†:手紙 3
思えば中等生という多感な時期、このH組は本当に特別なクラスでした。
元々この学校の生徒には苗字がありません。守秘義務があって「親」の名前は明かせないからです。クラス番号がその代わりを担っています。
ここからいなくなった彼で言えば、康介・Hという感じに。
――識別番号の一種。
そう捉えるのは間違いではありません。「H」という名前に大した意味を見いだしていない生徒が多いことは、わたしもよくわかっています。
あなた方セレブレは誰かのコピーでしかなく、しかもその「親」が誰かも判然としていません。
そんな皆さんに学校側は一種の識別番号を与え、それを苗字のように扱いました。
与えられた皆さんは、名前にクラスの番号をつけられただけと捉えたことでしょうが、実際に扱うわたしにとってその記号は格別の意味を持ちました。
外の世界においては、苗字とは名前と同じくらい重要なのです。
なぜ重要かと申し上げれば、苗字とは家族を示す記号だからです。たくさんの本を読んだあなた方ならご存知のとおり、家族は同じ苗字を共有します。
婚姻をかわし籍を入れた女性は、以前の苗字を捨てて、夫の苗字を名乗ることになるくらいです。だから苗字にクラス番号を割り振るというセレブレのルールを初めて目にしたわたしは、これをいわゆる家族なのだと理解して、そのように取り扱うことに決めました。
「H」という番号を与えられ、同じ一つのクラスに集うことになったあなた方は、一つの家族同然だと。そして実際のところ、わたしが採用した家族主義は、セレブレ計画を推し進める国の方針とも合致していました。
家族は個人を超えた初めての絆。
その価値を、政府の役人たちがどれだけ賞揚しようとも、外の世界では家族の崩壊が社会制度を揺るがし、国家に重い負担を強いています。
社会思想について勉強した方なら、政府が家族の再生を訴えていることはご存知でしょう。勘のいい生徒なら、その矛先がセレブレ計画に向いていることにも、気づいているのではないでしょうか。それでもクラス番号を苗字の位置に割り振るというこの学校の仕組みは、他の一般生徒たちにとってはまさに識別番号以上の意味を持たないのです。
例えば康介くんを例に出せば、3Cー康介・Hー182。それ全体が識別番号です。
けれどわたしにとって識別番号とは最後の三桁の数字にすぎません。
「H」はわたしたちのクラスという家族の名称。だからこそお互いをよく理解し、協調し合って生きてほしいと願いを抱いてきましたが、その願いは半ば達成され、半ば不首尾に終わったと思っています。
現に康介くんの一件をどう見なすかにおいて、あなた方は全員の意見を集約し、共通した見解を持てないでいることでしょう。
とはいえ矛盾した話ですが、家族とはそういうものなのです。
康介くんは問題を起こし、H組に迷惑をかけました。それは家族として許しがたいことですが、責任は彼個人がとります。罰せられるのは彼だけ。それはとてもフェアなことだと思うのです。
だから外の世界で横行しているような、家族が無限に責任をとる悪しき家族主義を、わたしは快く思っていません。そうした価値観を、この学校に持ち込むことはしたくありませんでした。家族主義を採用する担当官のなかではきっと異端の考えなのだと思います。
けれど、わたしは思うのです。家族がよいものだとするなら、それは絆という曖昧な結びつきを強いることではなく、他人と何かを共有するところにあるのだと。
わたしはH組を個人主義で染めることにも反対でした。なぜならそこでは、他人の幸せを自分のものとして感じることができないからです。
思い出してください。H組では、誰かの誕生日をみんなで祝う習慣がありましたね。あれも、他人の喜びを自分のものとして共有することが目的でした。
他のクラスでは、そんなことはやりません。欲しいものリストを提出し、誕生日にそれを受け取るだけです。
おかげで贈り物の質という点において、いささか貧しいものになってしまったことはわたしのせいであり、とても申し訳なく思います。
けれどこの世に生まれた喜びを、誰かと共有する幸せを、わたしは皆さんに理解してほしかった。決して自分の欲を満たすことのみに執着する人間には成長してほしくはなかった。
H組は野菜でなく、人間を育てるためのクラスです。
そんな特別学級に赴任したからには、わたし自身、担当官として以前に、あなた方のよい家族でいようとしてきた部分があります。
そうしたスタンスをとると、それはそれで批判されます。生徒と担当官は一線を画すべきと、家族主義を採用するクラスでもタブー視されたりします。
けれどわたしは、その選択が最良だったという自信があります。
例えば、クラスにどんな図書館を設けるか。それがどれほど重要なものかを理解するのは難しいでしょうが、一度やってみればわかります。
授業の一環ということになっていましたが、本は娯楽の一種でもあります。
どんな娯楽を提供するかが規制の対象となるように、どんな本を与えるかはセレブレの人格形成に多大な影響を与えます。
なので図書館の構築は、担当官に課された責務のなかでとびきり重要なものでありました。
上からはできるだけ客観性をもってやれ、とだけ言われますが、選ぶのは人間であるわたしですし、選び方に偏りが出るのは自明のことだと思うのです。
そしてその偏りを、わたしはもし自分に妹や弟がいたら、というふうに考えました。
妹や弟がいたら、ぜひこんな本を読んでほしい。そんな願いをこめてクラス図書館を構築しました。
その結果は、皆さん一人ひとりが体現していると思います。他のクラスの図書館を覗いたことはありますか? クラスごとの交流がない以上、知りようもありませんよね。
なのでわたしからお話ししますと、一般生徒には、実に古くさい思想を現代風に改めた本が与えられています。
例えば、国に大きく貢献した英雄の物語。
彼ら彼女らの活躍や献身により、世界に冠たる列強となった我が国がある、そういう物語。個人の欲を滅して、公に尽くすこと。
未来に待つ奉仕を自然なものと受け止めるためには、同じような生き方をした過去の人物を取り上げ、彼ら彼女らの生き様を描く物語が必要だった、という事情はよくわかります。
わたしも同じ立場だったら、多かれ少なかれ同様の選別をしたかもしれません。
とはいえ何度も申し上げているとおり、H組は特別なのです。あなた方は自由に本を読み、自分の頭でものを考え、個人の幸せという学びを得る必要がありました。
欲望や絶望に踊らされながら、それでも人生に希望を持てる人間に育てなくてはなりませんでした。セレブレ計画に付随した特殊学級という存在意義を示すべく、わたしはあなた方をどこまでも人間扱いしてきました。
例えばドストエフスキーの『罪と罰』を読んだ皆さん、あなた方は知性の持つ度し難い傲慢さを学んだのではないでしょうか。
ジョージ・ソロスの自伝を読んだ皆さん、彼の数奇な人生を追体験したのではないでしょうか。
村上春樹の『世界の終りとハードボイルドワンダーランド』を読んだ皆さん、人間が今ここの現実とはべつな世界を持ちうることを認識したのではないでしょうか。
E・H・カーの『ロシア革命』を読んだ皆さん、現在とは異なる思想が生み出した社会が、同じ人間の手によって作られた歴史を理解したのではないでしょうか。
それらの読書体験は、このH組を支える柱でした。
わたしはその達成を喜ばしく思うと同時に、でもだからこそ、皆さんのうちの少なからぬ人びとが他のクラスの生徒を心の底では軽蔑していることを知っています。彼らのことをエニモー、つまり動物になぞらえ、忌み嫌っていることを。