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†:愛に飢えた子供 9


 康介の逸脱が原因で美琴先生が離任したとき、他のクラスメートはそのことにショックを受けているようだったが、僕はしごく当然のことだと思った。監督責任は追及されねばならず、緩んだ規律は回復させねばならない。


 現にクラスの間では、康介が何人ものエニモーを巻き込んでいたらしいという噂がまことしやかに飛び交っており、事は康介一人の問題ではなくなっているように感じられた。

 これまで一人の逸脱者も生まずに運営されてきた僕たちの学校。そこに風穴を開けた人間は、学校に不満を抱く層から英雄視されてもおかしくないし、校内のざわつきは次の逸脱者が現れるのではないかという疑念から発せられていたように思う。


 そして僕たちH組においては、美琴先生の口から康介のやろうとした行動が明らかにされ、それによって自分たちセレブレは間違った存在なのではないかという疑問にとらわれたのだと思う。臓器提供者になって命を縮めれば、エニモーが歩む人生と何が違うというのか。不満が渦巻き始めていた。だから常磐先生の口から直々に依頼されたことは、僕には必要不可欠な処置だと受け止められたのだ。


「何としても次の逸脱を食い止めねばならない」

 化学準備室に呼び出した先生は、椅子に座った僕をまっすぐに見据えて言った。


「これまでH組生に与えられていた特権を廃し、外の世界とのアクセスは完全に遮断します。しかしそれだけでは手ぬるい。ぼくは次の逸脱が起こったら連帯責任をとらせようと思う。具体的には奉仕先の変更です。生徒が恐怖ですくみ上がるようなことをつきつけないと、今回起きた動揺は収まらない。そしてクラスに潜在する次の逸脱者を炙り出すべく、琉架、君にその役目を頼んでいいだろうか」


 拒否する理由はなかった。僕は先生に期待されたことに喜び、大きく頷いた。


「特に康介と仲が良かった和希と渚は疑惑の対象だと思ってほしい。ぼくが求めるのは、学級委員長として彼らを追及することです。どんな手段を使っても構わない。目的のために全てが許されると思ってほしい。卒業式も近い中、校内の不穏な動きは一掃されなければならない。やむを得ない措置だが、それくらい事態は逼迫(ひっぱく)しています」


 僕は重責を任されたのだ。自然と気分が高まった。

 とはいえ追及と言っても、やり方は様々だ。ミキオを追い込んだときのように実力行使に出ていいものか。ようはさじ加減がわからなかったが、常磐先生の次の言葉が僕の迷いを溶かしてくれた。


「この一件を首尾よく解決できたら、君に特別の報酬を与えます。ぼくには奉仕先を変更する権限があります。その意味がわかりますね?」


 奉仕先の変更は、僕が何よりも欲している対価だった。そんな対価に見合う措置とは、穏便なものではありえない。本当に無制限なのだろうことが伝わってきた。


「わかりました。やり遂げてみせます」


 そして裁きの日。

 常磐先生の着任挨拶のあと、僕は早速行動に移すことにした。


「学級会を開こう」


 僕は臨時の学級会を開き、美琴先生が希望を託したという生徒Aを洗い出そうとした。

 それは表向き強引な行動だったろうが、実際には粛々と進められた。なぜならクラスの空気自体が、生徒Aという僕たちH組についた汚点を晴らしたがっていたからだ。


 誰もが連帯責任を怖れ、提供者や兵士になる使命から逃れたがっていた。恐怖による支配とは、これほどまでに人を易々と動かすのか。僕の挙動はクラスの総意となった。だから僕は疑惑の対象に裁きを下すことができた。それは驚くほど苛烈な暴力となった。


 一つだけ誤算だったのは、同じ学級委員長の聖良が和希たちの擁護に回ったことだ。最初は逸脱を怖れないその行動ぶりに目を見張ったが、頭の中に散らばるパズルのピースを組み立てると答えが見えてきた。


