再会
…彼女はこの二年間、生命を維持していただけでも充分な奇跡だった。
生きるために最低限必要なものしか与えられず、時間の流れが分からなくなるほどの暗闇に閉じ込められていたにも関わらず、意識の衰弱だけで済んでいる。
精神が崩壊しないよう、無意識的に思考を停止させることにより、最悪の状況に陥ることを回避していたのだった。
しかし、そんな対抗手段を打とうが、人間である以上限界というものは存在する。
極限まで追詰められた身体は悲鳴を上げ、絶命を勧めるかのように『自害』という言葉が何度も彼女の脳裏に浮かんだ。
幸いにも、彼女の神技は充分な殺傷能力を持ち、意を決すれば自身を死に至らせるほどの傷害を負わせることは難しくなかった。
けれども、彼女はあえて辛い…生きるという道を選んだ。
ただ一つ、約束を信じて。
『…後で必ず助けに来る。だから、それまでは無事に…』
その言葉を、ただひたすらに信じて、生きた。
いつになるのかも分からぬ…最悪、果たされぬであろう約束であるはずだ。
だけど、彼女はその言葉に一片の疑いを持たず、信じ抜いた。
血の繋がらぬ自分を、初めて会ったその日から『姉』と呼んだ義弟を。
人付き合いが少し苦手でありながらも、誰よりも人を大切に思った少年を。
望まぬ責務を背負わせられながらも、背負わせた祖父すらも愛した義弟を。
戦いに身を置く運命でありながらも、誰よりも和を求めた少年を。
一辺の曇りなく信じた。
…だから、彼女は目に映るその少年へと微笑んだ。
「…遅いよ、要君…二年も待ったんだから…」
「…あぁ、すまない、姉さん」
背に回し、抱きかかえるその腕は、彼女が知るものよりも遥かに大きかった。
今度こそ、手放しはしないと言わんばかりに。
何時の間にか成長した愛弟は、涙で顔を歪めながらも、姉へと無理矢理な笑みを浮かべていた。
「約束通り、迎えに来たぞ」
二年間待ち侘びたその言葉を受け止め、微かに残った力を振り絞り、優しく愛する弟の頭を撫でた。
「うん…約束通り…だね!」
彼女もこらえきれなくなり、その瞳に涙が浮かんだ。
今まで独りにした辛さを和らげるように、彼女は白く柔らかな腕を要の首に絡め、優しく抱き込んだ。
「ま、待ってくれ姉さん! それは少しやりすぎでは!?」
「ダメ! 長い間要分を補充していなかったんだから我慢我慢!」
《…申し訳ないが、安全な場所まで移動するため、姉君を我の背に乗せてもらえないだろうか?》
「…あれ? 要君…この子はもしかして…」
そこで彼女は要のそばにいる漆黒の釼甲に気が付いた。驚きを表しながらも要の首から離れようとする様子はなく、それどころか【要分】という正体不明な栄養を本当に補給しているのではないかと疑いたくなるほど強まっていった。
焦る主人を傍目に見ながら影継は静かに彼女に向けて頭を下げた。
《申し遅れた。我は五十嵐要を主とする釼甲・神州千衛門影継と申す。お初にお目にかかる》
「丁寧にありがとうね。私は要君の姉で、千尋だよ。よろしくね」
《…随分と気さくな女性なのだな。主の姉君とはとてもではないが思えぬ…》
「あはは、それはよく言われるね…あれ? そう言えば、何で私こんなに元気なんだろう?」
《主の熱量を配分しているためだ。大分衰弱しているようだったので間に合うかどうか焦ったが、その様子なら問題はなさそうだな》
「…そっか……えへへ、ありがとうね、要君」
「…随分と…痩せたようだな」
はにかむ姉を遠ざけながら、要は彼女の腕や顔を見た。
それは要が最後に会った時よりも、必要な肉すらも落ちており、とてもではないが良い健康状態とは言えなかった。
「出されたものは全然美味しくなかったからね。やっぱり【家族】と一緒に食べるご飯が一番だよ」
「それは全て終わってからだ。とにかく、他に被害を受けている場所がないかを…」
《学園生全員に告ぐ! 外敵三騎の侵入を許してしまいました! 直ちに学生間の戦闘を中止し、島の中央に集まってください! 繰り返します、直ちに学生間の戦闘を中止し…》
大嶺の島全体への報告に、要は背筋を凍らせた。
「三騎…だと?」
要たちが確認したのは二騎。
既に一騎は破壊したが、一騎は龍一たちと戦闘中である。
