昔話と《精神同調》について
「お疲れ様。五年前に比べて随分動きが良くなっていたな」
寮の自室に戻る途中、談話室の椅子に椛が座っていた。
対面の席が空けられており、テーブルの上には湯気の上っている湯呑が二つ置かれている。中を軽く覗いてみれば白湯が注がれていた。
そのうちの一方を手にしながら椛は視線を要と目の前の席を行き来させていた。
「…相席しても良いだろうか?」
「どうぞ」
要は一応の確認を取ると、椛は快く頷いた。
席に座り、目の前に置かれている湯呑に口を付け、少しずつ湯を口に含んで飲み込んでいった。
「…丁度良い熱さだ」
「それは良かった」
椛の方は丁寧に両手で湯呑を持ち、上品に中身を飲んでいた。そのあたりから育ちの良さが垣間見えた。
「…しかし、要は相変わらず運動後は白湯しか飲まないのか?」
「そうだな…習慣になっているから、そう簡単には止められないだろうだろうしな…それに清涼飲料水は俺には合わないからな。一度勧められて飲んでみたが…甘ったるくて全く受け付けなかったな…」
「茶と水しか飲まないのか。体は大きくなっても相変わらずだな」
「これだけはどうしようも無いな」
要が肩をすくめると、二人は同時に小さく笑った。
半分ほど飲み終わった湯呑を置いた。
「…昔は五分五分の仕合が出来ていたが…今の要相手では勝てる自信がほとんど無いな。傍から見ていても、動きを目で追うのが精一杯だったぞ?」
「神樂でそれだけ出来れば今は上出来だ。後は敵の動きをある程度予測し、報告できるようになれば、武人の相方としては充分だ」
そう言うと、少しだけ不穏な雰囲気が椛の周囲に漂った。見てみれば少しだけ不機嫌そうに小さく頬を膨らませていた。
「ふむ…それは経験則か?」
「いや、爺さんからの受け売りだ。俺自身は今まで一度も封神したことが無いからな」
「な、それは本当か!?」
要のその発言を聞くと同時に、椛は勢い良く立ち上がった。身を乗り出したがために両者の顔は非常に近く、鼻と鼻の間が握りこぶし二つ分ほどしか無かった。
そのことを理解した椛は急に身体を縮こまらせながら席に着いた。
「…取り乱した」
「…もう少し椛は落ち着きを持って行動しろ。感情が一気に昂ると『そうなる』のは相変わらず、か。人のことが言えないな?」
「と、とにかく、だ!」
仕切り直すように椛は声を上げた。幸い休日の学生寮は外出する生徒がほとんどなので、談話室は閑散としていた。いたとしても離れた場所で会話に夢中になっているので、彼女の声は聞こえていないようだった。
そのことを確認しながらも要は椛の言に耳を傾けていた。
「要は…その…軍に二年も所属しながら、どんな神樂も封神しなかったのか?」
「…前回の御影を除いて、な」
「………………そうか」
再び椛の纏う雰囲気が変わった。今度は目に見えて頬がひくついていた。
要は言ってしまってから自分の言葉を後悔していた。
正直者であることは彼の美徳ではあるが、この場合はそれが裏目に出た。御影の名前が出た瞬間に椛の態度は変わったというのは、要にも理解できたが、それを挽回する為の手段が、今の彼には思い浮かばなかった。
椛は笑顔を浮かべているが、引きつっているそれは怒りを如実に表しており、湯呑を持つ手にも必要以上の力が入っている。
「……あれは緊急事態ということで数に入れない、というのは?」
「……………」
妥協案を挙げても椛の表情は変わらず、返事もないために要はどう対処すれば良いのかが全くわからなかった。案を捻り出す様に眉間を押さえて唸っていると、横から声が聞こえた。
《主に椛嬢、このような場所で一体何を話しておられるのだろうか?》
「影継?」
