夫ですか? ディートリヒ」
思い悩み、一人決意を決めていたディートリヒに、アウレリアが不思議そうな声でそう問いかけてくる。
いつの間にか、ティーカップへと向けていた視線を彼女の方へと戻せば、その紫の目が真っ直ぐにこちらを見ていた。
宝石のように美しい、きらきらとした紫の目。その目を覆う黒く長い睫毛に、整った眉。ふっくらとした頬が柔らかいのは、身をもって知っている。その唇があまりに魅力的に、桃色に輝いているのかも。
(……俺だけなんだよね。彼女をこうして、この目にすることが出来るのは)
この愛らしい顔と、そこに浮かぶ表情の全て。目にしているのは、自分だけなのだ。自分だけが、本当の彼女を知っているのだ。
彼女の家族さえも知らない、本当の姿を。
「……ディートリヒ? もう寝ましょうか? あなたも疲れたでしょう」
返事のないディートリヒに、アウレリアは本当に心配になってしまった様子でそう声をかけてくる。ティーカップの中のカモミールティーを、何口かに分けて飲み干し、立ち上がると、こちらに歩み寄ってきた。ディートリヒの手を取り、軽く引っ張るような仕種をする。
その愛らしく、優しい動作に、びくり、と思わず身体が揺れたけれど。彼女は気付いていない様子で、心底ほっとした。
「早く寝ましょう?」と、彼女が首を傾げる様が、彼女の愛らしさに酔った自分には、誘われているようにしか見えなくて。
その紫の目から必死に目を引き離して、微笑む。「ごめん、アウレリア」と、言い繕いながら。
「部屋の方の灯りを消し忘れた気がするから、行ってくるね。少し時間がかかるかもしれないから、寝る用意をしていて」
誤魔化し、誤魔化し、言葉を紡ぐ。「灯りを消すだけで?」と、アウレリアが不思議そうにするのを、聞こえないふりでやり過ごす。今からいつも通り、彼女と共にベッドに横になるのだ。とてもじゃないが、ことあるごとに彼女へと向かう己の欲を、誤魔化せる気がしなかったから。
(こんな会話も、この状況も。何一つ、これまでと変わらないのに)
昨夜は、一晩中彼女が傍にいなくて。その淋しさの反動か。彼女が今日、ようやく成人したという事実か。それにより、暗黙の了解として、彼女の正式な婚約者となったためか。
おそらくは、その全て。何もかも全てが、必死に自分の身体を制御している理性を揺り動かしているのだろう。彼女のためと思えば、負けるつもりなどないけれど。
ぽすり、と彼女の黒い髪を撫でて、もう一度微笑む。「行ってくるね」と言った言葉に、ふわりと笑った彼女が、「早く帰って来てくださいね」と応えた。それだけで、胸が痛いほどだというのに。
(……男神様が、この先、用がある時以外はこちらに関心を持たないと言ってくれて良かった)
必死にアウレリアの髪から手を放し、立ち上がって踵を返しながら思う。神殿で、再度自分の影に潜っていく際に男神はそう言ったのだ。〈もう、其方ら人間に興味はない。この身を清めることを優先させる〉、と。
そうでなければ、例え魔王に堕ちた身といえど、神に対しておかしなところを見せてしまうところだったと、内心で自嘲しながら、ディートリヒは一度、共有の寝室を後にしたのだった。
翌日、ディートリヒを訪ねてきた王太子が、「手を出してないよね?」と唐突に問うてきて、驚いた。素直に頷けば、彼はほっとしたような表情になり、恐ろしいことを口にした。
「父上と昨夜、二人で呑んでたんだけどね。『アウレリアのことを助けてくれたことには感謝しているし、気に入ってもいるが、結婚前におかしなことをすれば婚約を破棄する前に即刻叩っ切る』とか言い出したものだから。良かった。私も、未来の義弟候補が父に切られるところは見たくないからな」
そう晴れやかに笑って言う未来の義理の兄の姿に、内心で昨夜の自分を盛大に褒め称えたのは言うまでもないだろう。
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