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†:愛に飢えた子供 7


 株取引という概念については知っていた。いくつかの本において、主人公たちが株取引をするストーリーが描かれていたからだ。まずは彼らの手法を一通り学ぶことにしたが、それはあまり参考にならなかった。休み時間を利用しながら、僕は一日中、株の値動きを細かに眺め続けた。


 一日目、まだ盲目の中、僕は光る株を見つけ、その上下動を把握した。

 二日目、僕は過去のチャートを見ながら上限値という抵抗線を見いだした。

 三日目、僕は抵抗線より下ぶれている株を選び、その値動きを確かめた。

 四日目、僕は最初の三銘柄を買った。

 五日目、僕は最初の一銘柄を買い増し、僕の手持ち株とした。

 六日目、僕は休んだ。銘柄検討。

 七日目、僕は休んだ。銘柄検討。

 八日目、僕は最初の二銘柄を売り、利益を出した。


 神が天地を創造したように、僕は株取引の基礎を固めた。利益を確定させたときは飛び上がるほど嬉しかったが、慢心を戒めて平静に戻った。


 一ヶ月は銘柄調べと、株の値動きにかかわる事象の精査に時間を使った。利益は上がらなかったが、土台は堅牢(けんろう)なほどいい。


 長期保有が目的ではないため、短期の売り買いの修練に努めた。手持ちのポイントは全て現金化し、僕は三百万の資金を残らず株につっこんだ。


 株は僕を虜にした。世界の情報に触れられる興奮も手伝って、僕は自分が拡張された感覚を肌で感じた。治療の一環だということを忘れてのめり込んだ。授業は上の空になった。


 寝ても覚めても株のことばかり。だがそのおかげで、最初の一ヶ月が過ぎた頃には、僕は一人前の株トレーダーになっていた。僕が求めていたものは、これだったのだ。


 授業中。僕はトイレに立ったふりをして、化学準備室に駆け込む。

 チャートを見ながら買い注文を出し、教室に急いで戻る。その繰り返しだ。


 英語の授業中、僕の頭の中でアラートが鳴る。

 ――ブラジルの景気指数が上昇しました。これにより商社株の値上がりが予想されます。

 物産株を買わねば。二十五パーセント買い増しだ。


 数学の授業中、頭の中でアラートが鳴り続ける。

 ――中国が人民元を切り上げました。これによりユニクロ株が下降するでしょう。

 手持ちのユニクロ株を売って、日航株と切り替えねば。


 世界史の授業中、アラートが鳴る。

 ――日経平均が抵抗線に到達しました。ほどなく株価は全般的に緩やかに下がるでしょう。

 強気な株につっこむ。特に不自然に下げたところが狙い目だ。あとで急反発がある。


 物理の授業中、アラートが鳴り続ける。

 ――日銀が金融緩和を発表しました。直ちに円安になり、輸出企業株が上がるでしょう。

 同時にルノーが日産株を売った。そこを拾って買い増しだ。


 生物の授業中、アラートが鳴る。

 ――建材メーカーが不正を起こしました。その余波がデベロッパーにも及ぶでしょう。

 全力で空売りだ。ここは強気にいく。


 体育の授業中、アラートが鳴り続ける。

 ――外国人観光客の増加を織り込んでいた航空各社株ですが、値幅余地は微量ながらあるでしょう。

 日航株とその関連株を買い増す。数日後には利確する。


 万事がこの調子。利益は細切れに積もる雪のようだったが、決して溶かさないテクニックと情報処理能力を身につけた。

 中等科二年生の日々を、僕は株取引と共に生きた。目標は一年で一千万に増やすこと。具体的な数字を前に、僕は奮い立った。


 校内で表彰されることよりも、株で儲けたほうが何倍も嬉しい。授業が疎かとなり。成績が下がるのも(いと)わなかった。弱かった僕が、夏を越え、秋を経て、冬になる頃には逞しく成長したように感じられた。やがて春が来て、目標値に達した利益を口座で確認したとき、遂に来るべき瞬間が来たと思った。


 一年かけて八桁まで増やした金。これだけの大金を生み出したのは、他に誰もいないだろう。僕は自信に満ち溢れた、現代のシャイロックです。


 学校一の金持ちになったことは僕が誰よりもすぐれた人間であることの輝かしい証明だった。同じだけの達成を康介ができるとは思えない。学年一位の和希も僕の実績の前には霞んで見える。僕自身がシャイロックになれ――。常磐先生が言ったことを実現できた。誰よりも先に報告せねばならない。そう思った。


 担当官室に行くと、先生は不在だった。僕はその足で校内をかけずり回った。先生がいたのは門につづく並木道のところだった。季節は春。狂い咲きの桜が舞っていた。桜を見上げて佇む先生のところに追いつき、僕は達成を告げた。褒めて貰うつもりではなかったが、口座の写しを見せると先生は自分のことのように喜んでくれた。


