†:母になり損ねた女 7
元担当官との面談は、官邸が用意したホテルの一室でおこなわれました。相手はH組のことをよく知る人物というふれこみの、柴野美琴氏。それは後世に情報を残すため、言い換えれば、二十年間封印し続けることを条件に許可が下りたものでした。
あとから入室したわたしを、柴野氏は握手で出迎えました。彼女は優しい顔立ちで、柔和な印象の女性でした。女のわたしが言うのも変な話ですが、ようやく担当官を引っぱり出せたことに高ぶるわたしを、穏やかに包み込むような人物でした。てっきり男性が来るものと思っていましたが、これで緊張感がわずかにとけました。
「担当官には女性が多いのですか?」
軽く雑談を振ると、彼女は小さく笑みました。
「多くも少なくもありません。わたしが女性なのはたまたまです」
伸びのあるよく通る声で言い、肩をすくめました。応接ソファに腰を下ろしたわたしは、録音機器もない状態で、質問を始めました。
「あなたの出身官庁は?」
「元厚労省です」
「辞職済み?」
「はい」
「担当官はみな、元の組織を離れるのですか?」
「いいえ。わたしのような例は珍しいほうです」
「ちなみに現在の所属は?」
「内閣府付けです」
これまでもそうでしたが、この手記における会話は記憶で再現しています。けれどだいたい合っていると思います。わたしは幸いなことに記憶力がいいのです。
「あなたは厚労省の医官だったのですか?」
「はい」
「どのクラスを担当していましたか?」
「答えられません」
面談こそ許されましたが、彼女には拒否権がありました。厚労省を辞めているので、わたしにとやかく指図する権限はありません。けれど厚労省の医官だったという答えに一つの筋道が見えました。彼女は「首領様」であった可能性があるのです。
女性ならその呼び方はやや不適当なはずですが、念のためという思いで尋ねました。
「端的にお伺いしますが、あなたは首領様ですか?」
担当官なら、そのひと言で質問の意味を理解するはずでした。
しかし柴野氏の答えは、わたしの期待を損ねるものでした。
「生徒がつくった詩は読みました。でも首領様ではありません。だいいち私は女性ですよ」
「わかりました。では聞き方を変えます」
気落ちする間もなく、次の質問をぶつけます。
「首領様とは誰のことですか?」
少年Hの事件が首領様の管理ミスなら、厚労省として追及せねばなりません。役人たちが守ろうとしているなら、風穴をあけねば。そう考えての問いかけでした。
「申し訳ありません、わかりません」
否定的ではあるが、貴重な回答でした。「答えられない」のではなく、「わからない」、その意味は重要でした。
「存在を特定されていないと?」
「はい。わかりません」
柴野氏は同じことを二度繰り返しました。嘘をついているようには見えませんでした。
「では、担当官の最高責任者はご存じない?」
「担当官同士は基本的にフラットな関係でした。しいて言えば、そのときどきの外の世界の事情に左右されていました。厚労省主導の間はセレブレ推進管理室、海兵自衛隊主導になってからは戦略統合会議が権限者でした」
「そして戦略統合会議の主宰者である総理が権限者の長であると?」
「はい」
柴野氏は迷いなく言い切るが、そうなると総理が首領様ということになってしまいます。
「フラットな関係と言いましたが、多少は上下があったのではないですか?」
「どういう意味でしょう」
「いかなる組織でも、緊急事態に備えて責任者を決めておくものです。それが誰であったかをわたしは知りたいのです」
「それなら……」
わずかに言いよどんで、柴野氏は顔を上げました。
「H組の担当官です」
その答えに、わたしは問題の尻尾を掴んだ気になりました。地下施設の責任者、すなわち首領様は、特別クラスの人間である可能性が高いのです。
「防衛省からは、H組の担当官は常磐慎司二佐だと伺っています。彼が担当官を束ねていたのですか?」
わたしが問うと、柴野氏は即答します。
「常磐先生は最近着任したばかりでしょう。だから、彼が責任者であるかどうかは外の世界に出たわたしには関知できません」
それは苦笑を浮かべながらの否定でした。
あまりの自然さに逆に演技を疑いましたが、裏付ける確証は何もありません。
わたしはソファに背を沈み込ませ、質問の仕方を変えることにしました。
「H組とはどういう組織だったのですか?」
「どういう組織とは?」
「他のクラスと違う点を教えてください」