反射的に顔を上げれば、女子寮側から床を歩いてくる影継がおり、二人の間に入ってきた。先日まで目立っていた傷が完全に無くなっていることから、御影の調整作業が終わったと見ていいだろう。
「調整はもう終わったのか?」
《あぁ、|四半刻(三十分)程前にな…それで、失礼でなければ耳にしたいのだが…》
「…いや、少し昔話に花を咲かせていただけだ」
《椛嬢…そのように不貞腐れた顔は如何に?》
「…何でもない」
影継も分かるほど表情に出ていたということが分かり、椛は顔を背けた。
《椛嬢がそう言うのならば深くは追及しないでおこう。だが、釼甲として一つ助言をするのならば、仲違いは早急に解決しておくように。さもなければ封神しても真の実力は出せんからな》
影継もそれ以上聞くのは野暮だと判断したのだろう、深くは聞かずに一般的事実だけを述べた。
「…? それはどういう…」
「…武人と神樂の精神同調の問題だ。二日前の講義で軽くだが触れられていた…そうだろう、アンジェに首藤?」
「はひっ…!」
「………」
出入口に声をかけると、名指しされるとは思っていなかったのか、甲高い声が小さく聞こえ、次には諦めたように二人がおずおずと壁の陰から現れた。
「…何時から…気付いていたの?」
「談話室に来てからすぐだ。職業上、気配察知は本能的にやってしまうからな」
言いながら要は湯呑の中の物を一気に飲み干した。話している間に大分冷めていたようで、椛の手にあるそれも湯気はほとんど出なくなっていた。
「えっと…お代わりをお持ちいたしましょうか?」
「いや、もう充分だ。それよりも、アンジェには精神同調について俺が教えたことを暗唱してもらおうか。間違えていたら今日の講義に英語を追加だ」
「それだけはお止めくださいませ!?」
「そこまで嫌だったのか…」
アンジェの悲鳴に近い声に、椛がつぶやいていた。よくアンジェの表情を見てみれば、僅かではあるが涙ぐんでいた。
「えっと…それでは僭越ながら…武人と神樂の精神同調は封神状態において『神技増幅』の為に最も重要なもので…同調率が低ければ低いほど神技は弱まり、逆に高ければ高いほど強くなる…これでよろしかったでしょうか?」
「七十点。例外性も話しておいたはずだが?」
「あっ…!」
今思い出したかのようにアンジェは口元に手を当てた。その様子に要は眉間を押さえた。
「…武人と神樂の精神が反り合っていない状態では神技は弱まるが、『神樂の精神が衰弱もしくは無い』状態では増幅されないが、同様に減衰もない…これが封神における例外性だ」
「…? そんな事…先生は…話してない…」
遥が疑問を口にしながら首を傾げた。椛も似たような反応をしていたが、遥ほど明らかなものではなく、眉を顰める程度だった。ここでいう先生とは鏡花教諭を指していることは要にはすぐに分かった。
「…それもそうだろう。現段階ではあくまでその可能性有り、程度で確証がほとんど無い状態だ。可能性が判明したのもつい最近のことだからな」
言いながら制服の内ポケットを探り始めて何かを取り出した。四つに折り畳まれた紙切れであり、それを丁寧に開き、三人に見せるようにテーブルの中央に置いた。
中は手書きの文字が整然と並んでいた。
「…これは?」
「軍内部の研究で判明した神技増幅率だ。幾つかのパターンに別れているが…その一番下を見てくれ」
三人は要の指示通り、一番下の結果に目をやると、驚くべきものが目に入った。
【睡眠薬で意識を奪った状態…±零%】
「…え?!」
信じきれずに他の項目にも目を通すと【不仲な武人と神樂…-二〇%】、【友人関係…+一五%】などと、大まかではあるが十数の項目に別れて記述されていた。所々が数値の間違いか文字の間違いでもあったのか、黒く塗りつぶされていた。
しかし、椛とアンジェが驚いたのはそのことではなかった。
(…要の文字!?)