そして、残りの一騎は…
《主! 索敵結果報告! 東の離れ島に正体不明の武人を確認! 現在複数名と交戦中!》
その場所には失格となった生徒たちが搬入されていることは事前に通知されている。まともに動けない生徒たちでは撃退することは極めて難しい。
「…!? そこは確か…だが、斑鳩教諭もいたはずでは!?」
《あの者は確か数物だったと記憶しているが、それらしき釼甲の反応は無い…恐らく既に敗北しているというのが妥当だろう。幸いにも侵入した武人相手に二騎が応戦しているが…あと三分と持たないだろう》
「…クッ!」
すぐにでも駆け付けたいと思う反面、姉をこの場で置き去りにする事が出来ず、要は東の空と千尋と交互に視線をやった。
間に合わなければ多くの怪我人…最悪の場合、死人が出るかもしれないという危機感と千尋を放っておけば再び攫われてしまうのではないかという恐怖がぶつかり合っているため即断することが難しいのだった。
《…ちょ…ちょっと待って真白ちゃん!? な、何をしようと…!》
《申し訳ありません! ですが罰なら後でいくらでも受けます! …要さん、聞こえていますでしょうか!?》
聞き慣れた、普段は花のように明るい少女が、声を震わせながら叫んだ。
《…岩代さんを、楠さんを…皆さんを助けてください! 要さんにしか出来ないことです! どうか…!》
続きを声にしようとしたところ、音声が突如切断され、今度は静けさが襲った。
「…ク…あぁ…!」
「…要君」
迷いで顔を歪めているところを、千尋は静かに声をかけた。
「…あるだけの携帯食料と水をもらえる?」
「……!」
それだけで要には千尋が何をしようと考えているかを理解でき、身体を震わせた。
「待ってくれ! そんな体で無茶をすれば…!」
「平気だよ。それより、回復したらすぐにでも駆けつけるよ。みんな…というより、さっきの子を助けなきゃ、ね?」
それを言われては要も返す言葉がなかった。
千尋の気迫に負け、要は携帯袋に残っている食料を全て取り出した。
「私の身体を気遣ってくれるのは嬉しいよ? けれども、前にも言ったように、自分の為すべき事を間違えちゃ駄目」
言って千尋は棒状の携帯食料を素早く飲み込み、しばらくの間を空けた後、それまで衰弱しきっていたはずの足で立ち上がった。
長く伸びた髪は風に揺れ、もう大丈夫と言わんばかりに両手を広げて見せた後、そのまま愛弟の頬に手を当てた。
「それに、たまにはお姉ちゃんを頼ることも大事だよ。責任感が強いことはいいことだけど、だからと言ってなんでもかんでも一人で背負うことは大間違い…だから…」
「一緒に、みんなを助けよう。今度こそ。皆で笑って帰ろう?」
「…………………分かった」
撫でられた頬のひきつりは無くなり、凛とした、覚悟を決めた表情へと変わった。
「うん! それに、要君がどれだけ成長したかも楽しみだからね!」
「姉さんには遠く及ばないが…けど、全力は尽くす」
『聞こえたか、要! そういうことだから、一仕合終えた直後で悪いが向こうへの援軍を頼む! 俺もすぐに駆け付けるからな!』
《諒解!》
龍一からの金声に即座に答えを返した。
そして、要は装甲の構えを取り…
三秒後、漆黒の武人となって空へと駆けた。
神技も施されて攻撃範囲は広まっているが、同時に重量も上がっているため速度は僅かであるが下がっており、龍一が避けるには容易過ぎる程だった。
群青と空色…それに対して黄緑の釼甲による戦いは、明らかな削り合いとなっていた。
龍一の一撃と昴の一射は分厚い、そして堅牢なデュランダルの装甲に阻まれ、攻撃が弾かれたところを恭弥が見逃さずに剣を振るう…大振り故に当たりはしないが、その単調な作業に龍一も恭弥も疲労の色が浮かび始めていた。
空で騎行しながら攻撃を続ける昴に対して、恭弥は巨大化することで距離の問題を解決していた。
下手に近寄ればその一刀で叩き落とされる…そのため、昴は騎行状態を維持せざるをえず、御影や椛に対して攻撃しようとした瞬間の牽制くらいしかできなくなっていた。
『さすがに疲れが溜まってきているんじゃないか? そんな重い武装で俺だけじゃなく二ノ宮や綾里…さらには上空の昴先輩も狙っているんだ、腕の疲労はとてつもないことになっているんじゃないか?』
