魔法使いの気遣い
「ただいまー」
あ、お兄さんが帰ってきたみたいです。
「お帰りなさい、お兄さん。……おや、なにやらスッキリした顔してるね」
バイトから帰ってきたお兄さんの表情は、憑き物が落ちたように晴れ晴れとしていました。
朝、家を出て行ったときとはまるで別人です。何か良いことでもあったんでしょうか?
「ん、そうだな。ようやく決心が付いたというか」
決心……というと、家に帰るってことですよね。
今日一日でこの心境変化。少し気になります。
「それって、一度戻るってことだよね? どうしたの、お兄さん。あ、別にだめって言ってるわけじゃなくて」
うー、やっぱり私は言葉選びが下手だなあ。
前々から宗次郎さんには言われてたんですが、最近になってようやく自覚でき始めた気がします。
「なんて言えばいいのかな、親父に合わせる顔がないとか、自分が情けないとか、そんな風にずっと思ってたんだけど、ふと、ただ実家に帰るだけなんだ、って考えたら、なんか色々どうでもよくなっちゃってさ」
吹っ切れた良い笑顔で答えるお兄さん。
家出するときの話と照らし合わせてみると、この人、かなりの短絡思考なんじゃないかと疑いたくなります。
その上、思い込みも強いし。
「いつまでもつまらない意地張ってないで、ちょっと帰るぐらいいいよな、って」
「まあ、お兄さんが決めたならいいと思うけど。それで、真之介さんに連絡は?」
「ああ、今から電話しようと思って」
と、お兄さんが携帯電話を取りだしたところでチャイムが鳴り響きました。
なんか二、三日前にもこんなことがあったような。
今日はご機嫌なお兄さんが対応に出て行きます。
「はいはい、どちらさん…………おっと、ちょうど良かった。今から連絡しようと」
「雄弘様、一緒に来て頂けますか?」
お客さんは今日も真之介さんでした。
でも、なんか様子がおかしいような。お兄さんのセリフを遮ったりして、らしくない強引さです。
「なんだよ、急に。今からその段取りを立てようとしてたとこなのに」
不満顔で言い返すお兄さんでしたが、続く真之介さんの言葉で一気に表情が凍り付きました。
「無礼は承知しています。文句はあとでいくらでも聞きますので。……院長が倒れました」
「すぐ行く。車は?」
「表にあります。よければ、お嬢さんも」
え…………っと。
急なことで私も頭が上手く回っていません。
とりあえず、一緒に連れて行ってはもらえるみたいなので、お兄さんの方をちらりと見て確認します。
お兄さんは私の視線に気付くと、すぐにうなずいてくれました。
「海ちゃんも行く、でいいのかな?」
私なんかがついていってもできることはほとんどないって分かってはいるんですが、少なくともお兄さんの話し相手になることぐらいはできます。
それが助けになるかどうかは別として。
「いつでも出られるよ」
上着を羽織り、部屋の隅に置いてあるポーチを肩に引っかければ準備完了。
お兄さんも帰ってきたばかりなので、そのままで問題なさそうです。
手早く戸締まりをすませ、私たちは真之介さんの乗ってきた車に飛び乗りました。
お兄さん、わざわざ私と一緒に後部座席に座ってくれてます。
「少しとばしますので、気をつけてください。シートベルトもお忘れ無く」
真之介さんの注意に従ってベルトを締め、シートの縁をしっかり掴むのとほぼ同時に車は発進しました。忠告通り、結構なスピードで進んでいきます。
「由良さん、親父の容態は? 倒れた原因はなんなんだ?」
「……院長は心臓発作で倒れました。今現在、手術を受けているところです。現段階では何とも言えないそうですが、助かると私は信じています」
話を聞く限り、状況はあまり芳しくないようです。
それにしても、お兄さんが帰ることを決意した矢先にこれとは、なんて間の悪さでしょう。
「くそ……ぐずぐず悩んでないで、さっさと会いに行ってりゃ……」
隣の席に座っているお兄さんは相当堪えているようで、そんなことを口走り始めました。
さすがに、それは見過ごせないなあ。
「お兄さん、大丈夫? 手、つなごうか?」
一人分を隔てたシートの向こうに手を伸ばし、膝の上で握りしめられているお兄さんの手を包みます。
と言っても、私の小さい手のひらでは重ねるのが関の山ですが。
「海ちゃん。……ごめんな、心配かけて。……うん、平気だ」
お兄さんは慌てて顔を上げ、笑顔で――――どう見ても無理に作った笑顔で私の手を握り返してくれました。
こんな時ぐらい甘えてくれてもいいのに。
「きっと、大丈夫だよ」
余計なお世話だと分かっていても、私は自分の口が勝手に開くのを止められませんでした。
こぼれ落ちていくのは、なんの根拠もない無責任な言葉。
「大丈夫。院長さん、ちゃんと会えるよ」
自分ではつもりかもしれませんが、精一杯お兄さんに笑いかけます。
気休めでもいい。
お兄さんの不安を少しでも取り除くために。
「海ちゃん…………」
お兄さんは一瞬はっとしたようにこちらを見ましたが、今度はさっきより幾分自然に笑ってくれました。
「そうだな、まだ何も確認しちゃいないってのに、今からこんなに落ち込んでちゃ駄目だよな」
「ごめんなさい、生意気言って」
「いや、助かったよ。ありがとう。でもせっかくだから、もう少しこのままでもいいかな?」
そう言ってお兄さんは、つないだままの手を軽く振って見せました。
もちろん。こんなことでいいのなら、いくらでも。
大きくうなずいた私にもう一度微笑みかけ、お兄さんはそれからきちんと背筋を伸ばし、しっかりと前を向きます。
うん、良かった。いつものお兄さん、とまではいかなくても、少しは声に力が戻ったみたい。