見間違うことのない、ここ数週間で何度も見てきた物と全くと言っていいほど同じだったのだ。字の跳ねが大きい事、筆圧が高めである事…注意して見ればいくらでも出てきそうだった。
ただ一人、そのことを知らない遥だけが平時と変わらない態度で尋ねてきた。
「…多い…けど、これは何を基準に?」
「神樂が普通に神技を発動した状態を基準にしている。『分析』の神樂に協力を頼んでいるからそれなりの信憑性はある。もっとも、検査対象が一人ではない上に、釼甲の神技増幅も百領百様だから、それをある程度差し引いた上での計算…らしいからな」
一瞬断言しそうになった要であったが、すぐに『伝聞』であるかのような言い方に変えており、遥は別段気にする様子もなく話に耳を傾けていた。
「…でも、よくそんな事が分かったな?」
「…一度だけ疑問に思える事があったようで。数人のグループで一年かけて研究していたそうだ。未だに確証は取れていないが…」
「…これ…重要機密?」
言いながら遥は置かれている紙切れを指さしていた。
そこでようやく二人も、それが軍内部における重要なものであればという発想に至り、突如として慌て始めた。
「そ、それってアンジェたちのような一般人に漏らしてはいけないものではないのでは!? もしかしてアンジェたちは黒服さんたちに…!」
「い、今すぐに隠せ、要! 私たちは何も聞いていない…」
「落ち着け。どうせこれはすぐに一般公開される情報だ。少し早めに知らせる程度なら問題は無い。多分来週の講義辺りで追加して話されるだろう」
既に分かりきっているかのような口調で要は二人を宥めた。当の本人があまりにも落ち着きを払っていることで、すぐに椛たちも冷静さを取り戻していた。
「すまん、取り乱した…」
「申し訳ございません、メイドは何時如何なる時も冷静に、ということを忘れておりました…」
「…まぁ、気持ちは分からないでもないが…とにかく、精神の同調が出来なければ戦闘に多大な支障を及ぼすということだけ分かってくれれば良い」
言いながら要は出した紙切れを元の場所へと仕舞った。
そこでようやく要は何かに思い至ったような顔をした。
「…どうしてこんな話になったんだ?」
《済まない。我が事の発端だったな》
今まで様子見をしていた影継がようやく口を挟んできた。会話を途中で止めないよう気遣っていたのかもしれないが、要の内心では長話にならないよう遮って欲しかったというのが本音だった。
「…また悪い癖が出たか…」
自覚はしているが、どうしても改善することができないタチの悪さに頭を抱えていた。周囲が知らなければ自身の知識を最大限に使い説明してしまう…相手が誰であろうと、だ。それ故に相当な好き者でなければ要についていけず、興味本位で近寄ってきた人間は悉く退けてしまうのだった。
ただ、彼女たちはそんな様子を微塵も見せなかった。
「いえいえ! アンジェとしてはとても興味深いお話だったので、宜しければまたの機会に是非とも!」
「…私も、少し反省しなければな。まさか神樂の心理状態が封神に影響するとは思ってもいなかったからな…」
二人はそれぞれの感想を述べながら笑っていた。
「…一つ…質問…」
その中で一人、遥が小さく手を挙げていた。
「ん? 何だ?」
要が促すと彼女は手を下ろし、躊躇うことなく問い掛けた。
「…【恋仲の二人…+八〇%】…これは本当?」
「何!?」
「まことでございますか!?」
先程までの穏やかさが嘘のように、二人は声を張り上げた。さすがの勢いに要も気圧されて、無意識のうちに身を反らしていた。
「…あ、あぁ。多少の誤差は有るだろうが、それほどまでに圧倒的な影響があった、というのは間違いない…だろう」
「…分かった、頑張る」
「…恋仲…そうなれば約束が…」
「…あれ? アンジェは今何を…?」
普段は見られないような意気込む遥に加え、椛も何かをうつむきがちにつぶやき、アンジェは自身の行動を不思議がっていた。
「…影継」
《如何した、主?》
「ここは撤退する。自室まで走るぞ!」
《承知した!》
三人の意識が別の方向に向かっている間に要は談話室を抜け出し、真っ直ぐに自室へと走り去っていった。資料となった紙切れを見せたことに幾らかの後悔を抱きながら。
参考までにその後、要がどう時間を過ごしたかと言えば、全てを晴嵐流合戦礼法の型の確認に費やしていた。