傷痕 参
日を跨いで翌日、十時。
要は昨夜龍一に言われたとおり息抜きをすることになった。
「……引っかからないな……」
目先で揺れるそれを見ながら椛がそんな感想を零した。
「辛抱だよ、椛ちゃん。こういうことはじっと待つことが大切だからね」
手元で何かしら準備をしながら千尋が答えた。あまり手馴れている様子はなく、少しばかり手間取っていたが、十秒後には彼女も満足いく形に『それ』が出来たようだった。
「これは遠くに飛ばしたほうが良いのでしょうか? それともできるだけ近くに落としたほうが良いのかが……」
「そ、それはアンジェには分かりません……」
「難しく考えなくても良いんじゃないかしら? 釣れなければ昼ご飯抜き、なんてことは無いから気軽に楽しめばいいと思うわよ」
悩むアンジェ、ソフィーに対して御影が釣り糸を垂らしながら答えた。
現在、要たちは海岸付近で釣りを行なっていた。
一時間経った今、釣果はあまり良いとは言えず、桶の中にはスズキが一匹、シロギスが一匹泳いでいるだけだった。どちらも御影が釣り上げたもので、彼女のこれまでの行動はどこか手馴れた感じがあった。
「ですが、スズキのような高級魚が釣れると分かれば、皆さんに味わってもらいたいと思うのがメイドでございまして。まさか習った調理法がこんなところで役に立つとは思いもしませんでした!」
「……本当に万能なのね、メイドって……っと、また引っ掛かったわね」
嬉しそうに話すアンジェに、御影は少しだけ返答に迷っていた。しかし、そんな返答をしながらも彼女はまたスズキを一匹釣り上げ、それを桶の中に入れた。
「しかし、御影さんは随分と上手ですね? どこかで経験をしたことがあるのでしょうか?」
「経験……ってほどじゃないと思うわよ。山に遊びに行って、川釣りを何回かやった程度だから。何処に投げれば良いかは分からないけど、どの時期に引き上げれば良いか、くらいなら少しだけ助言出来るわよ」
「「それは是非」」
興味を持った二人は、身を乗り出して御影に近付いた。座っている状態では離れられないので、御影は少しだけ困った顔をしながらも説明を始めた。
「……アンジェちゃんは大丈夫そうだね」
その様子を見ながら千尋は要に話しかけた。
「……まぁ、ソフィーが全快したというのを確認出来たからだろうな。それがなければ、今ほど回復はしていなかっただろうが……」
《これは蜥蜴丸殿にも感謝しておくべきだろうか?》
《気にするでない。儂も良い主に巡り合わせてもらったから、トントンじゃろうよ》
要の横で、二領の釼甲は並んで海を眺めていた。
《……しかし、このように腰を落ち着かせて過ごすのは、少々慣れぬな》
《それは影継殿が、この三ヶ月の間に大きな戦いを二度も行なったためじゃろう。かつての戦國時代や世界大戦時でも無ければ、普通はそこまでせんだろうよ》
《ふむ。その言だと、蜥蜴丸殿はかつての大戦を二つ経験しているのだろうか?》
影継の指す二つの大戦とは、関ヶ原大戦と世界大戦のことであろう。
前者は大和の、後者は世界の中で最大の戦争であり、記録でしか知らない影継は興味深そうに蜥蜴丸に問い掛けていた。
《経験……と言っても、大した功績は残しておらんよ。しかし、それで良ければ少しばかり話しても構わんが……》
《お願いできるだろうか?》
そんな会話を耳にしながらも、要と千尋は別に話し続けていた。
「……けど、要君はさっきから全然釣れないね? 引っかかってもすぐに逃がしちゃうし」
「……まぁ、予想はしていたことだが、な」
「もしかして、要君。釣りは初めて?」
「……正解だ」
千尋の質問に要は一瞬躊躇ったが答えた。その返答で彼女は何か納得したように頷いた。
「そっか。それなら全然釣れないことも当然だね。でもそれならどうして『釣りをしよう』なんて言い出したの?」
「単に前々から興味があっただけだ。ただ、今まではやってみる機会が全く無かったから、これを機に挑戦してみようと思ったのでな」
「ふーん……」
千尋は話を聞きながら要の釣竿の先を見た。
「……うん。さっきからピクリともしないね」
「釣り糸を垂らすのも初心者の釣りの醍醐味だ、とでも開き直っておかないと駄目だろうな、これは……」
そんな話をしていると、視界の端で動きがあったのが見えた。
要たちがそちらに顔を向ければ、アンジェとソフィーに教えていた御影が立ち上がり、投げの動作を始めようとしていた。
「竿を投げるときには、上体があまりぶれないようにすればそれなりの距離は飛ぶのよ。後は手が顔の真横に来た時にでも手を止めれば……っと!」
御影が説明と同時に実演してみせると、釣り糸は大分遠くの水面に落ちた。その距離は他の誰よりも遠い位置だった。
「わぁ……お見事です!」
「成程、叩きつけるような感じで振るというのが間違いだったのですね」
彼女のお手本に生徒二人はそれぞれ《らしい》反応を見せていた。アンジェは手を合せ、ソフィーは彼女の動きをマネしていた。
「そうね。けど、これくらいなら四、五回やっているうちに覚えるわよ。後は餌を多すぎず、少なすぎずってことだけね」
「分かりました! 試させていただきます!」
「では私も……」
