開始
要が目を覚ますと、まず視界に入ったのは青い布で出来た天井だった。意識を失う直前に感じた暑さは無く、汗で濡れた衣服の所為で寒く感じられるほどであった。
移動式天幕であり、それなりの広さがあるのか、比較的高背の要が手脚を伸ばしても両端に届かないほどだった。
室内温度が低いのは釼甲の熱量供給機構を実用品に応用したものによるものであろう。大気の熱を吸収することで別の熱源として利用できるため、非常に有用性があり、更には室内温度を調整できるという優れものである。
意識は既に安定しているのか、目だけで周囲を確認すると女性教師が一人傍に座しており、意識の戻った要に対して静かに話しかけた。
「目が覚めたー?」
クセのあるショートカットを揺らし、間延びした声で尋ねてきた。その緊張感が緩むような声の所為で要は少しだけ呆気に取られていた。
「…えぇ、ご心配をおかけしました」
「いえいえー、これも仕事なんで。看病のおかげで書類仕事を押し付けるのにも成功したから…」
「…それは一教員としてあまり褒められたものではないかと…」
「細かいことは気にしない~」
短く髪を切り揃えた神樂科教員はカラカラと笑いながらも、起き上がろうとする要の額にのせられていた濡れ手拭いを取った。
「気分の方は? 無理なようだったら私が鏡花に休ませるよう言っておくけど?」
「いえ、横になっていたおかげか全く問題はありません…時間としてはどれほど眠っていたのでしょうか?」
「…大体三十分位……かな? 一応回復が早まるように五十嵐君の釼甲を連れてきたんだけど…どうやら正解だったようだねー」
《まさか主が乗り物に弱いとは思わなかったな。意外な弱点といったところだろうか?》
教師の横には見慣れた漆黒の鍬形が座っていた。表情というものが無いので見ただけでは分からないが、声音から少し怒りが混じっているように要には感じられた。
「…隠しておくつもりはなかったのだが…迷惑をかけたか?」
《大事にならぬというのなら問題はない。ただ、そのようなことは出来れば事前に話しておいてもらいたかったな。顔色の悪い主を見たときは焦ったのでな》
「…諒解した。今後は気を付けておこう」
「元気になったなら私はここで失礼するけど…開始まではあと一時間はあるからそれまで休んでおいたほうが良いでしょうね」
「分かりました、安静にしておきます」
「それで良し。今年は何故か皆やる気に満ち溢れているから、気を抜いていたらあっという間に負けるわよ?」
「そちらも分かりました」
「良し、それじゃあ何かあったら近くの先生とっ捕まえてくれれば大丈夫だから、後はお願いするね~」
それだけ影継に言うと、教師は出口からスルリと抜け出していった。その際に差し込んだ日光が一瞬気温を上げたが、それもすぐに元通りになった。
「…足を引っ張る訳にもいかないからな…言葉に甘えてもう少し横になっておくか…」
《それが最善だろう。戦闘に参加できぬというのは少々残念だが、羽休めだと思えば善かろう。聞けばここ最近の主はまともに睡眠をとっておらぬようだな? 不眠は三大欲求の中で、欠かすと多大な悪影響を及ぼすぞ》
「それは自分でも重々承知している。だが、やるべきことをやっていたから仕方が無い…まぁ、驚かそうとして何も……言わなかったのは…わる…かった」
それだけ言うと、やはり疲れが溜まっていたのだろう、身体を再び寝かせて瞼を閉じると長く深い呼吸を繰り返し始めた。
《…まぁ、主らしいといえば主らしいか…ならば訓練後に何があるかは黙っておいたほうが正解のようだな》
漆黒の釼甲は、眠る主の横で再び静かに座し始めた。
「…全員集まっていますね…それではこの後五分後に一年生の実地訓練を開始します!」
靭島の中央に位置する大広場に、鏡花教諭の声がよく通った。彼女の隣には先程要の看病をしていた女性教員が一人構えており、周囲を見回していた。
その声と同時に並ぶ生徒たちの背筋が真っ直ぐに伸び、視線がほぼ全て彼女に集中した。
「…要はもう大丈夫なのか?」
「…ん? …あぁ、少し休んだおかげか全快だ。足を引っ張るような事は無い」
そんな中、小声で椛が要に話しかけてきた。大分顔色が良くなっているとはいえ、乗り物酔いは下手すると深く残る場合もありえるので心配している様子だった。
《その心配は無用だろう。先程簡易ではあるが調べてみたところ、体調は万全の様子だ。無理な場合は我が叩きのめしてでも止めるので安心するとよい》
「…しかし…」
それでも心配であるという様子の椛に対し、御影が彼女の肩を叩いた。
「椛、影継もこう言っているのだから信じましょう。もし今が不完全でも時間も経てば自然治癒ですぐに元通りになるわよ」
