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ペトリコール

作者: 穹向 水透

63作目です。雨に濡れるのは好きではないです。



 私は夢を見る。

 それは彩度が著しく低いが、明瞭な輪郭を有していて、具体性が高い。総じて酷く現実的なものである。

 しかし、私は現実性というものがあまりわからない。今しがた述べたのは、恐らくは一般的に理解されているであろう、典型的な「現実性」の定義だと思しきものであり、確実な出典に依拠しているわけではない。

 この思考回路を「現実性がある」と表現すればいいのだろうか?

 何処から引用したのか?

 果たしてそれが正確であるのか?

 結果として発展に繋がるのか?

 それらを考えてしまう思考回路は具体性を重んじていると評することができるだろう。輪郭だってあると思える。つまり、それは「現実性」の範疇にあると考えて差し支えない筈だ。

 不確かではあるが、強ち定義から逸脱はしていないだろう。

 私だって、ずっと薄い輪郭の世界で息をしているわけではない。ヒト科の誰も彼もと同様に明確な輪郭を持って生まれた。非異常のヒト科と定義するのに過不足のない肉体であった。最低限の表現をすれば、知覚するのに足るパーツを有し、四肢を有していて、内部の構造も非異常の同種の模倣だった。その程度のことではあるが、これがヒト科をヒト科たらしめる最低限で標準の定義なのだ。

 その非異常性を有して生まれた私は、最低限の『人間』になった。

『人間』の定義もまた難易度が高い。

 私にはよくわからない。

 具体的な概念であるにも関わらず、やけに哲学的で、各々の価値観で定義が分岐している。言い換えれば、どのように論じても構わないということなのだが、私が『人間』を私なりに定義しようとした場合、私がその範疇から逸脱し、イレギュラになってしまう。

 だから、こう考える。

 ヒト科として生まれた我々は二種類の成熟の形態をするのかもしれない。ひとつは一般的な『人間』という形態。謂わば、これは望まれた形態である。遥かな昔よりのドミナンス。何のことはない。長い年月の間で非異常性と定義されたマジョリティ。

 もうひとつは「人間ではないもの」である。こちらに明確な名称はない。何故なら、本来は定義されないからだ。基本的に『人間』という概念に包含されている、細分化して漸く顔を出すような概念である。形態としてはネオテニーに近い。しかし、ウーパールーパーと近い、と表現すると語弊がある。あちらはあれが『人間』に該当するからだ。こちらはイレギュラである。マイノリティである。望まれなかった形態として、それでも生きていかないといけない、苦悩の姿。『人間』になるべきだったのに叶わなかった、という解釈もできる。

 私はこの形態を『夢想家』と呼ぶ。大気にさえ薄れてしまうような、日向にも日陰にも存在し難い、『人間』のなり損ない。

 かつて、私は『人間』になった。

 そう思っていた。

 けれども、違った。

 梅雨の晴れ間の陽に照らされて、私は気付いた。

 私の姿が何処にもないことに。

 私は『人間』になれなかった。

 そして『夢想家』だったことを知った。

「私は、酷く絶望したのか?」

 私が訊ねた。

「私は、望まれたかったのだろうか? そんな向上心の持ち主だったのだろうか? そんなものは端から欠落していたような気がする。私は、他の私が思うよりも私だ。だから、わかる。私は最初から『人間』ではないと知っていたんだよ。生まれ落ちたその時、既に。聞いたことがある。私は泣かなかったそうだ。一度、心臓さえもが止まったそうだ。私はその時点で『人間』になることを放棄したんだよ。諦めたんだ。だから、絶望なんか欠片もなかった」

 私は言った。

 窓の外では冷たい雨が降っている。雨は雲から降る。雲は甘いらしい。今は灰色に濁っているが、本当は甘いらしい。

 何故灰色なのか、それは胡椒を振り掛けて練り込んだからだ。

 きっと、今は辛いに違いない。食べるべきじゃない。

 病室の無機質なスツールに腰掛けている私が首を降った。

「絶望したよ、私は。酷く、酷く、ね。だからこそ、一度、死んだんだよ。それがあまりにショックだったから、脳が勢いに任せて心臓を解雇したんだ。それで、死んだ」

「けれども、生き返ったじゃないか。そのまま、死ねばよかった。そうすれば、こんなに苛まれることなんてなかったのに」

「死はヒト科の意思で引き起こすことができる。それは誰もが平等に持つ技能だよ。そういう逃げ道がなかったら命はあまりに理不尽な機構だからね。でもね、私たちが口にしていて、知覚できる死はあくまで境界線でね、その先はそれこそ神様のフィールドなんだよ」

