†:告発者の詩 7
琉架くんによる虐待で気を失ったわたしは、それからしばらくの間、眠っていました。そのとき、偶然にも康介くんの夢を見ました。
二年生の頃、季節は春分だったでしょうか。美琴先生が「狂い咲き」と呼んだ桜の街路樹をわたしは眺めていました。人工太陽の光は本物ほどには気候をコントロールできず、誰も咲くはずがないと思っていた桜の木がまさしく気が狂ったように満開の花を咲かせた日のことでした。
わたしが歩いて行く先に、見慣れた学生帽の生徒がいました。外部のことは知りませんが、本で読む限りでは学生帽はポピュラーなものではなく、それはこの学校でも同様でした。だからその生徒が康介くんだということが、わたしにはひと目で分かりました。
「なにしてるの?」
夢の中のわたしは、大胆にも彼に声をかけました。だけどさすがは夢の中だけあって、振り返った康介くんが何を言い返したのかは判然としませんでした。
優しい笑みを浮かべながら、わたしのことを「聖良さん」と呼んでくれたことがわかりました。
そして、くしゃくしゃの髪に学生帽をかぶり直し、桜の木に目を戻してしまいます。
狂い咲きの花がよほどお気に召したのでしょうか。じっと口をつぐんだまま、眼差しを上げ続ける康介くん。
わたしはその光景をどこかで見たことがあると夢の中で思いました。まるで咲き誇る桜花を羨むような表情。あるいは、自分を儚い花になぞらえて、同情を寄せるような顔つき。
この地下施設で育ったという点で、桜はわたしたちと同じ運命を共有していました。彼の揺るぎない眼差しは、わたしを切ない気持ちにさせました。桜の儚さを愛でる行為に哀しみが押し寄せ、使命という波間を漂う自分たちのことが思い出されました。康介くんは立ち止まった姿勢のまま、もう振り返ることはしません。隣に突っ立ったわたしを残して、やがて彼の姿は消えました。
気づいたら、わたしは病室にいました。
おそらく眠っていたのでしょう。制服からジャージに着替えた記憶があります。琉架くんが放った炎は、わたしのスカートを焼き、太ももから上に火傷をこしらえたようです。
起き上がると下腹部が痛みます。それにちょっと前髪が焦げたようです。左目にも包帯が巻かれていました。とはいえ、体の痛みよりも、精神的なダメージのほうが大きかったようです。わたしは琉架くんの顔を頭の片隅に押し込み、心の痛みをこらえながら、病室を見回しました。
個室というには広く、集団部屋というには狭い部屋でした。隣を向くと、顔を包帯でぐるぐる巻きにした、ミイラ男のような人がいて、じっと本を読んでいました。わたしは「あっ」と声をあげそうになりました。その前に、ミイラ男が声をかけてきました。
「目が覚めたんだね、聖良さん」
ミイラ男はわたしのことを知っているようでしたが、理由は直ちにわかりました。
「俺、和希だよ」
「和希くん?」
俄には信じがたいことでした。クラスに顔を出さなかったことから、わかっていて然るべきことだったはずでしょうが、実際目の当たりにするまで、彼の負傷がここまでひどいとは思っていませんでした。
「和希くん、大丈夫?」
あまりの痛々しさに、わたしは月並みなことしか訊けません。
「問題ないよ。顔の火傷くらい、どうってことない」
だけど、ケロイド状になった火傷は一生残ると言います。わたしなら絶対に耐えられません。
同情を寄せるポイントがずれている気がしましたが、わたしは和希くんのあっけらかんとした態度に救われた思いでした。虐待を受けたわりに、彼からは悲壮感が感じられませんでした。読みかけの本を置き、和希くんはわたしのほうを向きました。
「委員長。きのうはありがとうな」
包帯から飛び出したポニーテイルを揺らし、和希くんが頭を下げました。なぜ感謝されたのでしょう。わたしは戸惑い、言葉に詰まりました。
「クラスの中で、一人だけ反対してくれて嬉しかった」
「……大したことじゃないよ」