「…そこまで言うのなら」
「それでは最初に、規定の説明をしておきます。一度しか話さないので注意して聞いてください」
椛が渋々と了承したと同時に鏡花の声が再び広場全体に通った。
「訓練内容はサバイバルです。事前準備として各班に別れてもらいましたが、それによる混戦、加えて実際に危機的状況の中でどれだけ効率的に有効な行動を取れるか、それを行なってもらいます」
「一応補足しておきますと、日を跨いで行いますので体調を出来る限り最高の状態に整えておくことも評価の対象になります……それでは佐々木先生、詳細を…」
そう言い残して女性教師は生徒たちの正面から脇に移動して何やら準備を始めた。複数人で取り掛かっており、小声で何かが話されているが、生徒たちの耳に届いてはいなかった。
「まず、訓練の目的は極限状態の中でどれだけ合理的に動けるかを、身をもって体験してもらうことです。常に万全な状態で挑めるというわけではなく、時には数日の強行軍ということもこの中で経験するだろう人も少なからずいるでしょう……今回は実戦を混じえながら、二日間生き延びるよう全力を尽くしてください。各班長には人数分の『一日分』の食料を渡したと思いますが…行き届いていますか?」
鏡花が確認すると、それぞれの集団から一つずつ手が上がり、無事に受け取っていることを示した。
しかし、要たちの班には『半日分』の食糧しか用意されていなかった。
というのも、要も龍一も予備隊とはいえ軍の人間である。ある程度の慣れがあるということを考慮されてハンデとして食糧を削られたのだった。
二人はある程度予想していたから別段気にした様子もないが、その少なさに女子勢は少し焦りを見せていた。
食糧は武人及び神樂の熱量供給の源である。
そのため、それが減らされるということは必然的に『戦闘可能時間が短くなる』という問題が発生する。現地調達をするにも、昴が島全体を散策したところこれといった食べられそうな果実の類はほとんどなく、野生動物が少し居るが、それを狩って食べるということは失格行為に当たると、靭島に来る前に厳しく言いつけられている。
「…随分な枷を着けてくれちゃって…」
「…分配が…大変…」
御影と遥は課せられた条件の厳しさを、何となくではあるが理解出来たようで、同時に溜め息を吐いた。
「事前に誰を主力にするか考えておいて正解だったが…だからといってそいつにばかり与えるのは間違いだろうな」
「えぇ、出来れば他の班同士で戦力を削り合ってもらうのが一番理想的ですが…どうなることやら…」
「まぁ、最初に消耗するのは誰か決まっていることだから、開始したら最初はそいつに渡しておく。異論は無いな?」
「「「「「「諒解」」」」」」
昴の問い掛けに、六人全員が了解を示した。
他の班もある程度方針が固まったのか、徐々に話し声は小さくなり、最終的には遠くにあるはずの波の音すら聞こえるほどまで静まった。
「食糧の件で付け加えますと、勝った班が負けた班の物を奪うということは一切認めません。実際にはそんなことを言っていられないような状況で有ることには間違いありませんが、今回はあくまで『経験』なので、限られた物だけでやりくりすることも覚えてもらいます。ちなみに奪った場合は容赦無く留年になりますので悪しからず」
最後に聞こえた単語によって場の雰囲気は一瞬凍えた。
まだ一年次が半年以上残っているのにも関わらず留年が確定する、ということは今後の努力が骨折り損に終わるということだ。
これは充分な効果があったのか、それ以降無駄口を叩こうとする生徒は一人もいなかった。
「加えて生態系維持の為に狩猟も禁止します。採集はある程度許可しますが、度が過ぎた場合は減点対象となることを忘れないでください…基本的な規則は学園で話した通りなので割愛させていただきます…それでは、各班に用意された【珠】に全員触れてください」
鏡花がそう言うと同時に、生徒たちは一斉に渡された【珠】へと手を触れた。
何らかの仕掛けが施されていることは明らかだが、ほとんどの生徒は意味も分からず命令に従うだけだった。
「…全員、【何処に飛ぶか】をよく見ておくように」
「?」
実地訓練経験者である昴が呟くと、その意味がよくわからなかった遥は小さく首を傾げた。対照的にその言葉で何が起こるかを理解した龍一は一つ深呼吸をして目を大きく開いた。
要は何度も深呼吸を繰り返し、目を強く閉じて【次に起こる事】に備えていた。
「制限時間は二十四時間! それでは健闘を祈ります!」
その言葉を合図に、傍らでなにやら準備をしていた教師たちの内一人が神技を発動し…
生徒が四方八方へと飛ばされていった。