「私は、有神論者だったのか? そんな概念上の偶像に縋らないとどうにもならなかったのか?」

 私が訊ねた。私は病室の窓の桟に腰掛けていた。庇のお陰で雨は当たっていないが、その開け放たれた窓から悪天候の冷えた空気が流入し、空間を一層陰鬱にしていた。

 私は頻りに窓の外を見ていた。

 窓の外には灰色に塗り潰された高さの異なる立方体がいくつもいくつもあって、それらが展望を遮っている。

 しかしながら、私の中にはそれを好む私がいるようであり、いつになってもその閉鎖的な景観が晴れることはない。

「神様なんていないよ。不可能の代理として利用しただけ」

 スツールの私が言った。私は飄々とした笑みを浮かべて、スツールの主観的な前肢を浮き上がらせている。

「でもね、私は縋るよ。そういう、概念上の存在にね。比喩としては不可能の代理だけど、標準の概念としては、ゴミ箱に近いんだ。私が抱え込んだ苦悩やら何やらマイナスのものを、全部、遺棄できる場所。場所を維持するにはね、名前が必要なんだ。あらゆるものには名前がある。そもそもの存在のために必要だからだ。コンピュータ内部にファイルを存在させ、区別させるのと同じようなもの。散らかっていたら、わからなくなるだろう? 私は『人間』ではないけれど、彼らと同等に近い処理能力が求められるんだ。ああ、話が乖離した、それでね」

 私はスツールの主観的な後肢を持ち上げる。

 窓際の私は少し苛ついているようだった。

「デウス・エクス・マキナって知っているよね? 訊くまでもないだろうけれど。あれだってゴミ箱に近い役割を果たしているだろ?」

「ゴミ箱でいいじゃないか、処理が減る」

「厳密に言えばゴミ箱じゃないから、ゴミ箱とは区別しているんだよ。そう言っているじゃないか。ねぇ、私は認めたくないのだろうけれど、神様は誰しもが抱えている概念だよ。有神論者、無神論者に関係なく、また、幼子、老人にも関係なく、そして、『人間』とそうでないものにも関係なく。神様という概念はヒト科が歴史の過程で製作したマスターピースだよ。自分よりも遥かに強大で壮大で計り知れないものを意識に据えることで、自分の存在を許容する依存の装置にしたり、或いは罰する装置として働かせることができる。ヒト科は自分自身を傀儡人形にしているんだよ」

「私はそうじゃない」

 窓際の私は抗う。

 私は窓の外の雨に触れようと手を伸ばしている。その行為に何の意味があるのか、判然としないが、私なりに意味があるのだろう。

 雨は勢いを強めたり弱めたり、遊ぶように降り注いでいる。幸いなことに風は吹いていないので、病室が濡れることはない。しかし、それも時間の問題であるように思える。

 私は眼を閉じる。

 私はいくつかのチャンネルのひとつ。

 無数の数字が光のように駆ける。

 数字が言葉になって、その意味が頭に浮かぶ。

 無謬。私にないこと。

 迎合。私を損なうこと。

 貫徹。私に叶わないこと。

 嚼囓。何の意味もない。

 嘔吐。形式上のリセット。

 残滓。私そのもの。

 永劫。忌まわしいもの。

 剥離。私の今。

「どうして扞格するんだ? 私なのに」

「私だからだよ」

「イレギュラだ」

「『人間』ではないからね」

 私はきっと憤然とした様子で身体を揺らしているだろう。

 私はきっと余裕の表情でスツールを傾けているだろう。

 私はきっと眼を閉じて遮断を試みているだろう。

 私はきっともういないだろう。

 何度も潜った銀色のゲートが構築される。脳の何処か辺境、月に似ている。月面の清掃に猛進する脳のゴーフルがあくせくと左右に移動している最中、私はと言えば、その見慣れたゲートの前で立ち竦んでいる。何度も見ているのにも関わらず、だ。

「どうして行かないんだ? まさか、怖じ気付いているのか? 私は、夢を見ることを恐れるのか? 夢こそが私の場所ではないのか? 何がそんなに恐ろしいんだ? 無音か? 無音なのか? 東西南北上下前後左右から何ひとつとして音がしないことが恐ろしいのか? 感覚器官の正常性は保たれている。これが正常なんだ」

