異変
「鈴音……?」
異変に気がついたのは、一番近くにいた力也だった。自分の腕にすがりついていた鈴音が蒼ざめた顔で、力也の顔を見つめていたからだ。
「おい、どうした。鈴音」
そう続けながら、力也は困惑したように、鈴音から顔をあげる。そして、ギョッとした表情となった。その場にいる全員が戸惑いを隠せない表情で、力也を見つめている。
「――なんだ?」
力也は、鈴音の腕を振り払う。一歩、二歩あとずさりながら怒鳴った。
「言いたいことがあるなら、さっさと言いやがれ! なんなんだ、おまえら。そんな目でみやがって!」
「――声」
「ああ?」
「いま、放送から聞こえた声が、力也の声だった……」
力也の問いに、忠太が恐る恐る、震える声で答えた。
怒りの沸点が低い力也だが、その感情が静まるのも早い。力也は忠太へ、怪訝な表情を向けた。首をひねりながら、間の抜けたような声をだす。
「え? どこが? 俺、こんな変な声か?」
改めて、力也は皆の顔を見渡した。
グループの鈴音や忠太や英二、そして委員長の栞、教師の曽我や神園。全員が、怯えた表情で力也を見つめている。
繰り返し、力也は告げた。
「いまの声、どう聞いても俺の声じゃねぇぞ?」
「あ、うん……。あの、そうだよね。自分が聞こえている声と実際の声って、違って聞こえるって言うから。うん、だから、力也くんがいつも聞いている自分の声と、実際の声は違うのよ」
栞が、思いついたように口を開く。力也を怒らせないように、だが、こちらの言い分も正しいと、両方を肯定しながら、栞は言葉を続ける。
「だが、俺はここにいるぞ? だから放送室に、違う奴がいるんだろう?」
力也は、スピーカーを指さす。そのまま、納得がいかないような顔で、黙りこんだ。
静まり返った教室に、スピーカーからかすかな呼吸音と、ガサガサとした衣擦れの音だけが続いている。
ふいに、それらのすべての音が消えた。
突然の静寂は、さらに皆の意識をスピーカーへ引きつける。
そして、その歌が、皆の耳に届いた。
『どー、みそ、らーみら、どー、れそ、どー』
喉の奥で、ひっ、と小さな悲鳴があがった。
皆の視線が、スピーカーから自分に向けられたことを感じて、栞は、慌てて口もとを両手でふさぐ。だが、その体は、ガタガタと小刻みに震えていた。
「ど、どうしたの? 安藤さん?」
名前を呼びながら、神園が栞へそろそろと近づく。そして、心配そうに栞の肩を抱きかかえるように腕をまわすと、顔をのぞきこんだ。
「おい、なんだよ、この歌は! 安藤、おまえなんか知ってんのか?」
「ちょっと、力也。怒鳴るのをやめてよ」
力也が周囲の机を蹴散らしながら、栞へ詰め寄ろうとする。それを、鈴音がうんざりしたような声で制止した。
「そうだ。佐々木、乱暴はよくない」
慌てて曽我が、思いだしたように声をかけて、力也と栞のあいだに立ちふさがった。苛立った声で、力也が栞を指さす。
「曽我! 安藤の様子を見りゃわかるじゃねぇか。絶対なんか知ってやがる」
力也の剣幕に、曽我は顔を歪ませる。
曽我は、力也が苦手であるようだ。呼び捨てにされても、訂正するように命令して従わせるほどの力を持ち合わせていない。無意識に及び腰になっていた。問題児とされていても、この一年間は幸いにも、力也はおとなしかっただけだ。
「佐々木、落ち着けって……」
「安藤!」
曽我越しに発せられた力也の怒号に追い詰められたように、栞は声を振り絞る。
「あ、あれ……。あの、歌……、声は」
無意識に薄っすらと瞳を潤ませた栞は、神園にすがりつきながら、ようやく告げた。
「な、七奈美、この声は、七奈美の声……」
凍りついたように、教室は静まり返った。
かすかに、少女のソプラノの歌声だけが、途切れなく響く。
恐々と、神園が口を開いた。
「あ、あの……。七奈美って、誰のことなの? うちのクラスには、そんな名前の生徒はいないわよね?」
不思議そうに眉をひそめ、神園は肩を抱きかかえたまま栞に問う。ショックを受けたためか、それ以上栞は言葉が出てこない。
仕方がなさそうに、曽我が、神園と栞のそばに近寄ってきた。小さな声で、ささやくように説明する。
「神園先生は今年からなので、たぶん知らないでしょうが。去年、この高校で亡くなった生徒がいるんですよ。たしか名前が――小坂七奈美、だったかと」
「去年ですか? 高校生で……。病気か事故か、でしょうか……?」
つられるように、小声で聞き返した神園だったが。
ふいに、力也が叫んだ。
「誰だ! いったい、こんな放送を流している奴は!」
その怒声に、教室内にいた全員が、ビクッと体を震わせた。力也のほうへ振り返ると、彼は目を吊り上げて、怒りのために両手をわなわなと震わせていた。
「よくも、こんなことを……。放送室にいる奴を引きずりだしてやる!」
そう言うと、力也は猛然と駆けだした。勢いよく教室から飛びだしていく。
そのただならぬ様子に、慌てて曽我が力也を追いかけた。
「待て! 佐々木、落ち着けって!」
「待って、力也!」
「力也!」
教室から出ていった力也と曽我のあとを、遅れて鈴音と忠太が追いかける。
唖然と見送った神園と、まだショックから立ち直れていない栞のそばで、英二は行こうか留まろうか、おろおろと視線をさまよわせていた。
「安藤さん」
落ち着かせるためか、静かな声で、神園は栞に呼びかける。
「ねえ、その。本当に、いまの声って、その七奈美さんって方の声なの? その、自分の声でというより、七奈美さんって方の声に反応した佐々木くんの怒り方が、尋常じゃなかったような気がしたんだけれど」
いまもスピーカーから、歌声が流れてくる。歌い終わると、また最初から歌いだす。ずっと歌声は、繰り返されていた。
「違う人の声じゃなくて、本当に七奈美さんなの?」
「――七奈美の声、よ。七奈美の歌。いつもわたしは、七奈美の一番近くで聴いていたんだもの。間違うはずがない……」
「でも。それじゃあ、七奈美さんが歌っている音源を、誰かが持っていたってことになるのかしら。七奈美さんは、亡くなっているのよね?」
神園は考える表情になる。
「それに、どうしてこんな時間に、このタイミングで放送を流すのかしら? 校内に残っているのは、もうわたしたちだけだし。わたしたちに聞かせたくて、この放送を流しているってことになるのかしら? 放送を流している人は、どんな意図で、放送しているのかしら?」
探るような神園の言葉を聞いて、ふいに栞は、キッと顔をあげた。
スピーカーから流れてくる歌声を睨みつけるように、栞は怖い表情になる。
「――やめさせなきゃ。力也くんじゃないけど、誰かの悪戯にしても、これじゃあ七奈美がかわいそう」
栞はそうつぶやくと、神園の腕から離れて、自分の足で踏ん張った。ふらつきながら歩きだすのを、慌てて神園が支える。
「安藤さん、無理をしないで。休んだほうが」
「絶対、放送をやめさせなきゃ。こんな悪戯、ひどすぎるわ」
栞の頭には、もう放送を止めることしか浮かんでいないようだ。
小さくため息をつくと、神園は、栞を支えたまま歩きだす。
ふたりが教室の出入り口に向かうと、慌てて英二も遅れないように、そのあとをついて歩きだした。