本番間近《壱》
「要、少し時間良いか?」
翌朝。
要が食堂で朝食を摂っていると、右隣に椛が答える前に座ってきた。
「問題ないが…何か困り事でもあったのか?」
「惚けるな。昨日、あの後要にあったことを聞きに来たんだ」
手に持った水の入ったグラスを叩きつけるように置きながら椛は続けた。
「今少し耳にしただけなのだが…要が風紀委員の選抜試験を受けることになったとか…」
「…広まるのが速いな。精々十時間前のことだというのに…」
「ほ、本当のことだったのか……!?」
今までどこか信じきれなかった話だったのだろう、椛は要の口から真実だという事を確認すると、抑えながらも驚いていることが分かるほどの反応を示した。
「もしかして、要が昨日帰ってくるのが遅かったのはそれが理由か?」
要の前の席に座る龍一が食後の茶を啜りながら会話に参加してきた。
龍一のトレイの上には普段の二倍の量である四枚の皿が積まれていた。昨晩夕食を食べられなかった分をここで補っているのかもしれない。
椛はその量に驚きつつも、興味は要の話の方に向かっていた。
「正直に言うとそれが原因のひとつではあるな」
「…? その口振りだと、他にも理由があったのか?」
首を傾げながら尋ねる龍一に対して、要は数秒だけ話すかどうかを悩んだが、結局話さないことにしたのか、首を横に振った。
「まぁ、他にもやるべきことが有った、とだけ言っておく」
「…分かった、お前が言わないというなら深くは聞かない事にする。大体予想はつくけどな…ところで二ノ宮、御影ちゃんは一緒じゃないのか? たしか同じ部屋になったって聞いたんだが…」
「あぁ…私が起きたときには既に部屋に居なかった…制服が無かったからもう講堂に向かっているのかもしれないな」
「…そういえばアンジェも、御影が早起きしていたようなことを言っていたな…やはり時間感覚が現代人と異なるのかもしれないな…と、御馳走様」
そうこうしているうちに要も朝食を摂り終わり、手を合わせて礼を述べた。
「…しかし、要は本当に風紀委員に入るつもりなのか?」
遅れて食べ始めたため、三人の中で唯一未だ食事中の椛が合間に尋ねてきた。
「…そのつもりは今のところ無いが…何をそんなに怒っているんだ?」
「…この一ヶ月間、一切お前を助けようとしなかったそんな名ばかりの委員会だぞ?」
「…あぁ、成程。そういうことか…」
その言葉で、椛の真意を理解できた。
本来風紀委員が取り締まるべき『要に対する』暴力を、三ヶ月も無視し続けていたことについて、椛は怒りを覚えていたのだった。
更に詳しく語れば、様々な学年で武人科・神樂科問わず問題は発生しているが、要を除いた全ての事件は風紀委員が介入することによって解決されてきたのだった。
当然その実力は、揉め事に介入する以上は学内でも上位に入ることができなければならないため、一種のステータスとなる。
一部の生徒にとっては憧れの的…それこそ学内の英雄的存在で有ることには間違いないが、椛にとってはあまり受け入れがたいもののようだ。
「安心しろ。委員会などに入れるほど俺は出来た人間でもない。自分の事と周りのことで精一杯の、しがない凡人だ。学園全体の風紀を守るなんて大層なことは、土台無理な話だ」
「…ならば、選抜試験はわざと負けるのか?」
「…いや、釼甲を纏う以上負けるわけにはいかない」
途端、要の手にあるトレイに突如音を立てて罅が入った。
「…これ以上、俺は負ける訳にはいかないんだ…」
痛々しいほど強く握られた拳が何を意味しているのかは、椛にはわからなかった。
今までに見せたこともない要の気迫に呑まれそうになった椛を見て、龍一は場の空気を和らげようと努めて明るく話を逸らした。
「ま、たとえ勝って、向こうが要を欲しいと言った場合は売られた喧嘩を合法的に買っただけだと言えば風紀委員にも入らなくて済むだろうよ」
「そういうことだ。戦闘には勝つ、けれども勧誘は断る、ということだ」
「そ、そうか…」
「ほら、二ノ宮も速く食べ終わらないと講義に遅れるぞ? 要もさっさと皿を片付けて講堂に行くぞ!」
「諒解…という訳で先に向かっているぞ」
「あ、あぁ。分かった」
それだけのやりとりをすると、二人は颯爽と食堂を去っていった。残された椛は二人の背を見えなくなるまで眺めていた。
「…この五年間で…要に一体何があったのだろうか…」
「要さんは昔と性格が変わっているのでしょうか? アンジェは少し気になります」
聞く人間がいないと思ってこぼした言葉に対して、予想外の反応があった。
「あ、アンジェ!? 一体いつからそこに…!」
「お話自体は二ノ宮さんが要さんにお声をかけた所から聞かせていただきました。今日は皆さんが朝食をお済みになられた後、食堂のお掃除がありますので早めに参上した次第でございます!」
そう言ってアンジェはその手に持つ箒・バケツ・雑巾その他諸々を誇らしげに掲げた。
どれも良く使い込まれておりながらも、充分に手入れされているのだろう新品同様の真新しさが残っていた。
「…つまりは最初から、ということか…何だったら会話に参加すれば良いものを…」
「いえいえ、何やら途中から真剣な雰囲気になってしまって出るに出られない雰囲気でしたので、思わず空気を読んで引っ込んでしまいました…ところでお話を戻させていただきますが、今の要さんは二ノ宮さんの知っている要さんとは大分異なっている、ということでよろしいのでしょうか?」
興味深そうにアンジェは椛を見つめた。アンジェの方が椛より背が頭半分ほど小さいので、視線を合わせようとすれば自然見上げるような形になってしまう。
「…随分要に対して興味を持っているようだな?」
「いつもお世話になっておりますので」
「…本当ならメイドがお世話をするのが正しいのでは?」
「失念しておりました!?」
今更気付いたかのように驚きの声を上げていたが、幸い他の生徒は食事を終えて人が少なくなっていたので大して気に止める人もいなかった。
「そ、それはさて置いて…アンジェは出来れば要さんのお役に立ちたいと思うことがしばしばあるので宜しければ…お手伝いをさせていただきたいのです」
「…手伝い?」
椛が聞き返すと、アンジェは静かに頷いた。
「お恥ずかしい話ではございますが、アンジェは今日まで要さんにはお勉強のことも含めていろいろなことで助けていただきました。ですので、今回の選抜試験では要さんが勝つためにも、アンジェはアンジェの出来ることをすることで、少しでも恩返しをしたいと思ったのでございます!」
目の前で両拳を握ったアンジェの表情は真剣そのものだった。
「もちろん、神樂としては何の能力を持たないアンジェなので、出来ることは試合外のことに限られてしまいますが、要さんが万全の体調で試合に臨めるよう頑張りたいと思っております!」
「………」
「…おかしいでしょうか?」
反応のない椛に不安を覚えたのか、アンジェは先程の勢いはどこに行ったのかと疑いたくなるほど声が小さくなっていた。
「成程、確かに今は要が試合に集中できるように、私たちがフォローする、というのが今できる精一杯だろうな」
椛はそう言ってアンジェに手を差し出した。
「?」
何かと思ったアンジェは首を傾げた。そんな反応に思わず頬を緩ませながら椛は言った。
「その話、私にも一枚噛ませてもらえないか?」
「! は、はい! よろしくお願いします!」