「私は短絡的だな。本来、無音は恐れるべきだ。音を発生させない存在はない。風だって、波だって、雨だって、音を生む。それが何もないということは、つまり、私の居場所としては不適当だということになるんだから。それに、前提として私は臆病なんだよ。憶えていないかい? 白昼堂々の強盗に忍び込まれて、血を分けた弟が出刃包丁で殺されている中、私はクローゼットで必死に息を潜めていたじゃないか」

「憶えていないわけがない」

「私は考えたよね。それが正しかったのか、と。私は決して正しいとは思わなかった。悔やんだからね。後悔という念が生じたということは、肯定的ではないんだから。でも、全てが間違っていたとも思わない。ヒト科は、いや、万物は犠牲の上に成り立つからね。だからこそ、弱肉強食という形式が成立している。失われるものは失われ、そうして、失われなかったものが残っていくシステムなんだよ」

 私は歩き出した。多少の砂埃が舞った。何処からか酸いような匂いがあった。記憶の何処かにひっそりと絡み付いているような、そんな匂いだった。私は銀色のゲートを通過する。右と左の連続した足跡が私の痕跡である。そんな痕跡には今更、何の意味もない。

「少しだけ後悔したのは、弟が私よりも『人間』になれる可能性が高かったから。望まれていたんだよ、私より遥かにね。後になって理解したんだ。私がいよいよ『人間』ではないと理解した時にね」

 私が言う。高い声だった。

 湖畔には静かに雨が降っていた。物怖じしない鏡面のような湖面を雨粒が機械銃弾のように穿っていた。しかし、空は宇宙の色をしていて、加熱した蛋白質のように真っ白な星々が不気味に浮かんでいた。或いは嵌め込まれているのだろう。空が固形でない可能性を否定できはしない。空に具体性などないからだ。つまり、自由の範疇だ。

 雨の基地は真上に浮かぶ色彩の欠如した雲だった。恐らくは前哨基地であろう。ぽつんと浮かんだそれは寂しげだった。今は雨に濡れてもいいとさえ思えるくらいに。

 私は桟橋に立って、水面を眺めていた。

「私は、嫉妬していたのか? 弟に? 弟なんて私の模倣なのに? 憶えているだろう? 私が作り上げた積み木の城を真似るようにして、より小規模なものを作り出していたことを」

「比較するに値しないよ。彼は私と同じ年齢で、より高度な技能を有していた。客観的に聡明だったよ。足し算も引き算も私より早く習得した。文字だってそうだった。私は彼に何ひとつとして勝っていないよ。でも、仕方がないことだ。こういうのをね……」

「神様の気紛れ、か?」

「そう。わかっているじゃないか。それはそうだよね。私だから。結局は血を分けていても他人だ。他人は私が何をしてもどうにもならない。最初から私の要素として切り捨てるべきなんだ、本来はね。でも、切り捨てることは大概が悪い結果を招く。『人間』だってひとりで生きられないのに、私たちがひとりで生きられるわけがないだろう?」

「生きられる」

「違うよ。ひとりで生きざるを得ないだけだ。そう強いられなければ『人間』の欠片を有していることが叶ったかもしれない。私を見なよ。何もないんだ。全てが欠損している。それでも『人間』というタイトルが欲しいのなら、虚無を肯定しないといけない。でもね、それはとても虚しいことだし、そもそも、何もかも私の責任だよ」

「責任を捨てればいいじゃないか? 神様とやらは何のために創造されたんだ? 私の受け口だろう?」

「責任は原始的なんだ。私が私であるより前に生じたものだ。責任を捨てることは、私自身の破棄だ。ま、今となっては笑い話」

 私が笑って言った。

 雨が頭部を濡らし、濡れた髪の先から水滴が垂れ、皮膚を濡らし、肩を、胸を、腰を、腕を、足を、爪先を濡らした。

 私の輪郭が浮き彫りになるようで、私は気分が悪かった。

 あまりわからない状況下に放り込まれているようなものだ。

 恐怖に似た感情があった。

 雨は真上の前哨基地から淡々と降り注いでいた。その雲もまた張り付けられたように動かない。この空間は静止画なのかもしれない。でも、雨は降っている。酸い匂いだってする。