 彼女はしばしば康介を見る癖があった。僕がそれを知っているのは、聖良の仕草を観察していたからだ。親愛の情はいつしか激しい恋心に変わっていた。そんな彼女が和希たちの側についた。僕を嫉妬に駆り立てるのに、それは十分な威力があった。


 聖良はやはり康介のことが好きだったのだ。僕は反抗的な家畜を追い立てるように、和希と渚を火あぶりにした。常磐先生という後ろ盾のある僕に、エスカレートする暴力を抑える必然性はなかった。結局物証は出ず、無駄骨に終わったものの、学校から逸脱しようという意志は挫かせたのではないだろうか。翌日の常磐先生の言葉が僕の達成を何よりも証立ててくれた。


「君たちは素晴らしい働きをしました」

 その賛辞は、まぎれもなく僕に向けられたものだったと思う。ちらりと一瞥し、小さなサインを送ってくれたからだ。


 しかしそのサインにはべつの意味もあったのだ。生徒Aを洗い出す追及はまだ終わっていない。ターゲットは想定内の人物だった。常磐先生は聖良を名指しし、彼女を裁きにかけるよう僕たちに呼びかけた。


 僕は聖良のことが好きだった。しかし疑惑が確信に変わった今、好意はたやすく憎悪へと転じていった。それにこうした追及が奏功すれば、僕の奉仕先は変わるのだ。


 人間は極限状態に陥ると、本性をさらけ出すという。本当にそうだとすれば、僕は好意を寄せた相手より、自分を愛していたことがわかった。


 わずかな自己嫌悪が浮かび上がろうとしたが決心は変わらなかった。僕は和希たちと同じく、聖良を火あぶりにした。彼女が生徒Aではないとうっすらわかっていても、躊躇なく炎を放った。康介の意志を継ごうとする者。学校の秩序を守るため、根絶やしにされなければならないのは彼ら彼女らの意志だ。これは虐待ではない、正当な裁きなのだ。冷たい心を凍りつかせ、僕は紅蓮の炎を眺めた。


 翌日、聖良はクラスに戻ってきた。

 僕は追及が手ぬるかったことを思い知った。なぜなら常磐先生が無期限の尋問を課したのにもかかわらず、彼女は僕に抵抗する態度をとったからだ。


「聖良さん、君が反対するとは驚きだよ」

 この追及が不首尾に終われば、僕は提供者になってしまう。最後の拠り所は、奉仕先に抱く強い拒否感だった。僕は人間になれたはずなのに運命に弄ばれている、誰よりも憐れな一人のエニモーです。しかし、そんな事実は認めたくなかった。


 クラスの空気は掌握している。生徒Aは必ずここにいる。

 揺るぎない確信の上に立っていた僕に、冷や水を浴びせたのは和希だった。


「逸脱しているのはおまえだ、琉架」

 顔半分が包帯に巻かれていたが、発した声でそいつが和希だとわかった。

 和希は教室に入るなり、僕を激高させるようなことを言った。


 僕のおこないが嫉妬にもとづいているということ。僕の奉仕先を知っているとほのめかしたこと。そして康介が生きていると宣言したこと……その全てが僕を深く抉った。


 クラスの主導権は完全に和希が握り返してしまった。僕はクラスのことを考えているが、それ以上に自分のことしか考えていない。私利私欲で暴力を振るった罪悪感が、和希という形をなして襲いかかってきた。僕は必死になって反論し、それが尽きると和希の頬を殴りつけていた。


「くそったれ……!」


 勉強馬鹿の和希だが、殴り合いは互角だった。僕と同じ性同一性障害の和希は、体力的には女なのだから、これは想定の範囲内だった。だが、あまりの不毛さに僕のほうが先に音を上げた。


 僕は廊下へ駆け出し、疾走を開始した。僕は廊下を右折し、常磐先生から借りたIDカードを取り出した。エレベーターに乗り込み、生徒の入れない最上階へ逃げようと思ったのだ。一番上のボタンを押すと、追いすがる和希が乗り込んできた。僕は弾みでIDカードを廊下に落としてしまった。


