魔法の乱用
その日イナビは幕の内弁当を一つ持って帰宅した。
骨董屋の男と話をしていた時、すでにイナビの体力は限界だった。が、手ぶらで帰る訳には行かずメルのために夕飯を一食買って帰路についたのだ。
いつも以上に埃の匂いを振りまきながらの帰路は面白いほど人が道を開け、負の感情が滲む視線を除けばイナビが王様になったようにも見えなくはなかった。
無心で歩いていたイナビは不意にキャラメルの匂いに気が付き足を止めた。
自宅前。いつの間にか到着していた。
イナビがやけに重たい扉を開けると、メルの物ともう一足誰かの靴が目に入る。
もしやと期待しながら「ただいま」と言うとリビングの扉が軋みを上げながら開いた。
「お帰りなさい。今日は何だか嬉しそうですね?」
姿を見せたのはエプロン姿のメルだ。期待から少し上機嫌なイナビを笑顔で迎える。
「おかえりイナビ。今も夕飯作らせて貰うよ」
メルの後にマナがリビングから出て来た。
イナビはホッとして手に持った一つの弁当を持ち上げる。
「実は今日給料が貰えなくて……いつも以上に助かる」
「そう、なんだ。大変だね。待ってて、すぐ作るから」
「ああ。ありがとう」
マナはそう言うとさっさと奥に引っ込んでしまったが、イナビは改めて礼を言った。
魔法の使い過ぎで体力を激しく消耗しているイナビはやっとの思いで靴を脱ぐ。先程から彼を襲っているめまいと倦怠感もそれが原因だろう。
「……あの……ちょっといいですか?」
イナビが家に上がった所でメルは何かに気がついた様だ。
メルはイナビの返事を待たずに彼の右手を自身の両手で包み込む。
突然の温もりにイナビの思考が止まったが、それも一瞬の事。次の瞬間からはメルの意図を探ろうと彼女の目を覗き込んでいた。
「……えと……何してるの?」
「冷たい」
「は?」
するとメルはイナビの右手ごと自分の手を胸に引き寄せる。
「メ、メル!?」
「体が冷たいです!それに、いつもより匂いが濃いですし……ほんの少しですが血の匂いが混ざっています!」
「血の匂い…………なるほど。それはまずい」
メルに指摘され、イナビは自身が非常事態である事を理解した。
魔法は命を消費して発動させる。故に魔法の乱用は命を落としかねない非常に危険な行為なのだ。
そして、それをすると魔法の匂いに血の匂いが混ざる。その匂いは濃ければ濃いほど危険な状態にある。
ちなみに、イナビは父親が医者のためこの事を知っていた。しかしメルは魔法の乱用が危険だということは知っているが、血の匂いの事までは知らない。
イナビは自身の魔法の匂いなど分からないが、メルが血の匂いはほんの少しだと言うので症状は酷い風邪をひいた時と同様のはず。
無理をすると死ぬ可能性があるのでイナビは仕事をしばらく休む事を余儀なくされた。
「メル。俺寝るよ」
「え?あ、はい。夕食はどうしますか?」
「うん。できたらすぐがいいかな。起こして貰っていい?」
「はい。わかりました。あの、今日はベッドを使ってください。あの敷き布団だと硬くて休めないと思うので」
「え、それは…………いや、そうさせてもらおうかな」
イナビは少し考えた後メルの提案を受け入れることにした。
イナビが迷った理由はいつもそこでメルが寝ているからだ。この家は元々イナビしか住んでいなかったのでベッドが1つしかない。メルが住むことになるとイナビはメルにベッドを譲り自分は適当な布を重ねて作った布団を床に敷いて寝ていた。だからイナビがベッドを使えばメルはお世辞にも快適とは言えない布団で寝ることになる。
だが、自身の体調の事を考えるとメルの言葉に甘えた方がいい。
イナビは寝室に入り寝巻きに着替えるとベッドへ倒れ込んだ。久々のベッドは相変わらず柔らかく毎日使用しているメルのキャラメルの様な甘い匂いが付いている。
「寝心地は結構だが……これは落ち着かない」
そうは言うものの魔法を乱用した身体は否応なしにイナビを深い眠りに落とした。
“酷い”
イナビが黒髪の少女を見た素直な感想だ。長い髪は光を全く反射しない黒。身につけているのは白いワンピースだけで靴や靴下、アクセサリーなどは一切ない。そして体のあちこちには深い傷があり、首には一度切断されたとしか思えないような青黒い傷跡が刻み込まれている。少女は手術台の上でこちらに背を向けて座っているのでその表情は伺えない。
イナビはいつも通り「なんとかしろ」とだけ言われているので対応もいつも通りに行う事にした。
「あの。どこをどう治療すればいいですか」
この言葉は相手がどんな状況であれ最初に聞く言葉だ。
「…………」
「……(あー、よくあるよくある)……え、と。どこをどう治療すればいいですか」
「…………」
イナビは再度問いかけるが少女はイナビに見向きもしない。
