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序章 回想

 桜が咲き誇っている。

 隅田川の堤防を大勢の民が行き交う。

 ほら、歩いている民の顔を見てみろ。

 皆が笑顔で桜を楽しんでいるぞ。


 城から眺める桜並木は、街に広げた帯のようだ。

 俺が守ってきた街を淡い桃色の帯が彩る。


 菩提寺には大きな桜の木があるんだ。

 城や街に植えさせて桜とは比較にならない程にな。

 そんな桜の木の側で眠れるのが楽しみだよ。


 守りたかった笑顔、守れなかった人々の顔が浮かんでは消え、浮かんではまた消えゆく。

 語りかけるべき相手はここにはいない。

 喜びを分かち合う友はここにはいない。

 守りたかった家族はここにはいない。


 

 ここは江戸城の大奥、部屋は総畳敷きなうえに柔らかない巻き(当時の寝具)、上品な香が焚き染められ襖には狩野派による金が贅沢にあしらわれた絵が描かれている。


 全くもって俺の好みに合わない部屋。

 死にゆく俺がこの部屋を使うのは無駄でしかないだろう。

 いや、香は死の匂いを消すためには有効か。


 もう体は動かない。

 中風(脳卒中)だろう。

 以前から兆候はあった。

 ついに倒れたということだろう。

 まだやるべき事があったと思う反面、重い肩の荷が下りたとすっきりしたと思う気持ちもある。


 紀州を出るとき心に秘めた思い。

 やり遂げたこともあれば、現実に押し流され諦めたこともある。


 俺が将軍になったことで江戸幕府は、再び力を蓄えることができた。

 俺の子らが再び力を得た幕府の舵取りをどうやっていくのか楽しみである。


 神君家康公を見倣って起こした子らの家、両卿(のちの御三卿)は役人根性の抜けない重臣たちへの意趣返しを多分に含んでいるが、表向きの意味もなくはない。

 

 いや、やはりこの江戸にも愛着を持っているのだろう。

 俺がいなくなった後でもこの江戸ひいては日ノ本の民が心休まる世の中であってほしい、そういう思いで両卿を立てた。


 重臣どもは慣例が好きなくせに、俺が神君の真似をするのは烏滸おこがましいとのたまったがな。

 

 結局のところ責任を取るのが嫌で慣例に則れば自分に責任はないと安心するが、新しいことへの変化は不安で怖いといったところだろう。

 家康公もまさか自分をこのような言い訳に利用されるとは思わなかったに違いない。


 だからといって実行せねば元の木阿弥、足を引っ張ることしか能のない重臣どもと、まだ若い我が子らがやりあうのは心もとない。

 田沼も有能だがいかんせん重みが足らぬ。


 俺がいなくなれば、また重臣どもが慣例に則って、つまらん世の中にするに違いない。

 家重に将軍職を譲り大御所として体制を整えてきた。

 もう先のことは命ある者たちに任せよう。


 そろそろ頭も働かぬ。

 気持ちだけでも紀州に帰ろう。

 紀州に帰ったとて皆は許してくれるだろうか。

 あの日、友を、家族を、大切な人々を置いていくと決めたのは自分なのだから。

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