「遂にやり遂げたのですね」

「はい」

 僕は興奮した声で答えた。


「君はシャイロックになれた。そのことを誇っていい」

 先生の口からあらためて言われると、自信が揺るぎないものになったことを感じた。


「これで僕は学年一、すぐれた人間になれました」

 先生のおかげです。感謝してもしきれなかった。逸脱しかけた僕を高みへと導いてくれたこと。世界への扉を開いてくれたこと。H組生に課された命題をクリアし、不安定だった病気も克服することができた。


 僕は自分の中にいる男性と一つになり、本当の自分へと生まれ変わることができた。先生が組んだ治療プログラムは完璧だったわけだ。

「琉架」

 先生は桜並木を見上げながら呼びかけてきた。僕は先生の顔を見つめた。


「桜という花はふたつの意味を持っています」

 穏やかに語り始めた先生の言葉に、僕は耳を傾けた。


「桜という花は一瞬で散る。それは儚さの象徴です。しかし同時に、桜はまた次の春が来れば見事な花を咲かせます。これは永遠の象徴です。そのあり方は、人間の深層心理とも言うべき美意識を形づくってきました」


 僕は耳を傾けながら、小さく頷く。先生が、何か大事なことを言おうとしていることがわかったからだ。


「人間は儚さに無情を感じ、永遠を狂おしく求めます。しかし人間は桜ではない。人間に永遠はない」

 僕たちに永遠はない。なぜなら人間は滅びるからだ。儚く散ることはできても、満開の花を永遠に咲かせ続けることはできない。

 頭では理解できても、少し嫌な感じがした。死のイメージが忍び込んできたからだ。


「君たちセレブレも、人間と同じく儚い存在です。もしかすると、人間よりずっと弱々しく、刹那的な存在なのかもしれない。ぼくはそのことを哀しく思っています」


 僕は徐々に現実へと連れ戻されていた。人間になることができたにもかかわらず、僕はどこまでもセレブレという括りに縛られている。株取引に打ち込む日々は、そうした抜け出しがたい檻を忘れさせてくれた。だが、一旦トレードを離れれば、僕は苗字を持たない一人のセレブレに戻る。


「先生は何が言いたいのですか」

 先を聞きたくなかったのに、なぜかそう尋ねてしまった。


「琉架。ぼくは海兵自衛隊から出向してきた将校です」

 桜から僕へと視線を移し、先生は言った。それは突然の告白だった。


「この学校に赴任して、ぼくなりにセレブレを理解しようとしてきました。変えられない使命を抱き、今という瞬間を生きる君たちに自分を重ねて来ました。それが担当官としてとるべきやり方だったのかはわからない。しかし琉架、君という存在の成長に関わることができて、ぼくは自分が間違っていなかったと思えることができました」


 それは本心の吐露だった。先生は僕を見つめた目を動かさずに言葉を続けた。


「ぼくは君に、人生最良の瞬間を味わわせてあげたいと思っていました。散りゆく桜が最高に美しく色づくときのような、時間を止め、それを永遠にしたくなるような瞬間を」

 僕は相づちを打てなかった。先生の発言に不穏さを感じたからだ。


「今の君は誰よりも強い。儚く散る桜よりも(たくま)しい。君は病を乗り越え、自分自身になることができた。H組生に求められた人間性を高いレベルで発揮することができた。そんな君だから、どんなに峻険(しゅんけん)な壁でも乗り越えられると思う」

 先生の視線は、僕をどこかへ誘おうとしていた。そこは天国ではなかった。


「人間になれたセレブレには、決められた奉仕先を教えることになっているんです。康介に続き、君が二人目です」

 憐れみの表情というものがある。先生が浮かべたのはそれだった。

「琉架。君は国立誠心医大病院に奉仕することになっています」


 病院。

 僕たちセレブレの解釈では、それは臓器提供者になることを意味する。


「この使命が何を示しているか、賢い君ならわかると思います」


 わかります。いや、わかりたくない。僕は人間になったはずだ。

 それなのに提供者? 意味がわからない。

 血の気がひいた僕に、先生は問いかけてくる。


「琉架。君は外の世界に出たら何になりたい?」

「……株トレーダー」

 僕は呆然と答える。裏返った声が、動揺を物語っている。


「もしその気持ちが本物なら、簡単に捨ててはならない。限られた条件を満たせば、奉仕先は変更可能です。学年一位をとりなさい。セレブレに降りのエレベーターはあっても、昇りは存在しない。ならば階段で昇ってやりなさい。これはルール違反ですが、ぼくは君のことを助けたい」


 先生は温情を示したのだろう。

 しかしその抜け道は、険しい茨の道であることを僕はよく知っていた。

 学年一位は和希だ。到底越えられるとは思えない壁だった。

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