前編
「アレクシア・アトリー! 今日、この場を以て貴様との婚約を破棄させてもらう!」
王立高等魔法学園の卒業パーティーの場に、そんな声が響き渡る。
それによって、賑やかだった会場は一瞬で静まり返った。内容に驚いたことに加え、その声の主がこの国の王太子バーナード・ブレアであったからだ。
彼は、淑女として完璧な彼女としては珍しく驚いた顔で固まるアレクシアを、勝ち誇った顔で指差しながら続ける。
「貴様は公爵令嬢である己の地位と権力を利用し、キャロライン・ケイフォード嬢を害してきた! その証拠もここに挙がっている!」
キャロラインは激怒した。
必ず邪知暴虐の王太子を除かねば――とまでは言わなくとも、一発くらいぶん殴らなければならないと決意した。
キャロラインはこの宣言に纏わる事情がよく分かっている。キャロラインはケイフォード子爵家の令嬢である。地方貴族の娘として、お茶会と刺繍をして暮らしてきた。
だが、この場での王太子の言っていることが全く分からなかった。
学園生活の中で、確かに何度か嫌がらせのようなものを受けたことはあった。
しかし、それらはいずれもアレクシアの仕業ではない。そもそもアトリー公爵家の権力を駆使すれば、嫌がらせ如きで済まさず、もっと酷いことがいくらでも出来た筈だ。その気になれば地方貴族の子爵令嬢如き「事故死」させることなど造作もないだろう。そんなことはキャロライン自身よく分かっている。
それに何より、アレクシアはキャロラインの友人である。そしてキャロラインのよく知る彼女は、アトリー公爵家の令嬢として気丈に振る舞いながらも将来の王妃という立場に不安を抱える繊細で心優しい少女であり、王太子が述べるような悪辣な令嬢ではない。
「よって、ここに貴様との婚約を破棄し、キャロライン・ケイフォード嬢との婚約を――」
「コリン!」
得意気に続ける王太子の言葉を遮るように、キャロラインは弟の名を呼んだ。愛らしい声はそのままだが、常の甘ったるさすら感じるような優しい声色ではなく、作戦会議室で部下を呼びつける指揮官のような、凛とした声であった。
呼ばれたキャロラインの弟コリンはケイフォード家の長男であり、その姉弟仲は非常に良好であるということは学園内では有名だ。彼はすぐに短い返事と共に在校生の人込みから躍り出てくる。
「お呼びですか、姉さん」
「私、今からケイフォード子爵家とは縁を切るわ」
「えっ? 姉さん、それは――」
「こンの、バカ王子がぁぁぁぁーっ!!」
愛らしい姉の珍しい剣幕にも怯むことのなかったコリンであったが、流石に突然の縁切り宣言には狼狽した。
そして彼が何かを言うより早く、キャロラインは王太子の方へと向き直ると、ドラ息子に激怒する母親もかくやとばかり思われるような声で怒鳴り、一歩、二歩、三歩、身体の捻りも加えた必殺の右ストレートを放った。
その拳が王太子の頬を捉えるまで――否、完全に捉えて王太子がコマのように回っても、その場の誰もが、その出来事に反応出来なかった。
何より、普段のキャロラインからは想像もつかないような怒鳴り声と、公の場で王族を打擲するという蛮行に驚愕していた。
「キ、キャロル……?」
痛む頬を手で庇いながらも、辛うじて何かしらの行動を起こしたのは王太子のみであった。その行動というのも、精々彼女の名を恐る恐る呼ぶくらいであったが。
しかしその行動がキャロラインにとっては火に油を注ぐ行為に他ならなかった。
「どういうご了見で私を愛称でお呼びになるのですか!? あらぬ誹りを受けますからおやめくださいと何度も申し上げましたでしょう!」
彼女の脳裏に、今までの学園生活が浮かび上がる。
キャロライン・ケイフォードが自分に日本人としての前世が存在するという記憶を自覚したのは、6歳の時であった。そして、その時にここが前世でプレイした女性向け恋愛シミュレーションゲームの世界であり、自身がその主人公であったことも思い出した。
彼女は悩んだ。
ゲームのシナリオを楽しんだのは確かだったが、メインの攻略対象であるバーナード・ブレア王太子が、彼女にとっては「生理的に無理」だったのである。一国の王子の癖に、美しく完璧な公爵令嬢であるアレクシア・アトリーを疎んじ、どこの馬の骨とも知れないポッと出の子爵令嬢に熱を上げる浮気男。何が「真実の愛」だ。安っぽいにも程がある。
しかしこのゲームは攻略対象によって攻略難易度が全く異なり、王太子は非常に簡単に攻略出来てしまうキャラクターなのだ。つまり、キャロラインが何もしなくても王太子から寄ってくる可能性が高い。
15歳の春、高等魔法学園に入学して以降はそれをありありと体験してきた。
