魔法使いと飴玉
由良さんが準備してくれた部屋で少し休ませてもらい、次に目覚めたときには空が白み始める時間だった。
思いの外疲れていたようだ。体だけじゃなく、おそらくは心の方も。
海ちゃんはとっくに起きていて、部屋の壁にもたれて鞄に入っていたらしい文庫本を読んでいた。俺に気付くと顔を上げ、本をぱたんと閉じる。
「あ、おはよう、お兄さん」
「ああ、おはよう。すっかり眠っちまったな」
「たまにはたくさん寝た方がいいよー。特にこんな忙しくなりそうな時はね」
うーん、海ちゃんと話してると、どうにも子供相手だってことを忘れそうになることがある。
この子、今まで一体どんな環境で育ってきたんだろうか。
「そうだな。いざって時に疲れ切って何もできないんじゃ、そっちの方が問題だし」
肩をすくめながら返事をし、携帯電話を取り出す。
急で申し訳ないが、バイトのシフトを変更してもらわなければいけない。
もしかしたら、明日も行けないかもしれないし。
その辺は割と融通の利く職場だから、こういうときには助かる。
「あの、お兄さん」
シフト変更希望のメールを打っていると、海ちゃんがおずおずと話しかけてきた。
表情が少し暗い……というか、変な感じだ。
「どうしたんだい?」
「ごめんね。昨日は無責任なこと言っちゃって」
なんのことだ?
励まされはしたけど、謝られるようなことはされていないはずだ。
「無責任って、一体何が?」
「うん、大丈夫、なんて、軽々しく……」
「大丈夫に決まってるさ。実際、親父はまだ生きてる。ほら、だからそんな顔しないでくれよ」
「…………うん」
あらら。これは結構重症かな。
さて、じゃあ今回は俺の番だ
「海ちゃん、口開けて」
「え? あ、はい」
素直に開いた海ちゃんの口にポケットから取りだした飴をひとつ放り込む。
バイト中、疲れたときのためにいくつか持ち歩いているミルク味の甘いやつだ。
「ん、あ、これおいしい」
ふっ、と、少しだが海ちゃんの表情が緩んでくれた。
よしよし、作戦は成功したようだ。
「どう? 少しは幸せな気分になれたかい?」
できるだけ茶目っ気を含んでそう言ってやると、海ちゃんの方もようやくくすくすと笑ってくれた。
思った以上に効果を発揮してくれたみたいで、ほっとする。
「ありがとう、お兄さん。……あーあ、私魔法使い失格だなー。人を幸せにするのが仕事なのに、逆にこんなこと言われちゃうなんて」
「ははは、君が笑っていないと、こっちまで元気がなくなっちゃうからな」
二人で笑っていると、鞄の口から少し顔を出した宗次郎氏がこちらを見ていた。
俺の視線に気付くと再び鞄の中に戻っていってしまったが、その顔も心なしか笑っているように見えたのは、気のせいではあるまい。
「あ、そうだ。お兄さんお腹空いてない?」
腹か。そういえば昨日は結局何も食べてないな。
バイトから帰ってすぐこっちに来たから、由良さんが持ってきてくれた紅茶を一杯飲んだだけだ。
「そう言われれば、はらぺこだな」
一度気にしてしまうと、猛烈な空腹感を覚える。
不思議なもので、人間こんな時でもやはり腹は減るのだ。
「さっき真之介さんがご飯持ってきてくれたから食べよう。ほら」
海ちゃんの指さす方を見ると、ポットと急須、湯飲み、おにぎりがお盆に乗っかって、サイドテーブルの上に置かれていた。
さすがだな、由良さん。
というか、あの人いったいいつ休んでるんだろうか。
「よし、じゃあちょっと早いけど朝ご飯にするか。腹が減っては戦もできないし」
「はーい、じゃあ私お茶淹れるね」
と、海ちゃんがサイドテーブルに駆け寄ろうとした瞬間、部屋に備え付けてある内線電話が鳴った。
嫌な予感がする。
が、だからといって取らないわけにも行かない。
海ちゃんにお茶の準備を続けるよう促して、受話器を取った。
「もしもし」
『雄弘様ですか?』
相手は予想通り、由良さんだった。
声が固い。
「ああ。おはよう、由良さん」
『院長の容態が急変しました。現在はICUで処置が行われています』
…………どうしてこう悪い方の予感ってのは当たるんだろうな。
が、ここでぼやいていても何も始まらない。
「わかった。そっちに行っても邪魔だろうから、ここで待機してる。またなにか動きがあったら連絡お願い」
『雄弘様…………かしこまりました。では』
由良さんは何か言いたげだったが、結局そのまま電話は切れた。
本当は俺だって、今すぐにでも飛んで行きたい。
何もできなくても、親父のそばにいてやりたい。
だが、昨日とはまた状況が違うのだ。
自分で言ったように、ICUの周りでうろうろされても邪魔になるだけだ。
どうせ待つことしかできないのなら、少しでも治療の妨げになることは避けなければいけない。
溜息とともに受話器を置いて、心配そうに見上げて来る海ちゃんにどうにか向き直る。
「ちょっと容態が崩れたみたいだ」
海ちゃんの表情がぐっと引き締まった。
そのことをなるべく意識しないようにし、海ちゃんが淹れてくれたお茶を一口啜る。
と、ふと頭の中にひとつの考えが思い浮かんだ。
もしかしたら、という淡い希望。
正岡先生は、昨日なんて言ってた?
あとは本人次第。
だったら…………。
「海ちゃん、お願いがあるんだ」
「うん、何でも聞くよ」
「保留してあるあの契約って、まだ有効かな?」
「大丈夫だけど、どうするの?」
「君の魔法を、親父のために使いたい」