『ふざけろ。この程度なら疲れのうちに入らねぇよ。それより、テメェらの攻撃なんぞ俺にとっちゃ屁でもねぇんだ。そろそろ腕がしびれてくるんじゃねぇか?』
「なら、要が来るまでこちらは耐えれば良い話だ。私とあいつなら貴様の装甲を破ることが出来るのは身をもって理解しているだろう?」
《それにこちらは三に対してそちらは一…絶対ではありませんが、充分な勝機はあります!》
『…テメェら何を言っている? ……何時俺が…俺らが二騎だと言った?』
装甲の下で、恭弥が歪な笑顔を浮かべた。
ここにいる二騎だけが全てだと思っていた全員を、嘲るような笑みを。
「……! まさか…!」
その言葉の意味をまっ先に理解した御影は顔を青ざめた。
それとほぼ同時に、鏡花の切羽詰った金声が靭島に響き渡った。
《学園生全員に告ぐ! 外敵三騎の侵入を許してしまいました! 直ちに学生間の戦闘を中止し、島の中央に集まってください! 繰り返します、直ちに学生間の戦闘を中止し…》
『そういうこった。俺とさっきやられた男女だけじゃねえ、救世主でも、認めるのは悔しいが上位に君臨する【殺人鬼】今河籐十朗が来ている…こんなところで油を売っていたら、ほかの奴らはどうなるかね?』
『………! 正宗、至急索敵を開始しろ! 現在位置を即急に特定できるか!』
《先程結果が出た! 一つ東部の離れ小島で正体不明の釼甲を確認! 恐らくはそれだろうな!》
『しまった…! けど、そこは確か斑鳩がいるはずだ! もうしばらくは持つはず…』
《残念だけど、私の方ではそれらしき反応はないわ。その代わり、というべきか…二騎が懸命に凌いでいるわ。一つは楠…もう一つは恐らく岩代の釼甲ね》
『…斑鳩が負けたのだとしたら、そこの男が言うとおり、相当な実力者なのだろうな…』
《感心している暇はありません! 今すぐにでも助太刀に向かわなければ…》
『諒解、今すぐ東部へ…』
『させるかぁ!』
昴が方向転換して助けに行こうとしたところを、恭弥は再び剣を巨大化し、それを鋭く叩き付けた。その不意打ちを完全に避けることは出来ず、回転することで辛うじて直撃は避けることができたが、騎行に必要不可欠な翼が切り落とされた。
《クッ…! 疾駆に損傷! これ以上の騎行は不可能…緊急着陸に備えて!》
『言われずとも始めている!』
揚力を失った雷上動は可能な限り滑空を維持し、なおかつ旋回などを利用して黄緑と群青の立つ大地へと向かい、なんとかして着陸を果たした。
『昴先輩、無事か!?』
『あぁ、なんとかな…けれど、この状態じゃすぐには向こうの助けには向かえないな…』
弓を納め、二刀を構えながら昴はボヤいた。
以前の戦いで自身の攻撃がデュランダル相手には無意味だということを理解はしているが、それでも近接陸戦では弓よりも二刀のほうが最適であるという理由での選択である。
《けれども、これで私たちは向こうに行けなくなったわね…獅童殿、この男を置いてすぐ援軍に…》
《難しい話だな。今背を向ければ容赦無く斬られる…それも、あんな馬鹿デカい剣でやられたら、いくら俺でも…騎行には損傷がないだろうが、その今河とやらとはまともにやりあえないだろうな…》
雷上動の提案は、正宗によって即座に切り捨てられた。
詳細不明の武人を相手にするのに満身創痍では充分に戦うことはできない。下手をすれば彼らでさえも足でまといになりかねない、ということだ。
《それに、村上殿と月島嬢…加えて綾里嬢に二ノ宮嬢だけでは…言い方が悪いだろうが、攻撃は一切通らないだろう…なら役割は自然…》
言い切るよりも先に、教員陣による金声が騒がしくなっていることに気が付いた。
《…ちょ…ちょっと待って真白ちゃん!? な、何をしようと…!》
《申し訳ありません! ですが罰なら後でいくらでも受けます! …要さん、聞こえていますでしょうか!?》
緊迫感のこもったアンジェの声だった。
《…岩代さんを、楠さんを…皆さんを助けてください! 要さんにしか出来ないことです! どうか…!》
彼女は岩代と楠が指示した二人の名前ではなく、自身が一番信じる少年に助けを求めたのだった。
