魔法使いとの契約
それは、単なる思いつきだった。
海ちゃんの言う『魔法』が契約で成り立つものならば、契約者と対象者は必ずしも同一である必要は無いのかもしれない。
仮にそれが不可能だったとしても、どうせ祈るだけの状況に戻るのに変わりはないのだ。
「海ちゃんの言う通りなら……親父の器を少しでも大きく、頑丈にできるのなら、こぼれ落ちそうな命の欠片を受け止められるかもしれない。砕けそうな体を、保てるかもしれない。無駄に終わるのかもしれないけど、縋るものがあるなら、なんだって……」
「お兄さん……」
海ちゃんは少しの間俺を見ていたが、やがて決心したように大きくうなずく。
その顔は、いつもの少し大人びた少女のものではなく、俺の知らない、おそらくは魔法使いとしての顔だった。
「わかったよ。でも、少し時間をもらってもいいかな。契約する人には、聞いてもらわなきゃいけない話があるから」
言いながら、海ちゃんは例の契約書を取りだし、こちらに差し出してくる。
今までよく見たことはなかったが、ごく普通の契約書だ。
甲が乙にどうとか細かい規約が書いてあり、最後に署名欄と対象者名を記入する場所が設けられている。
「ここに俺、ここに親父の名前で良いのかな?」
「いいけど、契約書、ちゃんと読まなくてもいいの? サインしたら後戻りできなくなるけど、ほんとにいい?」
「君のことは信頼してる。今さらそんなこと言わないでくれよ」
思えば、このときにきちんと内容に目を通しておくべきだったのだ。
焦りと不安のあまり、俺は契約時に必ず行わなければならない重要事項の確認を怠ってしまった。
心配そうな海ちゃんを気にしながらも、自分の名前と親父の名前を契約書に記し、海ちゃんに手渡す。
「……うん、確かに受け取ったよ。契約者はお兄さん、対象者は院長さんでいいんだよね?」
「ああ」
「じゃあ、申し訳ないけど少し話を聞いてね。この魔法を使う前には、私たちのことを知ってもらう必要があるの。まずは、これを見て」
契約書と入れ違いに海ちゃんが突きだしてきた写真は、前に夕食の時見た写真だった。
宗次郎氏が海ちゃんのお姉さんだと言っていた、あのきれいな女性が写っていたものだ。
「これって、お姉さんの写真だよね」
「…………ううん、違うよ。それは十年前の私」
「は?」
「これが五年前。これが三年前の写真」
突然のことに間抜けな返事しかできない俺に、海ちゃんはどんどんたたみ掛けてくる。
五年前という写真には高校生ぐらいの、三年前という写真には中学生ぐらいの女の子が写っていた。
ちょっと待て、十年前の写真が二十歳前後ってのもおかしいけど、だんだん若返っていってるってのはどういうことだ。
「待ってよ海ちゃん。十年前の写真がこれって、なんなんだよ。言ってることがわからないんだけど」
「そのまんま、言葉通りだよ。それが十年前の私。二十歳」
「いや、説明になってないだろ! 今の君、どう見たって十歳ぐらいだぞ! 他の写真だって……なんで年取るごとに小さくなってるんだよ!?」
つい、と。
海ちゃんの表情が薄く翳った。
最初に写真を返したときのあの感じだ。
「お兄さん、何かをするためには、必ず対価が必要になるよね」
「対価…………って、まさか」
「そういうことだよ。人間の器をどうこうしようなんて、そう簡単にはいかないの。それ相応のものを支払わなきゃいけないんだ」
そうか、そういうことか。
魔法の説明を聞いたとき、かすかに浮かんだ小さな疑問。
その正体が今はっきりと分かった。
例えば、ゲームで魔法を使うときはMPとか精神力とか、そういうものを消費する。
おとぎ話の魔女は、魔法を使うために薬を作ったり生け贄を用意したりする。
だったら、現実に魔法というものがあった場合にも、なんらかの代償を支払う可能性があるのは十分に予想できたことだ。
「君は、自分を、自分の魂を削って、人にそんな魔法をかけているっていうのか」
「うん、そうだよ」
「なんでだ!? どうしてそんなことができるんだ!? まだ知り合って間もない、赤の他人なんかのために!」
「他人? 違うよ。一緒にいた時間は短かったけど、私たちはお兄さんを家族だと思っていたし、お兄さんの方もそう思ってくれてたって信じてるよ」
海ちゃんの放った言葉は、俺を黙らせるのに十分な威力を持っていた。
実際俺も二人のことを家族同然だと考えていたし、同じように向こうもそう思ってくれているだろうと考えていたからだ。
「それに、後悔はしていないよ。これは、私が選んだ魔法使いとしての生き方、生きる道だから。一人でも多くの人が幸せになれるのなら、それで構わない」
「それじゃあ、君の幸せはどうなるんだよ。君が幸せにならなければ、俺も幸せじゃない」
反射的に出た言葉だった。
海ちゃんの幸せは海ちゃんが決めるものであって、俺に口出しする権利なんか無い。
それでも、何かを言わなければいけないと、思いつくままに溢れさせる。
俺の言葉を聞いた海ちゃんは表情を緩め、これまで見たこともないほど優しく、とても優しく微笑んでいた。
「……今まで私と契約してきた人たちも、みんなそう言ってくれたよ」
「当たり前だろ! 誰かを犠牲にして手に入る幸せなんていらない!」