入学式の日、道に迷った主人公を王太子が案内することになって出会うと知っていたキャロラインは事前に校内の構造を把握し、迷わず会場へ向かった。
王太子とは何故か会場である大講堂前でバッタリ出会った。それ以来、彼はキャロラインの行く先々に現れ、彼女に馴れ馴れしく接してきた。
そこで彼女は王太子の婚約者であるアレクシア・アトリー公爵令嬢に相談することにした。下位貴族が上位貴族を直接訪ねるなど、常の貴族社会では許されることではないが、自主性を重んじる学園内であれば接触が出来る。無論、それでも公爵令嬢に子爵令嬢がいきなり声を掛けるわけにはいかないので、アレクシアの取り巻きの中でも温厚な方である伯爵令嬢に取次ぎを依頼して、きちんと順序を踏んだ上でのことだった。
そしてすぐにアレクシアと仲良くなってしまった。最初こそあからさまに警戒されていたものの、あっという間に打ち解け、気付けばアレクシアの取り巻きグループに入り込んでいた――というより、幼少期に実母を喪ったアレクシアにプライベートでも寄り添うようになってからは随分と気に入られ、卒業後はアトリー公爵家の使用人、もといアレクシアの侍女となることを打診された程であった(勿論喜んで引き受けたので、卒業後の就職先は既に決まっている)。
また、アレクシア以外の令嬢との友好や、友人達の問題解決にも積極的に励んだ。キャロラインとしては王太子以外の攻略対象にも食指が動かず、最早学園内で結婚相手を探そうとはあまり考えていなかった為、代わりに高位から下位まで様々な貴族令嬢との社交関係を広げることに腐心した。
しかし、その結果はキャロラインとしては不本意ともいえる方向に進んだ。
キャロラインの容姿はその年齢に比して早熟である。顔立ちはやや幼さがあり、体格も年不相応な程小柄だが、成長するにつれて身長に対してグラマラスな体形になってきた。当人は「流石乙女ゲーム主人公」と感心したものだが、前世の記憶を自覚した6歳から、食生活から適度な運動、美容に至るまで、積極的に身体を磨いた影響も大きい。下位とはいえ貴族の生活を楽しむに当たって、前世の知識を活かしたエステの類を大流行させたのは彼女である。
して、その身体に宿る性格は40年近い人生経験を持つ日本人だ。別に結婚はしていなかったが、ただ社会教育施設で10年以上勤務し、大人から子供まで様々な人々と接してきたことに起因する、母性のようなものが備わっていた。
その全てを受け入れてしまうような受容性と慈愛、時に見せる厳しさとそれに伴って感じられる愛情。親から愛情よりも政略を優先されることが少なくないこの世界の貴族子女にとってそれらは往々にして慣れないものであり、当然ながら耐性などというものがない者が圧倒的多数だった。
結果、キャロラインは当人の与り知らぬところで「学園の女神」「聖母」「全学園生の母」などという異名をほしいままにした。
つまり、学園生の大半はキャロラインの信徒ともいうべき状態なのだ。同級生であるこの場の卒業生達は勿論、下級生や既に卒業していった一部の上級生まで。
勿論それは王太子を始め、攻略対象達も例外ではない。
キャロライン自身は「皆と何とか仲良くなった」という認識なのだが、ありとあらゆる学園生達が彼女に懐き、甘え、侍っていた。ある日のアレクシアはキャロラインに膝枕されながら「キャロルが単なる子爵令嬢に過ぎないことを皆は忘れているのだろうか」と思ったこともあったが、彼女含め誰もが最早気にしていなかった。
さて。
「私は日頃から申し上げておりましたよね! アレクシア様を大切になさってくださいと!」
怒りを露わにするキャロラインを、尻餅をついた王太子は座り込んだまま見上げていた。
キャロラインという子爵令嬢の助走をつけた右ストレートをその端正な顔で受け止めたバーナード王太子だったが、彼はそれに対して恥も怒りも感じていなかった。
否、困惑の後に内心恥じ入り始めた。しかしそれは子爵令嬢に打擲されたことに対するものでも、その子爵令嬢の前に無様に座り込んでいることに対するものでもない。
キャロラインに叱責された自分自身に恥じ入っているのだ。
「良いですか! 殿下は我が国の頂点に立つ国王となられるお方なのですよ! 人々の上に立ち、国民を幸せにすることをお望みならば、まずは婚約者を幸せに出来なくてどうしますか!」
王族に対して不敬ともとられかねない――否、間違いなく不敬な物言いであったが、誰も突っ込まない。
キャロラインは続ける。
「アレクシア様は完璧なご令嬢です! 成績優秀、容姿端麗、文武両道、才色兼備、全て彼女の為にあるような言葉です! そんなアレクシア様を娶られるというのに、それ以上に何を求められますか!」