このような事はイナビが魔法体質を持っているせいか頻繁に起こる。その度にイナビは「ギルドの税金」だとか「あんたの家族が治療費を払ってるんだぞ」だとか脅しを入れるのだが、この黒髪の少女が黙っている理由がはたして魔法体質のせいなのかが分かっていないため、無闇に挑発をして人間として嫌われる事は極力避けたい。
イナビは少女の素性を知るためにも可及的優しく接することにした。
「…………だ、大丈夫?喋れないとかそういう感じ?」
「…………」
すると少女はやっと振り返り、首をかしげた。
「……だあれ?」
やっと見えた幼い顔はほとんどが漆黒の髪に隠されていたが、その髪に負けないくらいの濃い隈があり消耗していることがありありとわかる。
「いや、俺が質問してたんだけど……まあいいか。俺はイナビって言うんだけど、君を治療しろって言われてるんだ。だから治してほしい怪我とかあれば言ってほしい」
仕事とは関係の無い方へ話が進みそうだったのでイナビは少女に再三の問いかけをした。
すると少女は先ほどと同じように首をかしげ、しばらく何かを考えた後小さく首を横に振った。
「えっと、治さなくてもいいってことであってるのかな?」
「…………」
少女は小さく頷いた。
「…………(こーいうの困るなー)」
「……あっ。でも……」
「え、どうしたの?」
「…………首……怖い……嫌」
少女がうつむき気味になり表情が全くわからなくなる。
「…………怖い……嫌……痛い……!」
「お、落ち着いて!首の傷跡を治せばいいんだね!」
「…………治るの?……もう、痛くなくていいの?」
「お、おう!任せろ!」
イナビは少女の不思議さにペースを崩されていると気がつき一旦落ち着くことにした。
「えーと、首の傷跡が痛い(?)から治してほしいと。じゃあ、早速治療を始めるから……そうだな、座ったままでいいよ。あと、首をちょっと触るけど我慢してね」
イナビの言葉に少女は顔を上げ少し明るく頷いた。
甘い、キャラメルの匂い。イナビは瞼を開ける。
目に入るのは毎朝見る家の寝室の天井だ。
頭痛と軽い吐き気に五感が強制的に覚醒したイナビは隣の人影に気がついた。
「あ、すみません。起こしましたか?」
純白の髪が揺れる。
イナビは記憶に新しい漆黒の髪とのギャップに目を細めた。
「か、顔に何か付いてますか?」
「いや、ちょっと眩しかっただけ」
「?……夕飯持ってきました。食べられそうですか?」
「ああ、ありがとう。いただくよ」
食欲はあまりないが、出来立てがいいと言ったのは自分自身なので(嫌なわけではない)ありがたくいただくことにした。
メルは陶器製の茶碗の乗ったお盆を持ち上げるとベッドの上まで運んでくる。
「起き上がれますか?」
「うん、大丈夫…………っと」
イナビは重い頭を抱えながら起き上がった。
茶碗にはたまご粥が入っていて漂う鶏ガラの匂いといい湯気の立つ見た目といい体調が悪くさえなければとても食欲がそそられただろう。
「そ、それではっ」
何故かかしこまったメルに嫌な予感しかしない。メルは匙でたまご粥をすくいフーフーと冷ますと上目遣いにイナビを見る。顔が赤いようだが。
「く、口を開けてください!」
「え?」
イナビは何となく予想はついていたものの実際に言われると何も返せなくなるものだと学習した。
「え?じゃないですよ!私があーんしたい……病人にご飯を食べさせるのは普通のことですよ!」
「そ、そうかー。そういうものなんだなー。はは。そうだよなー」
イナビはメルが何かとんでもない言い間違えをしたのは聞かなかったことにした。
「そういうものなんです!ですので……その。あ、あーん」
「え、本当にするの」
「するんです!するったらするんです!」
メルはいっそう赤くなった。少し目も潤んでいる。
イナビはこれは絶対引かないやつだと悟り仕方なしに一口食べると決断した。側から見るといじめているようにも見えるのでそれが最善だと言い聞かせる。
「は、早くしてください!」
「わかったよ!一口だけだぞ!」
「ひとくち……」
メルはあからさまに落ち込んだが慈悲の心はあるようで了解した。
「そ、それでは、あーん」
「あ、あーん……」
……………………。
「…………うん。うまい」
「それだけですか?」
「え、えと……メルに食べさせてもらったから余計美味しく感じるのかなー。的な?」
………………………。
………………………ギキィ
「あーそのー。お楽しみのところ悪いんだけど、こっちのご飯も冷めちゃうから早く食べない?」
このタイミングのマナの登場は彼女なりに空気を読んだ結果だ。
「あ、はい。すみません。今行きます…………食べるの無理しないでください。辛かったら残してもいいですよ」
メルはそう言うとリビングへ小走りして行く。
「……(今さっき無理して食べたんだけどなあ)」
マナの活躍もあり、イナビは落ち着いて食事のできる環境を手に入れた。