「うん、望む人は少ないだろうね。だから、契約にはこんな条項があるの。魔法を使う時には、前回魔法を使ってから、今回魔法を使うまでの間に出会った人全ての記憶を消すって。これは私が魔法を使うと勝手にそうなっちゃうから、どうしようもできないんだ」
「それって、つまり……」
「お兄さんや真之介さん、お隣さん、スーパーの店員さんからさっき会ったお医者さんまで、みんなの記憶からこの私がなくなっちゃうってことだね」
それは、あまりにも残酷な処置だった。
契約者に罪悪感や後ろめたさを残さないためなのか、それとも若返っていく魔法使いを憶えている人がいると都合が悪いのか、理由までは分からない。
だが、多少でも心を通わせた人に忘れられる、ということの辛さは、想像するだけでも恐ろしい。
「ふざけるな! そんなの、俺は認めない!」
「仕方ないんだよ、決まり事だから。それにもうサインしちゃったし」
うろたえ、感情のまま叫ぶ俺と対照的に、海ちゃんの態度は落ち着き払ったものだった。
おそらく、こういうやりとりを何度も繰り返してきたのだろう。
俺と同じく、かつて彼女と契約してきた人たちと。
「ごめんね、お兄さん。でも、これだけは分かって欲しいの。私は、お兄さんや世界中の人たちに幸せになってもらいたくて、魔法使いになったんだよ。お兄さんみたいな優しい人たちの未来を、少しでもキラキラしたものにしたかったから。だから、そんな顔しないで」
海ちゃんは穏やかに笑いながら、俺の頬を両手で包み込んだ。
そして、いつの間にか溢れ出していた涙をすくい取るように拭う。
「さあ、そろそろ魔法をかけるよ。準備はいい?」
「……待ってくれ、その前に聞かせてもらいたいことがある」
「うん、なあに?」
「君は、自分の魂を削って魔法をかけているんだよな? それを使い切ったらどうなるんだ……?」
俺の問いに、海ちゃんは少し困ったように視線をそらした。
まさか、これ以上まだ何かがあるというのか。
俺の質問に対する答えは、思わぬところからやってきた。
「私のような存在になる」
鞄から顔を出した宗次郎氏だった。
目を見張る俺を横目に、彼は続ける。
「人としての形を維持できなくなるほど魂を使った魔法使いは、他の容れ物に残った魂を移す。そして、次の魔法使いを見いだすまで、世界を彷徨うのだ」
「ということは、あんたも?」
「ああ、もともとは魔法使いだった。そして、自分が見つけた魔法使いが人の魂を使い切ったとき、その役目を終える。容れ物を後任に譲るために」
どうして。
どうしてそんなことができるんだ。
他人を幸せにするために、自らは終わりの見える絶望の淵に向かって歩き続けるなんて。
自分のことを憶えてくれる人もおらず、ただ一人、相棒を傍らに、文字通り魂を削って。
その先にあるものは、己の半身とも言える相棒との別れ、そして自らの破滅だというのに。
「なんで君たちは、そんな風に……」
「さっきも言ったよ。これが、魔法使いとしての定めだって」
「ここまでくると、もう呪いじゃないか!」
「そうかもね、永遠に終わらない、呪いの輪かな。……でも、でもね、それでもいいって思える人がいることを知って欲しいの。理解できなくてもいい。ただ知ってくれれば、それで」
「くっ…………」
もはやこれ以上俺に言えることは何もなかった。
海ちゃんも宗次郎氏も、これまでに多くの葛藤があったことだろう。
それらを乗り越え、その身を犠牲に魔法を使い続けてきた二人の覚悟に、はじめから口出しなんてできるはずがなかったのだ。
「じゃあ、いいかな?」
死刑宣告のような、海ちゃんの言葉。
いや、俺はこれから自分の大事な人を助けてもらうのだから、そんな言い方はできない。
だが、その前にどうしても言っておかなければならないことがあった。
「最後に、ひとつだけ」
「うん、どうぞ」
「君たちと出会えて良かったよ、本当に。忘れてしまうのは残念だけど、俺はこの気持ちを、今だけは、何よりも大切にするから。…………せめて、消えてしまうその瞬間まで」
そこで一度言葉を切って、俺は自分にできる精一杯で笑った。
上手くできているかどうかなんて分からない。
でも、この別れはどうしても笑顔で済ませたかった。
涙は相変わらず止まらないが、それでも努めて明るい声を出す。
「そして、願わくば……これから先、君たちにもたくさんの幸せが訪れますように」
海ちゃんも、そして宗次郎氏も、俺の心をくみ取ってくれたようだ。
少し寂しげな笑顔で応えてくれた。
「ありがとう、お兄さん。私たちもお兄さんと過ごした時間は、とても幸せだったよ」
「うむ、海の言う通りだ。雄弘殿、達者でな」
少しだけ無言で向かい合って、それから海ちゃんは右手を大きく振り上げる。
そしてもう一度小さく笑い、いくよ、と呟いた。
「お兄さん、院長さんのことを強く考えて。お兄さんを通して院長さんに力を届けなきゃいけないから」
「ああ、いつでも来てくれ」
掲げた右手を俺に向けて振り下ろし、手のひらを広げる。
その先に、何か光が見えた気がした。
「それじゃあ、魔法をかけるよ」
その瞬間俺の体は輝きに包まれ、目を閉じる間もなく意識を失ってしまった。