正直な話、キャロラインは内心ではこの王太子にアレクシアは勿体ないのではないかと何度も思った。
しかし、他でもないアレクシアが将来国母として王妃になる覚悟を決めており、王太子と可能な限り幸せな家庭を築くのだと夢見ており、それに向けてあらん限りの努力をしていたので、彼女もそれを応援する為に様々手を尽くしてきたのだ。
確かに、ゲームではアレクシアは王太子に気に入られたキャロラインに嫉妬し、取り巻きを使って苛烈な嫌がらせをしてくる。
だが、転生した今のキャロラインにとってアレクシアは可愛い可愛い親友で、卒業後は自分を雇ってくれる主人だ。
そんな努力を、王太子はこんな場所で水泡に帰そうという。
最早キャロラインにとって、彼女自身の進退などどうでも良い。この後王太子打擲で投獄されようが処刑されようが知ったことではない。兎に角、アレクシアの努力を足蹴にする王太子の行為は彼女にとって許し難いものであった。
「確かに学園で多少の嫌がらせを受けたことはあります。ですが、いずれも軽い悪戯ですし、2年生になってからはすっかりなくなりましたから今は気にしておりません。そしていずれもアレクシア様は関与しておられないと、私は信じております」
キャロラインに対する嫌がらせは、当初確かにアレクシアの取り巻きによるものだった。しかしそれはアレクシアが指示したわけではないし、後に当人達から謝罪を受けている。
それとは無関係の嫌がらせも多少はあったが、いずれも前世の経験のあるキャロラインにとっては耐え難いといった類のものではなく、そしてそれらも全て後に謝罪を受けた。
そして2年生になって以降はそういったことは一切なくなった。アレクシアと懇意にしていたし、王太子に気に入られていると噂になっていた為、彼女に手を出すのは愚者のすることだと誰もが思っていたからだ。
「それにアレクシア様が本当に私を害されようとなされば、私はこの場に居りません! 場合によってはこの世にも居りませんでしょう!」
「えっ、いや、それは……」
アレクシアがその気になれば子爵令嬢などいくらでも消せる。オブラートに包もうという気概すら感じられないキャロラインの言葉に、周囲の人々も流石にドン引きした。
確かにそれは誰もが知る事実であり暗黙の了解ではあったが、あくまで暗黙は暗黙であり、堂々とそれを口にする者など見たことがなかったのである。
しかし裏を返せば、それはアレクシアがキャロラインに害意を持っていないという証明でもあった。
今やこの場にアレクシアが罪人であると考える者など皆無であった。否、最初からそのような者がどの程度存在したかは不明だが。
「それと、殿下。私の聞き違いであることを心の底から祈りますが、先程私が弟を呼んだ時、何と仰いました?」
「そ、それは……」
「聞き違いであれば良いのです。もしや、私と婚約しようなどとは言っておられませんわよね?」
「……」
俯いて黙り込んだ王太子に、キャロラインは天井を仰いだ。赤と白を基調とした装飾の入った梁と天井が目に入る。目を瞑り、息を吸い込み、視線を王太子に戻す。
「婚約者の公爵令嬢を蔑ろにして、子爵令嬢と婚約をしようなどとは何事ですかっ!!」
ここ一番の鋭い声に、思わずその場の全員がビクリと肩を震わせた。
「いや、しかし、キャロル……」
「キャロラインです! 殿下にそう呼称いただく立場にはございません!」
「キ、キャロライン……」
「何ですか」
「わ、私は、その……」
「……」
「君を、その、なんだ……キャロライン、君を、愛しているんだ」
「は?」
直後、怒りに染まっていたキャロラインの顔から、表情がすっぽり抜け落ちた。
普段の声の愛らしさすら消え失せて、ただただ威圧感のある低い声に、王太子も思わず怯んでしまう。実際的にそれは威嚇に他ならなかった。
一介の子爵令嬢が王族にそのような態度をとることなど本来は許されることではないが、今のキャロラインは無敵である。
「子爵ですよ? 子爵の娘ですよ? 私に王太子妃が、ひいては王妃が務まると、本当にお思いですか?」
気温がどんどん下がっていっているのではないかと勘違いする程に、場の空気は凍り付いていく。
実際には、会場の気温は徐々に上がってきていた。
キャロラインの身体から熱気が発せられているのである。
魔法の才に恵まれている彼女は、この世に存在する炎、水、土、風、光、闇の6属性全ての魔法を使うことが出来る。流石に個々の属性の能力においてはそれぞれ専門とする魔術師達に敵わないし、闇属性に至っては一応使えるというだけで実用性は皆無なレベルなので使えないも同然である。