 アスファルトの芸術的な単子葉類が湖畔で擬似的に繁茂している。遠目に見てゴッホの星月夜のような印象の夜かもしれない。白んだ星と紙細工のような月と愚鈍な夜。

 ゴッホなんて懐かしい響きではないか。本物なんて一度も見たことはない。何処からの記憶で抽象的に補完されているのか、私には見当もつかない。記憶の探索は幾分か具体的で、現実染みている。

 私にとって、記憶はもう作業的に打ち止めで、疾うに保管庫と化している。要は記銘の作業が停止している。それはつまり、私に記憶という動作は存在しないことになり、保持と想起が関連する独立した動作として存在することになる。

 段々と視界の不明瞭な遠い下方が、ゴッホの糸杉のように変化する。些かディストーションが見られ、ほんの少し不気味になった。デリケートな空間である、と私は思う。それは私本来の性癖なのかもしれないが、判然としない。私はイレギュラなので、全てがそれの傘下である。

 私は桟橋に移動する。アスファルトの桟橋である。そして、徐に水面へと足を進める。それは凝固していて、私は悠々と歩くことができた。

 岸から五十メートルほど進めば、白鳥を模したボートが半ば傾いた状態で静止していた。それは首が折れそうになり、白いボディは惨めに煤けていた。中には誰もいなかった。

 なるほど、悪趣味な想起である。

「私は、火事がトラウマなのか? 転覆がトラウマなのか?」

「双方だよ。とは言っても、それら双方は誰しもが好ましいとは思わないだろうね。『人間』の話だけれども」

「私は火事が好きな奴を知っている。火の揺らぎが好きだと、落ち着くのだと、そいつは言っていた」

「火の揺らぎは落ち着くよ。私だってそうじゃないか。何の意味も脈絡もなく、ライターの火を点けて、それが揺らめく様を見ていたこと、私は憶えていないの? 一度、火傷したと思うけどね」

「嫌なことは忘れるためにある」

「確かに、私はそれに秀でていた。記銘したものは保持され、それが完全に失われることはないけれど、蓋をして鍵を締めてしまうことはできるからね。卑怯な手段だった。自衛のためだって言ってしまえば、そこそこ高等で『人間』みたいだったけど、『人間』からしたらデフォルトの機能で誇ることでも何でもない。寧ろ、誇ることじゃない」

「私は、『人間』に嫉妬しているのか?」

「嫉妬する他に何があるのか、私にはわからないよ。私だって、なれるものなら『人間』になって、『人間』として、『人間』らしく生きてみたかった。それが叶わなかった現実との乖離は叶ったけれど、それは客観的に酷く無様だったし」

 雨は止むことなく水面を穿っている。しかし、凝固している。穿たれた面は液体になっている。ダイラタンシーが逆さまになってしまったようだ、と私は思った。

 不意に流れ星が空の上端から下端へと斜めに流れ落ちた。

 こんな記憶が存在したのか、と私は首を捻る。

 不意に暗闇が訪れる。

 脳内に無数の数字。気障っぽく虚構の公式を弄ぶ。

 数字は言葉に変わる。

 勤勉。私に足りなかった。

 熱望。私に足りなかった。

 軽薄。私に足りなかった。

 理性。私に足りなかった。

 光度。私に足りなかった。

 虚無。私を満たしている。

 罪。罪。罪。罪。

 私のヒト科だった頃からのアクセサリー。

「私は、生きるに値しなかったのか?」

 簡素なベッドに腰掛ける私が言った。

「生きるに値するものがあっただろうか? 精査するまでもないよ。生きるに値するものがあったなら、それを求めることができたのなら、私は私ではなかった。『人間』にはなれなかったにしても、その逆へと向かうことになったりはしなかった」

「私は、私の行いの説明ができるのか?」

「できるよ。私は疲れていたんだ」

「それが行いの全てか?」

「そう。その時の私の全てだった。私は疲れていたんだ。現実と夢との違いすらもわからなくなってしまうほどにね。ぼんやりしてたんだ。夏の熱に当てられて生じた陽炎のように。私は唯一判然と理解した。夢が現実を侵食したのではなく、そもそも、現実に夢の芽があるんだとね。それが一斉に芽吹いたんだ。絶望やら希死念慮を養分にしてね」

「それが、言い訳か?」

「私は本当のことしか言ったことがない。でも、それは全て言い訳だと取られてしまう。私は私を正当化したいわけではないけれど、私に嘘偽りはなかった。それだけが私の矜持だったんだ」

 矜持。

 私は言葉を繰り返す。

 矜持。

 矜持。

 矜持。

 それは私の中の何だったのだろうか?

