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†:愛に飢えた子供 8


 人間性。そんなものは奉仕先の選定とまったく無縁だ。常磐先生の告知は、僕たちセレブレが人間になったつもりの猿であることをつきつけた。あれだけ蔑んだエニモーと大差ない、その事実は僕に拭いがたい屈辱感を植えつけた。


 丸い岩を頂に押し上げるのは難しくても、下に転がり落とすのは簡単だ。中等科三年生の日々は、貯めた一千万を浪費する毎日となった。僕は転落の道を歩み始めた。


 僕は人間性の象徴たるシャイロックではありませんでした。

 僕は人間性という太陽に焼かれて落ちるイカロスでした。

 僕を自由な世界へと解き放った株取引とも疎遠になった。学年一位をとるために、勉強の鬼にならなくてはいけなかったからだ。


 和希は平気で満点を叩き出す。そんな奴に勝とうとするには、文字どおり寝食を忘れる必要があった。僕は学業の遅れを取り戻すべく、放課後の全てを学習時間にあて、睡眠時間を削りに削った。娯楽とも無縁な生活。毎週のように届く新品の北欧家具が僕の癒しだった。イタリア製のコーヒーメーカーで淹れる珈琲が、僕の深夜学習の安定剤だった。世界最高性能を誇る高価なスピーカーが、僕の自尊心を支える支柱だった。


 結果、そこまでしても、和希との差は埋まらなかった。一学期の定期試験で二位に昇りつめたときも、点差はかなり離れていた。二学期も同様だった。僕は孤独な戦いに疲れてきた。貯め込んだ金を浪費しても、勉強に打ち込む力が湧いてこなかった。


 株取引で貯めた一千万が半分になり、さらにその半分になったとき、僕は自分が万年二位でしかない存在であることを認めざるをえなくなった。このまま三学期まで頑張っても和希には勝てない。そんな弱気な考えが頭をよぎり、僕は誰かに包まれたくなった。


 常磐先生のような筋肉質な男性ではなく、柔らかく温かいぬくもりのような女性に。クラスメートたちが噂する首領様。男性なのに僕たちを見守る母のような存在。もし本当に彼が存在するのなら、目の前に現れてほしかった。そして僕を優しく慈しんでほしかった。

 これ以上頑張らなくていいよ。僕が聞きたい言葉を口にしてほしかった。しかし現実には、静かな夜が僕の心を苛んだ。転がり落ちた岩はどこまでも落ちていく。僕は自分を傷つけ、堕落したくなっていた。


 修学旅行に行ったのはちょうどその頃だった。

 行き先は冬の東京だった。僕は京都か広島に行きたかったのに、康介が東京行きを提案し、クラスの投票でそう決まったのだ。


 クラスメートたちは観光気分で浮かれていたが、僕は暗い気分に浸っていた。何人かの生徒が娯楽資金を求めて僕に金を借りにきた。普段なら貸す相手を選ぶ僕も、やけになっていたのか頼まれるごとに右から左へ貸してやった。

 その中に和希がいた。学年一位様も修学旅行でははめを外したいというわけだ。金額は大きかったが、僕は特別に貸してやることにした。和希は礼を言い、僕たちは初めて外の世界へと出た。


 しかし東京は最悪の街だった。人の動きは忙しなく、町並みはどこも汚い。美意識のかけらもない場所だった。おまけに僕は、康介と同じ班になっていた。あいつと一緒に観光をして楽しいわけがない。


 修学旅行用に貸し与えられた、メールとマップ機能に限定された特別な端末を操り、僕は地図とにらめっこをした。そして、クラスメートたちと池袋という街を練り歩きながら、僕は早く自由行動に移りたいと思っていた。


