†:告発者の詩 2
美琴先生がいなくなった翌日のホームルームに、常磐慎司はもの静かに現れました。
彼は、二年時から赴任してきた担当クラスを持たない化学教師で、その人となりはそれほど詳しくありませんが多少は把握していました。
『新世紀エヴァンゲリオン』というアニメに出てくる主人公と同じ名前であり、一人称が「ぼく」であることから、みんなは彼のことを裏で「シンジ」と呼んでいました。美琴先生のときと同じく、名前で笑いをとっていくのはH組の得意とするところでした。
だけどアニメのシンジと比べ、こちらはまったくの別人。冷たく研ぎ澄まされた刃のような雰囲気で、一点を見つめてぴくりとも動かない瞳が印象的な、ひと言でいえば「怖さ」を感じさせる担当官でした。
美琴先生の代わりがシンジだと知り、わたしは直感的に嫌な感じを持ちました。生徒から人望を集めるタイプではなく、わたしたちにとって彼は淡々と化学を教えるだけの存在にすぎませんでしたが、そんなシンジが美琴先生の代理となることを歓迎した人はいなかったと思います。
それに美琴先生の離任があまりに衝撃的だったこともあって、わたしたちH組の生徒はどこか上の空で、抜け殻のような虚脱状態でした。だからシンジが発した第一声を、わたしたちは真剣な気持ちで受け止められなかったのだと思います。
「H組の諸君、よろしく。常磐慎司です。これまで君たちの化学の授業を担当していましたが、訳あってきょうから担当官となりました。卒業式までの短い間ですが、自分に課せられた使命を粛々と果たしていこうと思う」
使命? 最初は何のことかと思いました。
一瞬のあいだ呆けたわたしをよそに、シンジはそこからH組の空気を一変させるようなことを言い出しました。
「このクラスの康介が逸脱したことは把握済みです。そして彼に協力した生徒がこのクラスにいるだろうことも、承知しています。逸脱の手助けも逸脱の一つ。彼らが康介の意志を継いで不穏な行動に出ることは望ましくない。ぼくはさらなる逸脱が起こらないよう、上から指示されてここに来ました。
このクラスには康介と仲がよかった生徒がいることを君たちは知ってると思う。彼らが衝動的、あるいは計画的に康介と同じ轍を踏まないとは限らない。H組の諸君には、彼らが次の逸脱に走らないよう、注意深く監視して貰いたい。そのためなら、どんな措置をとっても構わない」
そこまで言い終えると、ぼんやりしていたクラスメートの耳目が、教壇のシンジに集まっていくのがわかりました。だから彼の向けた目線を追えば、次の逸脱を危惧されている生徒が誰かを、みんな理解できたと思います。シンジが目を向けたのは、教室の後ろの席に座る、和希くんと渚くんでした。
彼らを監視? わたしはシンジの正気を疑いました。
美琴先生なら絶対にやらないことです。シンジが人間性への配慮を欠いているのか、それとも配慮できないほど担当官たちが逸脱を怖れているのか、わたしには判然としませんでした。
ともかくこのときには、わたしは前者だと思いました。いずれにしろ、シンジにこのクラスを人間扱いする気がなかったことは確かでした。
「監視なんて言い方をすると大袈裟に聞こえるかもしれない。しかしそこから汲み取って貰いたいのは、事態の重さです。君たちはセレブレ計画の第一期生として、重大な責務を負っていることを理解していると思う。君たちにはこの施設を恙なく卒業し、社会に貢献して貰わなくてはならない。そして後に続く者に、範を示して貰わなくてはならない。
逸脱が幾度も起きたとなれば、セレブレ計画の運用にダメージを与えます。君たちH組生は、他のクラスにはありえない概念、すなわち自由意志なるものを認められてきたことは知っていますが、そういう特別扱いが康介を逸脱させたのだとぼくは思っている。だからもう特別扱いはしません。卒業までの間、ぐらついたクラス運営を改善し、無事奉仕に就いて貰うことがぼくに課せられた至上命題です。そのミッションをぼくは、君たち一人ひとりと共有していきたい。協力して貰えるだろうか?」
協力と言われても、和希くんや渚くんを監視することへの協力でしょうか。わたしのみならず、H組生全員が困惑したと思います。やむなく頷いた生徒がちらほらいましたが、その反応の悪さにシンジは声を大きくしました。
「返事がないようだが、協力して貰えるだろうか?」
丁寧な口調を捨て、目を細めながら眦を吊り上げました。
「はい」
各所から上がった小さい反応に、シンジは不満なようでした。
「返事が小さいですね」
「――はい!」
クラスの半数近くが大声を出すと、シンジはようやく細めた目尻を下げ、狡猾なキツネのような笑顔をこしらえました。
「よろしい。ぼくの意図が伝わったようで嬉しく思う。同時に協力して貰う以上は、ぼくの指示どおりクラスの動向を監視してください。もし次の逸脱が起きれば、その累は君たちにも及ぶだろう。決定した奉仕先にも影響が出るかもしれない。安定こそが未来の希望を形づくるのです。君たち一人ひとりの行動に期待しています」
美琴先生が危惧したとおり、シンジは連帯責任を示唆し、それどころか奉仕先の変更さえ匂わしました。それはわたしのような、奉仕先に恵まれた人びとが心底怖れていたことです。
そんな文字どおりの殺し文句を口にして、シンジの着任挨拶は終わりました。そこから悍ましい弾圧が始まるまで、さほど時間はかかりませんでした。