しかし、適性のある光属性だけは他者の追随を許さない王国最高――否、世界最高峰の使い手であった。
光属性は平民に発現すれば貴族家に養子として迎え入れられる程の稀少属性だ。その分、研究が進んでいない節があり、高等魔法学園でも「怪我や病気を治癒する」「強い光を発する」「中空に爆発を引き起こす」等といった特徴以外にはキャロラインが実際に使用して研究する他なかった程に資料が少なかった。
して、前世の知識のあるキャロラインはその特徴を「純粋なエネルギーの放射」と考察していたし、実際的にその考察は正しかった。
光属性の本質は魔力を莫大なエネルギーに変換し放射する、いうなれば「無属性」であり、光を発するのはその副次効果に過ぎないのである。キャロラインは魔力を投射することで人体の透視や攻撃力を持った熱線の照射、更には不可視光線の照射による暗視等も可能であることも突き止めていた。
また、生物に光属性の魔力を流し込んだ場合、その生物の代謝を高め、回復力を劇的に向上させることで生物の怪我や病気を治癒してしまうことも出来る。それこそが光属性が有難がられる所以なのだが、しかし同時に加減を間違えれば遺伝子異常や突然変異をも引き起こす危険性も持っていた。
今、彼女の身体から空気中に放たれる光の魔力は空気に反応し、熱として放出されているのである。よく見ると青白い光を放ち始めている。放出される魔力によって空気中の物質の局地的電磁場が乱れ、それが元に戻ろうとする力によって光子が放たれているのだ。
それに気付いたコリンは、最早已む無しと判断して姉に掴みかかった。
魔力を持ち抵抗力のある者ならばその可能性は低いが、このまま高濃度の魔力を浴び続ければ周囲の人々は後遺症が残る害を受けかねない。事実、キャロラインが過去に起こした同様の事故に居合わせてしまった女中の一人は、未だに身体が肥大化しやたらと筋骨隆々になる奇病を抱えている(女中本人がそれをかなり楽しんでいる節があるのはこの際置いておくが)。
「っと……コリン、じゃなかった、コリン様」
「姉さんは姉さんです! 僕はまだ縁切りを承服したわけではありません!」
背後から肩を掴まれ、そちらをキッと睨みつけたキャロラインだったが、相手が弟であると分かるとすぐにその表情を緩める。しかしその態度は子爵令嬢、ひいてはコリンの姉としてのものではなかった為、彼はそれを即座に否定した。
「ですが、私は王太子を打擲しました。刑法に当てはめれば、大逆罪です」
愛する姉の余所余所しい言葉遣いに、コリンは内心傷付いた。
王族に危害を加えることで適用される大逆罪には、王国刑法では死刑のみが規定されている。また、同法には必要に応じて親族の連座もあり得ると記されている。
それに照らし合わせれば今のキャロラインは裁判にかけるまでもなく死刑が決まっており、仮に連座されなくても今後貴族社会でのケイフォード子爵家の立場を危ういものとする。それが分かっているからこその縁切り宣言であった。
しかし、コリンの姉に対する家族愛はそんなことで揺らぐものではない。
「それが何だというのです! 大逆罪も、その連座も、望むところです! 姉さんはケイフォード子爵家の娘です!」
「コリン……」
前世の記憶があるキャロラインにとっても、現在の状況は未知数だ。
否、もっと前から――具体的には、高等魔法学園に入学した直後から、この世界の「原作」である乙女ゲームのシナリオは中途半端にしか機能していない。彼女はその原因が自身にあることをよく分かっていたが、態々ゲーム通りに動いてやる気もなかった。
取り敢えず王太子がキャロラインに付き纏い卒業パーティーの場で事実性も合理性も説得力もまるでない喜劇的断罪劇に走る程度には機能していたようだが、それも彼女が知るそれとは状況が全く変わってしまっている為、最早この世界は彼女にとって予想がつくものではなかった。
だからせめて子爵家には迷惑を掛けまいと突き放そうとしたのだが、ゲームで頼れるお助けキャラだった弟は、本当にどこまでも頼りになるらしい。キャロラインは弟の――ケイフォード子爵令息の覚悟を侮ったことを恥じた。
「ふぅー……」
言いたいことは粗方言ったので、キャロラインは息を吐いて両手を挙げた。まだ何かされるのかと王太子が一瞬震えたが、彼女はそのまま動かない。
周囲の者達も全く動かない。
あれっ、と思ったキャロラインは周囲を見回し、そしてその視界にやはり硬直したまま動かない衛兵の姿を捉えると、口を開いた。
「申し上げることは以上にございます。衛兵の皆様、王太子殿下に無礼を働き、あまつさえ打擲した大逆罪の下手人はここに居ります。抵抗はいたしません。拘束なさいませ」