 きっとそれで上の空になっていたのだと思う。

 繁華街を歩いているとき、まっすぐ歩いてきた通行客と僕はぶつかってしまった。

 僕の反応が遅れたせいで、正面衝突だった。


「痛ぇな、オイ」

 通行客は遊び慣れたふうの男性だった。僕たちより年上で大学生くらいだったと思う。


「謝れよ、コラ」

 その不遜な態度にカチンときたが、確かに非はこちらにもある。

 僕は頭を下げたが、大学生はそれに満足しなかったようだ。


「反省の色が見えねぇな」

 顔を近づけ、因縁をつけてくる。臭い息を吐く、最低のエニモーだった。


「反省なんてするか、ボケ」

 売り言葉に買い言葉。僕はいらだち紛れに汚い言葉を吐き捨てた。

「なんだと」

 大学生は僕の胸ぐらを掴み上げてきた。

 殴られる。反射的にそう思った。華奢な僕に抵抗はできない。身構えた。

 しかし拳は降ってこない。代わりに僕たちの間に割って入る者がいた。康介だった。


「弱いものいじめはやめろ。殴るなら俺を殴れ」

「なにカッコつけてんだ」

 大学生は僕を押しのけ、康介を殴りつけた。


「好きなだけ殴れ」

 康介は微動だにせず、大学生の前に立ちふさがった。


「もういい。つぎは気をつけろ」

 康介の剣幕に怯んだのか、大学生は捨て台詞を吐いて立ち去っていった。


「大丈夫か、琉架」

 康介は僕のほうを振り返った。唇からは血が流れていた。

「……ありがとう」

 僕が嫌々ながら感謝を述べると、康介は「よかった」と言って破顔したが、僕にとっては何もいいことはなかった。喧嘩を売られ不愉快な気分になったばかりか、あろうことかあの康介に助けられてしまった。その恩着せがましさに僕は忸怩たる気分になった。


 自由行動に移ったあとも、そのいらだちは消えなかった。

 クラスメートと分かれた僕は肩を怒らせて街を歩き、電車に乗り、新宿という街に向かった。そこに、歌舞伎町というアジア一の歓楽街があることは事前に調べてあった。僕は自分が望む性を買いにきたのだ。この世界には男の体を持ちながら女性の心を持ったオカマという人がいる。外の世界に出たら、そういう人を一度抱いてみたかった。


 新宿駅を出て、十分と経たない場所に歌舞伎町はあった。僕は店の選定までは進めていなかたったので、できるだけ小綺麗な店を探し、入店交渉をおこなった。


 ところが意外な障害にぶちあたる。僕の身なりはブレザーにスラックス。和希と違い、髪も短くまとめ、男に見える自信があった。にもかかわらず、店のスタッフには僕が女であることを見抜かれてしまったのだ。


「女性の方はお断りしています」

 僕は自分のセクシャリティが男性であることを伝え、なんとか入店へこぎつけようとした。


「見たところ成人以下ですね。未成年の方の入店はお断りしています」

 何店かを渡り歩き、交渉をおこなったが、どこも判を押したような答えが返ってきた。


「金ならあるんです」

 僕は財布を開き、万札の束を見せた。

「お金の問題じゃないんだよ」

 薄ら笑いを浮かべるスタッフは僕を相手にしなかった。不平等もいいところだ。

 腹立ちを抑えながら、僕はこう尋ねることにした。

「どういう店なら、僕のような人間を受け容れてくれますか」


 ここは腐ってもアジア一の歓楽街だろう。男性の心を持った女の客が、性を買える場所があってもおかしくないはずだ。むしろないほうがおかしい。サービス業たる風俗店こそ、多様な客に開かれているべきだ。


「いい店があるよ、ついてきな」

 十数店まわったところで、一人の客引きが僕の頼みに応えてくれた。僕はこみいった裏通りへと連れて行かれる。表通りの華やかさとは異なり、よく言えば混沌、悪く言えばゴミ溜めのような小径(こみち)を歩かされた。


「この店だ」

 そこには看板もなく、外から見ただけでは風俗店を営業しているとは思えない古びた雑居ビルだった。以前読んだ本に、無許可営業の風俗店が出てくる描写があった。ひょっとするとそういうたぐいの店だったのかもしれないが、正規の店に入れない僕にはうってつけの場所に思えた。


「ほう、女の子の客とは」

 その店の店員は僕のことを眺め回し、くすくすと笑い声を立てた。

「僕は男性です」

 それに金ならあるんです。僕は店をたらい回しにされたことで感情が高ぶっていた。それに僕がやろうとしていることは、単純な性交渉ではない。


 風俗店では客が相手を自由にできる。僕はあてがわれたオカマを痛めつけてやりたいと思っていた。奉仕先を告げられて以来、溜まり続けた負の感情を、弱い立場の人間にぶつけて()さ晴らしがしたかった。性行為を隠れ蓑に、惨めな気持ちを一掃してやりたかった。