「それで言うなら、人間性を尊重されていた点です。地下施設で育ち、引き受け手のない多くの子供たちとは違い、大量の本を与えられ、娯楽の制限も弱く、多様な価値観を身につけることがよしとされていました。人間性という理念を根づかせるために」
「つまり、人権を持った存在ということですか?」
「人権の定義によりますが、選択の自由という点では他のクラスと同じだったと認識しています」
その答えで、わたしはH組の理解が不十分だったことを知りました。彼らは他のセレブレと同じく社会に羽ばたくが、そこに自由意志は介在しない。人間として扱われながら、人間として世に出れない。なんと不幸な子供たちでしょう。その見方が一面的であることを知りながら、わたしはH組生に憐憫を抱きました。
けれど、もし自分の娘である桜花が所属するなら、そのクラスはH組であってほしかったとも思いました。同じセレブレとして育てられながら、引き受けをされなかった哀しい子供たち。せめて人間扱いされていたほうが、たとえ兵士や提供者になる運命だったとしても、はるかに幸福に近かったのではないでしょうか。
しばし私的な情念に浸りながら、柴野氏の視線に気づきました。彼女はわたしの質問を待っていました。わたしは頭を切り替え、こう尋ねました。
「地下施設での生活はどうでしたか?」
「それはわたし個人の感想ということでしょうか」
「はい」
一瞬、柴野氏の目が揺らぎました。そして視線を窓の外に向け、考え込むような顔になりました。
「楽しい、というと語弊がありますが、充実した日々でした。人間扱いされていなかったとしても、セレブレたちは普通の子供たちと変わりませんでした。明るい子もいれば、大人しい子もいる。優秀な子もいれば、落第生もいる。運動にひいでた子もいれば、体力が劣る子もいる。彼ら彼女ら自身が多様性を体現していました。きっと価値観も様々だったのでしょう。たとえ人間扱いをしなくても、みんなわたしたちと同じ人間でした」
遠い視線のまま、柴野氏は話を続けます。
「わたし、施設では名前で呼ばれていました。親しい教師にそうするように、気安く名前で呼んでくれました。クラスによるのでしょうが、わたしが担当したクラスは生徒と担当官の距離が近かったと思います。担当を外れて初めて気づきましたが、わたしは子供たちを愛おしく感じていました。卒業まで一緒にいられなかったことが残念でなりません」
生の声というのでしょうか、わたしは彼女の肉声を聞けて満足感を覚えました。総理をはじめ、政府の人間はみな一様に、セレブレのことを血の通った人間としてではなく、質量をもった情報のようにして捉えていました。わたしも自然、そうした流儀に染まっていました。けれど柴野氏は違いました。これこそ現場を知る者の意見という感じでした。
わたしは彼女の吐露に沿って、話を深めることにしました。
「あなたはセレブレ計画の意義をどう考えていますか?」
「意義ですか……」
官僚主義的な答えは期待していませんでした。地下施設と外の社会の両方を知る者として、計画をどう受け止めているのか。わたしが知りたいのはそこでした。
意に反して、柴野氏は大局的な見解を述べました。
「セレブレ計画がスタートした頃、まだ日本は岐路にありました。貧富の差はそれほどではなく、計画の後押しをしたのも大衆の願望でした。若く新鮮な血液と入れ替えるだけで人間の生理機能は著しく向上します。臓器移植以外にも医療が受ける恩恵は多大なものがありました。高齢化社会に突入した我が国において、セレブレを、高齢人材をフル活用するための血液提供体として利用する案が持ち上がっていたことはご存知ですか?」
「いいえ。そのような経緯があったとは驚きです」
「計画を推進する側も、引き受けされなかったセレブレの利用価値……公共資産としての使い途に戸惑っていたことの証拠だと思います。高齢者がいつまでも若々しく活躍できる社会。そのスローガンとセレブレ計画は無縁ではありませんでした。けれどある時点を境に、厚労省と防衛省の利害が衝突し、互いの利害を意識しあった内規ができあがりました。そして現政権になってから、もっぱら『不滅の裁き作戦』への投入のほうに熱心になりました。それがよかったのかどうか、わたしにはわかりません」
柴野氏の視線はずっと遠いままでした。わたしもそれに引っ張られるように、窓の外に目をやりました。外では季節柄、ホテルに植えられた桜の花が舞っていました。わたしが名付けた桜花。まだ見ぬ娘の顔がそこに浮かんでいるように感じられました。