ようやく口から出たのは、そんな台詞でした。でも、感謝される謂われはありません。
「べつにわたしは和希くんや渚くんを庇おうとしたわけじゃないから」
わたしは美琴先生のつくったH組が、薄汚い感情に染まっていくのが嫌だった。そして琉架くんがいったとおり、康介くんの意志を踏みにじることが許せなかった。
委員長といてクラスを取りまとめようだなんて大層なことは考えていなかった。それはわたし自身がよくわかっていることでした。
「でも現に庇ってくれた。俺たちを擁護してくれた。琉架のやったことに抵抗してくれた。された側としては感謝くらいするさ。謙遜されても困るだけだ」
和希くんはぶっきらぼうに言って、包帯の奥からわたしを見つめていました。
白いキャンバスに黒い目が浮かび上がっているようで、わたしは和希くんの感情がまったく読めませんでした。だから唐突にこう言われて飛び上がるほど驚きました。
「委員長に迷惑をかけた。康介の手助けをしたのは俺だ。美琴先生が生徒Aと言っていたのは俺のことだ。俺がそんな真似をしなかったら、あんたや渚に迷惑をかけることなんてなかった。本当に済まなかったと思っている」
わたしが驚いたのは、和希くんが始めた告白のせいですが、もう一つべつな理由がありました。この学校には各所に盗聴器が仕掛けられています。逸脱の可能性がある和希くんのいる部屋にそれが仕掛けられてないわけがありません。
わたしは慌てて、唇に人差し指をあてるジェスチャーをしました。それを見て、和希くんが首を横に振りました。大丈夫だという合図でした。
「盗聴器を気にしてるんだろ。安心しろ、それならもう切ってる」
「切ってる?」
「ああ。盗聴器は基本ログを取るのが目的だから、リアルタイムで聞いてる奴はいない。だから電源を落としても簡単にはバレない。以前、康介の奴が偶然を装って試したことがあったと言ってた。ほんと、いかにもあいつがやりそうなことだ」
盗聴器がないのだとすれば、和希くんが自分が生徒Aだと告白したとしても、不自然なことではありません。それにわたし自身、康介くんに力を貸したのだとすれば、和希くん以外に該当者はいないだろうと思っていましたし、すとんと腑に落ちるものがありました。
ですが問題はそんなところにはありません。いまやH組は琉架くんが仕切っていますし、クラスメートたちは彼に同調しており、シンジは彼らを全面的に後押ししています。
そして恐ろしいことに、疑惑はまだ完全に晴れたわけではありません。和希くんが言ったとおり、生徒Aが彼だとすれば、それを自供するまで追及という名の暴力は続くかもしれないのです。
「これからどうするの?」
わたしの問いに、和希くんは目をそらして遠くを見ました。
「わからない」
小さな答えだけは返ってきました。
「盗聴器がないなら、訊きたいことがあるんだけど」
「なに?」
「美琴先生のメールを貰ったのは和希くんなんだね」
「ああ」
ぽつりと言った和希くんが、視線を戻しました。
「端末を貰ったのは俺だ。あいにく隠し場所は教えられないが、美琴先生は俺に全てを託すつもりだったらしい。他にも色々な事実を教えてくれた」
「事実?」
「聞いたら驚くぞ」
少しだけ勿体ぶった口調になり、わたしには彼が笑んだように見えました。
「担当官の出身官庁を全部知ることができた。どいつが危険な奴か、これで把握できた。それとこれはもっと重要なことだけど――」
「なに?」
「先生は康介は生きているって言ってた。処分は軽いもので済んだわけだ」
康介くんにかんしては、てっきり最悪のケースと思い込んでいたので、これには本当に驚きました。思わず声を上げそうになりましたが、康介くんへの想いは秘めておきたくて、わたしはあえてつまらなそうな顔をつくりました。
「それにシンジの正体も教えて貰った」
「シンジの?」
「ああ。あいつは海兵自衛隊から派遣されてきた将校だ。首領様の代わりに今、この学校を管理しているのはあいつらしい」