 酷く抽象的だったような気がする。

 せめて、普通に『人間』の真似をして生きて死ぬことが私の矜持だったのかもしれない。それすらも失ってしまった。

 確かに、嘘や偽りは私にはなかった。そんな技能は持ち合わせていなかった。だから、そもそもそれは矜持なんかではないのかもしれない。欠如を誇っていいものだとは思えない。

 私は手を合わせる。絡める。それは祈りの形になる。対象は被創造の神様。私の中の酷く幼稚な部分が愛撫される感覚があった。

 眼を閉じる。

 静かに幽かに、それでいて確実に、遠方の遥かから雨の音が聞こえていた。私は病室の冷やされた無機質な空気が嫌いだった。それに、ベッドの毛布の暖かささえもが嘘偽りというものの皮膚のように思えた。私は猜疑の念に満たされていた。きっと、葡萄ジュースのような、濃い、暗澹とした紫色の念だと思う。

 鳥が啼いた。いつの記憶だろうか。嫌いな朝の想起。

 聞き做しをしたら私を罵倒する言葉だった。

 それを皮切りに、雨音に混じって罵声が混入し始めた。

 混沌としている。

 私が混沌である。

「私は、何処にいるのか?」

「中空」

「それは何だ?」

「私はいつも都合のいい時にしか顔を出さない」

「中空に浮いているのか?」

「落ちているんだよ」

「落ちた先には何があるのか?」

「底。雨に濡れた底」

「死に直向きに接する私は美しいよ」

「来るな!」

「落ちたらどうなるのか?」

「死とは闖入者に他ならない。私はそれの案内人に過ぎない。私は私なりの役割を全うしているよ」

「落ちたら、時制が現在になる」

「回帰?」

「似て非なるもの」

「雨が冷たいのは何故か?」

「死滅回遊の魚たちが笑うような街だ」

「生きることは難しい」

「掌を穿て!」

「正当な回帰のためには材料が足りない」

「材料とは?」

「具体性」

「それは『人間』らしさと形容できるものか?」

「そもそも、具体性はヒト科の標準的な持ち物だよ。分岐の果てに私は具体性を喪失した。今は抽象性のアバター。前衛芸術みたいなもので、渦巻きをぐるぐる描いただけでも、絵の具をビシャッと撒き散らしたようなだけでも、それを私とすることができる。私とは不定形なんだ。しかし、何にでもなれる無限性を秘めているわけではないけれどね」

「私は、有限なのか?」

「そう。私は有限。所詮、一介の生命に過ぎないんだ。形が変化して、液化しようが、気化しようが、本質的な影は変わらないんだ。だから、無限ではあり得ない」

「帰れよ、私の影の中に」

「私は私だ。それ以外に表現できない。多角的で俗物的な表現をしても構わないのならね、私は貴方で、貴方は私なのさ。私とはひとつで全部で、裏返しても同じ。私は私だけの神格を私の中で飼い慣らしている」

「現実へ落ちろ」

「逆だよ。私が願うほどに、現実は牙を向く。長い長い徒労の羇旅の中で充分に理解しているだろう?」

「帰れ! ずっと欠損していた癖に!」

「今更なことだよ。私が帰って来ても、或いは何処かへ遁走しても、もう何もない。私は疾うに失われた」

「私は、失われたのか?」

「客観的に」

 私は眼を開ける。

 雨が強く強く、万物を穿ち、砕くように降り注いでいた。高度の関係か、髪を激しく靡かせるような風が東の方角から吹いていた。

 追放のイメージが脳裏に浮かぶ。

 アネモイのエウロスが優しく笑う。

 そして、西へ。

 西は私を受け入れてくれるのだろうか?