「他に質問はありませんか?」
気づくと柴野氏は、わたしに顔を向けていました。
「失礼。ちょっと気を逸らしていました」
わたしは口許に手をやり、咳払いしながら、頭に刻み込んだ質問を投げかけました。
「今回の事件が起きたことについて、担当官として責任は感じますか?」
「少年Hの件ですか……」
柴野氏は眉をひそめましたが、答えはテンポよく返ってきました。
「生徒の逸脱が起こった原因は、わたしたち担当官にあると思っています。セレブレ計画には弱点がありました。前の発言と矛盾するようですが、わたしは人間性を発達させるクラスを設けたことは失敗だったと思っています。
選択の自由がない点において、子供たちは平等でした。そこにあえて不平等を導入したことで、H組生に反抗の意志を育ませたのは否定できません。人間性という価値観に開かれていないことが動物だとするなら、動物のままでいたほうが、きっと幸せだったでしょう。わたしは少年Hの事件は、自分たちが免罪符を得たいという大人たちの事情が生んだ悲劇だと思っています」
これも貴重な肉声でした。わたしは頭でメモをとりながら、最後の質問を口にしました。
「少年Hはどのような生徒でしたか? もしご存知なら教えてください」
「どういう生徒かは、把握しています。印象的な生徒でしたから」
そこで柴野氏は息を吐き、笑みらしきものを浮かべました。
「彼女はとても変わった生徒でした。成績はさほどではありませんでしたが、他の生徒が手を焼く難問を解いたりするなど、試験という物差しでは測れないところがありました。仮に人間性という物差しに意味があるとするなら、それは彼女を測るためにあったのだと思います」
「生徒の名前はご存知ですか?」
「答えられません」
沈黙する柴野氏ですが、わたしは、少年Hが女生徒であったことに引っかかりを覚えていました。勝手な思い込みですが、てっきり男子生徒だと思っていたからです。
「少年Hは女子だったのですね」
「ちょっと複雑な事情がありましたが、あくまでわたしの中ではそう括っていました」
「複雑な事情とは?」
「性に問題を抱えておりましたので」
「なるほど」
柴野氏の答えに頷きつつ、またしても桜花の顔が浮かびました。わたしにそっくりな顔立ちの、幸薄い人生を強いられた一人娘。「公私混同」が頭をよぎりましたが、想像は止まりませんでした。万が一にも少年Hがわたしの子供であってほしくない。そう親心から思いました。
だからわたしの言動は、二十年後に情報を残すという公的な役割から離れたものであったと指摘されても、反論することはできません。わたしは担当官との面談にとどまらず、より深い情報を求めていました。核心にある真実に肉薄したいと思っていました。
「あなたからは重要なお話を聞けました。しかし記録に残す上では、まだ十分とは思えません。事件を起こした生徒の見学をしたいのですが、それは可能でしょうか?」
「わたしの一存ではどうにも。官邸に要望してください」
やはりそうなるだろうな、と思いました。少年Hの件は、完全に官邸マターになっているのです。けれど、元担当官の意見が無意味とは限りません。
「勿論、官邸と交渉します。ですが、わたしと面談したことを受け、官邸と話をする機会があることでしょう。その場で申し添えてほしいのです。後世に情報を残すためにも、少年Hのデータは可能な限り、詳細に把握しておきたいのです」
「わかりました。協力は惜しみません」
「ありがとうございます」
小さく礼をしながら、わたしは感謝を示しました。そこで頭の中にある記録スイッチを切りました。ここで面談は終わり。そのはずでした。
けれどわたしは、手記に書く記録以外にもう一つ、知りたいことがあったのです。面談終了の握手を終えたあと、席を立とうとする柴野氏を呼び止め、わたしは訊きました。
「失礼ですが、本当はあなたがH組の担当官だったのではないですか?」
その問いは、しつこくまとわりつく謎でした。けれど柴野氏の返答はつれないものでした。
「申し訳ありませんが、ご希望には沿えません」
「お答え願えませんか」
「はい。具体的な所属について公にできないと官邸から言い含められています」
淡々と言って、柴野氏は席を立ちました。彼女がホテルの部屋を出るまでの間、わたしはピースが一つだけ欠けたパズルを眺めているような気分でした。しかしそのピースは、無理に埋める必要はない。自分にそう言い聞かせ、わたしは白い天井を仰ぎました。