 だからどのオカマを選ぶか、特に指名するつもりはなかった。


「うちは指名制じゃないけど、それでいいかい?」

「はい、構いません」

 僕はくたびれたフロアを通され、狭い一室に押し込められた。

 体で快楽を味わいにきたのではなかったから、服は着たままだった。五分ほど待っただろうか、下着姿の女性っぽい人が部屋に入ってきた。


「よろしくお願いします」

 小さく会釈して、その人は下着を脱ぎ始めた。目線は自然と、品定めを始めてしまう。オカマは決して若いとは言えず、小太りではないが体のラインが崩れていた。三十代も後半といったところか。顔つきは派手ではなく、どこか品のある佇まいだった。こんな人でもオカマになるのか。僕は体内にわだかまる興奮が静まっていくのを感じた。


「お客さん、服脱がなくていいの?」

「はい。このままで結構です」

 僕はあなたを苦しめるために来たのですから。

 心の中でそう呟くも、嗜虐心(しぎゃくしん)は萎えていく。若くて弾けそうな、魂を売って金を稼いでいるような人と出会ったらやってみたい。そう思っていた想像の数々が、皮を剥ぐように消えていく。理由は考えるまでもなかった。僕はこのオカマに欲情を感じることができず、戸惑いを覚えたのだ。代わりに見いだしたのは包容力に満ちた母性だった。


「緊張しているのね、もっとリラックスしていいのよ」

 オカマが僕を抱きしめてくる。性的な興奮はなかった。ただ、温かく柔らかいものに包まれているという充足感があった。オカマの体のサイズが、僕よりやや大柄だったことも手伝って、密度の濃い(まゆ)にくるまれているようだった。


「これからどうする?」

 オカマは控えな声で言った。

「このままでいてください」

 僕は彼女の胸に顔を埋め、より強く抱きしめ返した。

 大振りな胸を枕に、僕は眠るような姿勢になった。その頃にはもう、僕をここに連れてきた暴力的な衝動は大人しくなっていた。求めるものを間違っていた。荒ぶる性欲を満たすような快楽ではなく、されるがままの慈しみを僕は欲していたのだ。


「僕の服を脱がせてください」

 甘えた声で言うと、オカマは笑顔で頷き、僕を裸にしていった。

「優しく責めてください、壊れ物を触るように優しく」

「かわいい。まるで子供みたいね」

 オカマは女相手にも慣れているのか、繊細な手つきで僕を愛撫した。僕の体は敏感だった。何度も軽く果て、絶頂は高まっていった。


「そろそろ一時間だけど」

「延長します。もっと僕のことを愛してください」

 オカマは決して焦らず、長い時間かけて僕の体を開いていった。そしてここが限界だと思う場所にさしかかっても、念入りな愛撫をやめることはない。自分でも驚くほど、快楽の底は果てしなく広がっていた。


 やがて僕はこの母親のような男性に抱かれ、安らかな眠りへと落ちていった。学年一位をとるべく、疲れ果てていた僕にとって、それは何ヶ月ぶりかに訪れる安眠だった。「もう無駄な戦いはやめていいよ」誰かに言われた気がした。


 日暮れ前に店を出た頃には、僕は違う人間に生まれ変わったようだった。やり場のないいらだちは解きほぐされ、今なら世界中のどんなもので愛せる気がした。

 僕に足りなかったのは愛だ。それがわかっただけでも、性を買った甲斐があった。


 僕は夕暮れの空を見上げ、大声で叫びたくなった。

 そのとき、歌舞伎町を歩く僕の端末が鳴った。集合時間にはまだ一時間ほどあった。

 訝しむ僕の目を釘づけにしたのは、美琴先生から送られてきた一通のメールだった。


 ――H組の生徒全員は、直ちに秋葉原へ集合すること。


 そのあと僕やクラスメートたちが知らされたのは、自由行動中に康介が逸脱したという事実だった。

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