なんということでしょう。シンジが何者であるか。その答えはわたしが想像したとおりだったのです。
「だからシンジはあんな横暴を……」
「最高権力者だからな。生徒を殺さない限り、なんだってできるだろ」
表情はわかりませんが、皮肉っぽい声でした。
わたしは饒舌な和希くんに元気づけられたような気になりました。学校から美琴先生がいなくなって以降の騒擾が、どこか遠いものに感じられました。
だけど気になることがありました。わたしは率直に問い質しました。
「和希くん、どうして秘密を教えてくれたの?」
迂闊に口外すれば、彼の身が危ういのに。わたしが感じたのはそうした疑問でした。
「不思議なことか」
「うん」
「そうだな……強いて言えば、信用したからだよ。委員長は俺と渚の味方をしてくれた。他に理由は思い浮かばない」
その発言を聞いて、普段は冷静なわたしは思わず泣き出しそうになりました。和希くんたちの味方をしてよかった、というより、自分の信念を貫いてよかった、という感情です。
琉架くんに踏みにじられた大切な何かを、和希くんは救いとってくれた。大袈裟な感じになりますが、わたしは涙をぐっと堪えました。
「どうした、委員長?」
「ううん。なんでもない」
強がりながら、わたしは首を横に振ります。そして何食わぬ顔で和希くんに問いました。
「ねえ、もう一度訊いてもいい? これからどうするの?」
一瞬、思案するように天井を見上げたあと、和希くんはこう言いました。
「委員長の考えているとおりだ」
「なにそれ。わかんないよ」
「康介のあとを継ごうと思う。うまくいく可能性も少しならある」
和希くんの声には、本気の響きがありました。わたしは狼狽しました。
「でも、奉仕先が変更されるかもしれないんだよ?」
「それなら心配ない。俺に与えられた奉仕先は海兵自衛隊だ。そこで戦闘部隊に配属され、戦争の最前線に送り込まれるわけだ。今さら変更程度で怯える必要なんてない」
和希くんの口にした奉仕先は、わたしの想定外のものでした。
「戦争の最前線って……」
おうむ返しに言って、言葉を失っていると、和希くんが話を継ぎました。
「すぐれた軍人がいなければ、いい戦争はできないだろ。美琴先生も言っていたことだ。どこに行くかじゃなく、何をするかだと。俺は納得している」
なんて勇敢な人だろう。わたしはこのとき初めて、和希くんに特別な感情を抱きました。その勇気をわたしにも分けてほしい。強い感情が胸の奥からせり上がってきました。
わたしが心の高ぶりを抑え込んでいると、和希くんは急に軽口を叩きました。
「まあ、意外だろ。ちなみに委員長は?」
「……えっ?」
自分の奉仕先。これまでは、それが誰よりも恵まれたものだったという思いから、口にするのが憚られていたのですが、なぜかこのとき、わたしは素直に答えられました。
「幼稚園の先生。わたしの希望どおりだった」
「委員長、ピアノ弾けたもんな」
「うん」
「そっか。よかったじゃん」
顔に巻いた包帯がよれ、和希くんが笑ったことが伝わってきました。
深刻すぎて誰にも話せなかったことを、こうして自由に話せている。わたしはそのことが嬉しくて、またしても涙が出そうになりました。だけど和希くんの言葉が、わたしを現実に引き戻しました。彼は淡々とした口調で次のように言ったのです。
「ただ、このままじゃ俺たちはじり貧だ。クラスに戻っても、監視下に置かれて、今度はどんな暴力を振るわれるかわからない。だから委員長、これは相談なんだけど……」
「なに?」
「俺はひと芝居打って琉架の足をすくってやろうと思っている。その手伝いをしてくれないか。これ以上、あいつをのさばらしておくわけにはいかない」
「でも、琉架くんに歯向かうと、シンジがしゃしゃり出てくるんじゃ……」
「わかってないな。シンジが絡む前に決着をつけるのさ」
穏やかな声で言い切った和希くんの包帯顔に、もう笑顔はありませんでした。