彼女の声が途絶えると、龍一は太刀を下ろした。
『…残念ながら、ご指名は俺じゃなくて要のようだな。ま、なるべくしてなった役割だから笑えるな』
そう言いながら言葉通り、彼は鋼の下で思わず笑みを浮かべていた。
それは、彼も現状を打破出来る人間は、五十嵐要を置いて他にいないと思っていたためであった。
『聞こえたか、要! そういうことだから、一仕合終えた直後で悪いが向こうへの援軍を頼む! 俺もすぐに駆け付けるからな!』
《諒解!》
その要の金声が聞こえてから三秒後、離れた場所から飛火を噴かせる音が響き、漆黒の武人が太陽に向かって空を飛んだ。
その光景を確認して、龍一は安堵したように目前の敵に意識を集中しなおした。
『…綾里、要が以前行なった【電磁抜刀】…あれは俺でも使えるか?』
振り返らず、声だけで尋ねた龍一に対して御影は首を振って否定を示した。
「…悪いけど、不可能ね。確かに獅童の剣術は相当なものよ? お世辞抜きに、要とは遜色ないほどに、ね。けれども、あれは異常なまでの精密技術を必要とするのよ…苦言に聞こえるかもしれないけど、あなたでは自爆するのがオチね」
『…だろうな…やっぱり、まだそういうところでは敵わない、か』
御影の言葉を受けて、群青の武人は太刀を納めた。その動作に恭弥は僅かに喜びを含んだような声音で口を開いた。
『あ? これでようやく降参するつもりになったのか?』
『なら、俺なりの最適解で行くと決めただけだ…正宗!』
《応!》
正宗の返答と同時に龍一は右拳を後方に下げる。
剣術の物ではない…格闘技に近い構えだった。
『二ノ宮! 神技で足止めを頼めるか!』
「わ、分かった!【重場展開】!』」
椛が神技を発動すると、恭弥の体が突如として鈍くなった。
重力を一時的ではあるが数倍に増幅されているため、騎行することすら出来ない重量を持つデュランダルを纏う恭弥は動くことすら叶わなくなった、ということだ。
『ハッ! 動きを封じに来たか…しかし、だからと言って勝ち目は変わらねぇよ! てめぇらの攻撃なんぞ俺には効かないんだからよぉ!』
『…お前如きに神器は少し勿体無い気もするが…時間が限られているからそんなことも言っていられないな…ただ一言だけ言っておくぞ』
右の手甲が上がり、御影と椛の目に杭のようなものが映ったが、恭弥には体の影に隠れているため、その変化に気付いていなかった。
『…腹に力を込めておけ。殺すつもりはないが、死ぬかもしれないからな!』
左手は広げ、目標である黄緑の釼甲に静かにかざす。
『天覇絶鑓一点突貫!』
左足を軸に、一気に踏み込み正拳突きを鳩尾に走らせる。
回転による鋭いそれは、例え椛の重力場が展開されていなくても避けることは困難を極めていただろう。
そして、そこでようやく恭弥は自らに襲いかかるそれの恐ろしさを肌で感じ取った。
戦いに身を置く者の本能が警鐘を鳴らす。
けれども、彼は重すぎる装甲のため身動ぎひとつできず、視認できているにも関わらず何もできないもどかしさを感じた。
《穿て【朱雀鑓】!》
そして、その拳が当たる直前に、正宗の右手甲からその杭が射出される。
限界まで鍛え上げたその刃金の鑓は、手甲の中に仕掛けられた絡繰による『爆発』により射出される。
…別世界では【パイルバンカー】と呼ばれる兵器であり、その一撃の破壊力は堅牢な城塞すらも容易く打ち砕く。
先程まで何度切りつけられても弾いていた装甲は、その一突きで見事に打ち抜かれた。
鋒は腹部にめり込み、甲鉄の仮面の下から血が飛び散った。
『ゴフッ…!』
…彼の不幸は、強度を高めた故に莫大な重量を持った釼甲を纏っていたことだろう。
生半可な衝撃では微動だにしない…けれども、これだけの…装甲を貫通するほどの攻撃を受けても吹き飛ばされる事なく、そこに居た。
吹き飛ばされれば衝撃は幾らか緩和されたであろう。
けれども、その重過ぎる装甲は退くことを許さず、その一身に全ての衝撃を受け止めたのだった。
しかし、引くことは無くとも、意識を失えば身体は地に落ちる。
支えとなるはずの、大地に立つその足は、体が限界を訴えると同時に崩れたのだった。
『任務完了…か』
突如静けさが襲った森は、龍一の声が良く木霊した。