「逃げるな、琉架」

 壁に追いつめられた僕はめった打ちに遭うが、その一発一発は大して痛くない。

 僕は余力を取り戻し、エレベーターのドアが開いた途端、和希の体を大きく押し返した。僕たちは屋上に転がり落ち、からまった糸のようにもつれあい、フェンスのない屋上の端に横たわった。


 怪我をしている和希は徐々に息が上がり、動きが鈍くなってきた。何度も体勢を入れ替えながら、僕は和希の上に馬乗りになった。和希の頭の先には、奈落が口を開けていた。


 僕は監視カメラの位置を確認する。備え付けられた監視カメラが今ここで起きる全てを捉えているはずだ。僕が和希を殺す一部始終を。


 康介が生きているなんて嘘だ。僕は康介にくだった処分と同じ裁きを和希にくだす。動物たちの衝動的な暴力とは異なる、理詰めの悪意。きっとわかってくれる、僕たちをこんなめにあわせた首領様なら。

「僕は提供者に選ばれたけど、それが間違いだとこの場で証明する」

 叫びながら言って、和希の顔を殴りつけた。


「大学病院に内定だと? ふざけやがって!」

 僕の拳は止まらなかった。冷静な和希が気に入らなかった。


「おまえはシャイロックに金を借り、その金を康介に渡した。契約どおり返して貰うぞ」

「金ならすぐに返せない」

「ならば死だ。契約書に書いてあったとおりだ」僕は言った。


「殺せるものなら殺してみろ」和希はそう言い返してきた。

「契約書には痛い目に遭わせると書いてあったが、そこには墜落死させるとはひと言も書いていなかった。殺していいとも書かれていなかった。それにたとえ死んでも、俺は苦痛を感じない。おまえが切ったのはとんだ空手形だ」


 この期に及んで御託(ごたく)を並べやがって。

 僕は和希の首にありったけの力をこめた。「死ね、逸脱者」


 そのとき、和希の頭が下がった。それは屈服の合図に見えたが、事実は逆だった。

 僕の鼻骨を、和希の頭が打ち据えた。強烈な頭突きを食らい、目の前に火花が散った。

 包帯越しに和希のポニーテイルが揺れ、僕らの体勢は再び入れ替わった。和希は感情のこもっていない目で僕を見て、低く唸るような声を出した。


「おまえは終わりだ、琉架」

 猛烈な力が僕を絞め上げる。和希がこんなに強いとは思わなかった。こいつは勉強馬鹿ではなかったのか。放課後、一体どんな生活を送っていたのだ。そのとき僕は和希のことを何も知らなかったことに気づかされた。女だと思って舐めていたことにも。


「和希。おまえに僕を殺す資格はない」頬に風を感じながら、吐き捨てるように言った。

「資格なんて関係あるか」

 美琴先生は言った。人間にとっての失敗は、何かをやるべき瞬間に、それをやり損ねることだと。僕はやり遂げる。和希を派手に殺して、ニュースのヘッドラインを飾るような絵を残してやる。そう思っていた僕が、今にも殺されようとしている。


 和希は本気だった。

 力一杯首を絞め上げてきて、次の瞬間、手を緩めた。

 体が宙に浮き、背中から力が抜け、僕は重力に抱かれた。


「――――」


 僕は知っている。自分の奉仕先に未来なんてなかったことを。僕はただあがいていただけなのかもしれない。エニモーという落伍(らくご)者になることを嫌い、彼らの上に立つ存在だと認めて貰うために。


 遠ざかる空を眺めながら、両手を伸ばし、祈りを捧げる。

 僕は神を信じていないし、僕以外の人間を信じていない。でも首領様のことだけは信じていた。僕はあなたの子供でした。あなたが僕の神でした。


 遠ざかる空を眺めながら、(つたな)い祈りを口ずさむ。

 僕は金儲けでなく、もっと詩作に励むべきだったのかもしれない。


 せめて人間として生き、人間として死にたかった。人間として……

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