魔法使いと揺れる心
写真の件から一夜が明けたが、翌朝も海ちゃんは少し微妙な感じのままだった。
朝食はいつも通り作ってくれたし、出かけるときも笑顔で送り出してくれたものの、やはり違和感は拭えなかった。
海ちゃんにとってのかなりのタブーに触れてしまったのかと心配になるが、今さら話を蒸し返すわけにもいかない。
バイト中もずっとそのことが気になって、小さなミスを連発してしまったし――――って、これはただの言い訳だな。
ともあれ、一日考えても特に解決策は浮かばなかった以上、無策だろうがなんだろうが帰らないわけにはいかない。
「悩んでいてもしょうがないよな。さて……」
アパートの階段を上りながら深呼吸して、気持ちを落ち着かせる。
自分の家に帰るのに緊張するなんて、いったい何年ぶりだろうか。
「ただいま」
「お帰りなさい、お兄さん」
…………うむ。
やっぱり、いつもとは若干違う。
何が、と聞かれると答えるのは難しいが、違うとしか言いようがない。
微妙に満面ではない笑顔の海ちゃんに笑いかけ、うがい、手洗いをすべく洗面所へ向かう。
と、ちょうどその時玄関のチャイムが鳴った。
「なんつータイミングだよ」
「いいよ、お兄さん、私出るから」
「ああ、悪いけどお願い」
まだ時間も早いし大丈夫だろうと、海ちゃんに対応を任せて手洗いをしていると、聞きたくない声と名前が耳に入ってきた。
「こんばんは、お嬢さん。雄弘様はいらっしゃいますか?」
「あ、真之介さん。こんばんは。お兄さんは――――ちょっと待ってね」
このまま洗面所に隠れていたかったが、そういうわけにもいくまい。
タオルで手を拭き拭き、リビングに出て行く。
「こんばんは、由良さん。居留守使えばよかったよ」
「お邪魔しております。本日は、院長からの言伝を預かって参りました」
親父からの、か。
いい加減、俺も意地張るのをやめるべきなのかな。
「分かった。とりあえず上がってよ」
「……よろしいのですか?」
「こんな厳ついの、玄関先に置いておくわけにはいかないだろ」
「では、お邪魔いたします」
一礼してから我が家の敷居をまたぐ由良さん。
こういうとこは、ずっと変わってないな。
「私、お茶淹れてくるね」
そして海ちゃんは空気読んで台所へ。
本当、気を遣える子だ。
「ああ、お願い。……で、親父からの伝言ってのは?」
由良さんに座布団を準備し、自分も腰を下ろしながら尋ねる。
下手な変化球や駆け引きは無しだ。なんかしようとしたところで、どうせ通用しないだろうし。
「はい、検討はついていると思いますが、雄弘様に戻ってきてもらいたい、とのことです。それともう一つ『やりたいことは見つかったか?』と」
――――っ。
見破られていた。俺が何も持っていないことを。
いや、最初から分かってたんだろうな。分かってて、敢えて好きにさせていたのかもしれない。
「院長は雄弘様のことを大変気にかけておられます。いつ戻ってきてもいいように、準備も怠っていません。それでも、もし雄弘様が医療の道以外に生涯をかけてできる仕事を見つけたのなら、援助も惜しまないとおっしゃっていました」
そこで一度言葉を切り、由良さんは俺の方を真っ直ぐ見る。
昔、悪さした俺を叱っていたときのように。
優しく、厳しく諭すように。
「ただ…………ただ、一度で良いから、顔を見せに戻ってきてほしいと」
「…………」
「雄弘様」
「……わかったよ、考えておく」
「ありがとうございます。こちらが私の連絡先になりますので」
そう言って由良さんは、名刺を差し出してきた。
記されている携帯電話の番号は、前と同じだ。
子供の頃、よくかけていた馴染みの数字が、紙の上で踊っている。
「いや、名刺はいいよ。由良さんの電話番号は、覚えてるから」
「そうですか。では、心の準備ができ次第、連絡を下さい。お待ちしています」
そう言い残し、由良さんは来たときと同じように、するりと部屋を出て行った。
その後ろ姿を見送りながら考える。
やはり俺は、まだただの子供なのだろうかと。
年だけは生きてさえいれば勝手に積み重なっていくが、果たして中身はどうだろうか。
三十年近く生きているが、心は全く成長していないような錯覚に襲われる。
こんな気持ちのままでは、親父に会うことなんてできない。せめて、何かひとつでも胸を張って報告できることがあれば。
それとも、こんなことをうじうじ悩んでいるからいけないのだろうかという気にもなってくる。
考えれば考えるほど思考のループに入ってしまい、ますます心は乱れていくばかりだった。