 雨に濡れた金属の柵に手を触れる。冷たさを知覚する。具体性である。触れたところだけは彩度が覚醒し、金属は濁った空を反射している。こんな具体性の夢の中にあって、私は私の輪郭が朧ぎ、また鮮明になる感覚に軽微な吐き気を覚えつつ、現実めいた低彩度の遠景を眺めていた。

 この判然なイメージは夢のものではない、と悟る。夢に顕現する物質も概して現実的な輪郭を有するが、何処まで展開しても夢であって、それらは現実のイミテーションと位置付ける他にはない。

 しかし、これは現実の要素が極めて濃い。

 つまり、記憶だ。それも純然たる記憶。

 記憶保管庫のエラー。

 数字の流出。

 そして、言葉への置換。

 産声。絶望の福音。

 抱擁。一瞬の。

 構築。素振りだけ。

 分岐。終わりへ。

 停止。自分らしく生きようと思った。

 再構築。何もかもが間違いだった。

 登攀。諦めれば、もっとまともな結果だったかもしれない。

 抵抗。無意味を象る。

 崩壊。青い空が遠くなったこと。

 病室。いつも、死んでいた。

 茫洋。見霽かすほどの夢を歩く。

 終点。良くも悪くも。

 雨音。私。

 跳躍。それが全部の収斂の結果だった。

 気が付けば、私は落下していた。そんな記憶が鮮烈だった。私を夢の中でさえ苛み、甚振るように無意識がそれを繰り返し放映した。

 しかし、私はいつだって酷く冷静だった。虚無の域にさえあった。最初のリープからそうだった。だって、あの時でさえ、私には何もなかった。勿論、『人間』ではないことは受容していたにしたが、『夢想家』としても私には何もなかった。程度と彩度の低い夢が一銭の値打ちなんかも有するわけがないことは理解していた。少なくとも、理解している風を気取っていた。そのニヒルな様が、ある種の私のアイデンティティだとでも思い込んでいたのかもしれない。

 面白いことに、それは数少ない共通項目だった。

 いつからか、私は分裂していた。私は四人の人格を匿うシェルターだった。それは、大まかにそれぞれ喜怒哀楽の性質を有する四人で、本来の私の代わりの機能を果たしていた。

 大抵は「哀」としての私が顔を出していた。その私は一番登場の機会が少ない「喜」の代わりでもあった。

 四人のそれぞれが消極的だった。仮に喜べても、気楽さを感じることができても、内側には雨のように冷たい暗鬱なものがあった。

 やがて、私はオリジナルの私を喪失した。誰の所為でもない。失われる運命だったと思うのが、一番まともであるように思った。

 罵声が鳴り響いていた。

 私への罵声だった。

 私は一心不乱に、最早、無意識に歩いていた。

 何度も見た夢の映像と相違なかった。

 夢の中では走れない。

 だから、慎重に歩く。

 けれども、落ちた。

 私の鼻腔を刺激したのは、雨上がりの匂いだった。洗い立てのシャツを干して、それが上手に乾かなかったような、そんなイメージ。少しの中毒性があった。それが鮮やかになったのは、私の頭が明確に割れて、そこから詰まっていた液体やら何やらが滔々と溢れ出した頃だった。生物的な温度の液体は愛情の色を輝かせながら、喧騒からは遠い、ビルとビルの隙間で広がっていった。

 最初の時、消え行く意識の中で、私は考えていた。

 誰が私を落としたのだろう?

 私の消去されていたオリジナルの人格が顔を出していた。

 代理の四人格は責任追求から逃れるように霧消していた。

 恰かも、完全に統合された人格が人生を徹したように。

 それでも、私は穏やかだった。

 塔とでも形容すべき私の人生は、それが秘める意味とは裏腹に、最低限の密やかな幸福で小さく笑っていた。

 空は酷く晴れていた。

 段々と匂いが強くなった。

 夢の中でさえも香るのだ。

 私は眼を閉じた。

「私は、これでお仕舞いなのか?」

「夢だよ、これは」

「神様の家の崩落」

「決まっていたことだよ」

「雨が止んだ匂いをもう嗅ぎたくない」

「晴天は嫌いだ」

「また雨は降るよ」

「夢を見る限り」

「『夢想家』と私は呼んでいた」

「私は、死んでいるように生きていくのか?」

「死んでいる、と考えるのは気を衒ってのことなの?」

「死んだわけではない。不幸なことに」

「死んでいるよ。そして、四人の私が残された」

「私の世界の玉座に座るな」

「彩度が低くなっていく」

「クールダウンだよ」

「『人間』には程遠い」

「なりたかっただけで、もうなろうとは思わない」

「だんまりを決め込まないで」

「喋ってくれ」

「羽撃いた蝶が太陽光に穿たれた」

「そんな可憐なものじゃない」

「夢をまだ見るのか。ああ、憂鬱だ」

「夢ではないよ」

「そうか、現実か」

「そう。現実。もう飽きたけどね」

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