ソフィーとアンジェが彼女を習って立ち上がろうとした瞬間だった。
突如、彼らのいる堤防に突風が吹き抜けたのだった。
「……っと……!」
座っていた五人は問題なかったのだが、立っていた御影はその風を全身で受け止めてしまい、体勢を崩してしまった。
そして運の悪い事に、彼女がよろめいたのは海に向かって、だった。
「あ、綾里!?」
慌てて彼女の近くに座っていた椛が手を伸ばすが、虚しく空を掴むだけで終わり御影はそのまま大きな音を立てて海に落ちた。
「だ、大丈夫、御影ちゃん?!」
千尋の言葉と共に全員が持っていた釣竿を投げ置き、御影の方へと駆け寄った。しかし声をかけられたにも関わらず、御影からの返答は無かった。
次の瞬間に彼女が浮かんできたのを見て、千尋は一つ安心だと思ったのか息を吐こうとしたが、途中様子のおかしさに気付いた。
……海に落ちた御影は、何かを掴もうとするような、もがくような動きだった。
陸の方へと手を伸ばしては届かず、海に落ちての繰り返しだった。
「……まさか……!」
泳げないのではないか。
椛がそんな疑問に思うよりも先に、要が真っ先に動いていた。
躊躇いなど微塵もなく。
少しでも助けられる可能性を上げるように上着を脱ぎ捨て、堤防である程度の助走をつけるとその勢いのまま海へと飛び込んだのだった。
次に彼が浮かび上がると、脇に御影を抱えており、そのまま岸の方へと向かって泳ぎ始めた。だが、人一人抱えているためか少しばかり泳ぎにくそうにしており、お世辞にも速いとは言えなかった。
「……! 蜥蜴丸、太刀の鞘だけを出してください!」
《これか!?》
ソフィーの声を受けて蜥蜴丸は口から頼まれた物を射出した。それを受け取ると、彼女はそれを飛び込んだ要の方へと伸ばした。
「マスター、これに捕まってください!」
「アンジェちゃんと椛ちゃん、ソフィーちゃんが引き込まれないように掴んで! 多分一人じゃ軽すぎるから!」
「は、はい!」
「わかりました!」
四人が連続で並び、それぞれ前の相手の腰を掴む。
それとほぼ同時に要がソフィーの差し出した鞘を掴み取り、四人は息を合わせて二人を引き上げたのだった。
岸に上がった要と御影は、息を整えるために何度も長い呼吸を繰り返していた。しかしそこは両者共に鍛えているためだろう、二分とかからず二人は普段通りの呼吸に戻っていた。要は仰向けに大の字になって、御影はうつ伏せに倒れ込んだ。
「ふ、二人とも大丈夫だった!?」
「なんとか、な……」
千尋が慌てて意識の確認をしてきた時には、既に要の呼吸は完全に元通りになっていた。それを見て四人は安心したように、今度こそ肩の力を抜いた。
「……御影、まさかと思うが……」
要は一瞬悩んだようだったが、尋ねずには居られなかったのか、御影に向けて問い掛けた。数秒の間、御影は固まっていたが、それもすぐに決壊した。
「えぇそうよ! 私はさっき見てのとおり金槌よ!? その気になればため池でも溺れる自信があるわよ!」
「いや、そんなことで自信をもたれても困るのだが……」
「仕方ないでしょう!? 薩摩に来て生まれて初めて海を見たんだから! 私の村は山に囲まれて水場なんてほとんど無かったし、あったとしても脛までの深さの小川だけよ!」
恥ずかしさが頂点に達してしまったためか、彼女は滝のごとく言葉を続けた。
「……くしゅっ……!」
そこで御影は不意に一つくしゃみをした。
夏とはいえ、全身を海水で濡らした上に、風はまだ吹き続けているので、どんどん彼女の体温が奪われているということはすぐに要は理解できた。
「……取り敢えず、これを羽織っておくといい」
要は飛び込む前に投げ捨てた上着を御影に羽織らせた。
「一応、放熱しにくい造りになっているから、服が乾くまで貸しておく」
「あ、ありがとう……」
御影が礼を言おうとして要に振り返った瞬間だった。
「……!?」
目の前の物に、言葉を失わざるをえなかった。
上半身が裸の要だが、問題はその初めてさらされた服の下だった。
全身に所狭しと生々しい傷跡が付いていたのだった。
肩から腰まで袈裟斬りをされたようなものもあれば、腹には槍でも突いたのではないかと疑いたくなるような傷跡もあった。腕に至っては明らかに骨まで達したであろう刀傷もある。
それを見て、誰もが言葉を失っていた。
御影と同じく知らなかったであろうアンジェとソフィーは驚きのため。
千尋と椛は知っていたのだろうが、どう説明すれば良いかを知らないため。
……全員のその反応を見て、要は僅かに後悔したように頭を押さえていた。
「……やっぱり驚かれたか。だからあまり見せたくは無かったのだが、な……」
「か……要……? そ、それ……は?」
「何をすれば……そこまでの事に……」
「不快な思いをさせたら悪かったな。言われれば目に入らないようしばらくの間離れるが」
返されたのは答えではなかった。
自身で自身を拒絶するかのように、要は既に腰を上げて立ち去ろうとしいた。
「……っ!」
その瞬間、御影は素早く手を伸ばした。
立ち上がり、去ろうとしていた要の手首を掴んだのだった。
力強く、微かに震える要の手を。
「……離してもらえるか……?」
極めて平静を保っているように努めてはいたが、ほんの僅か声も震えていた。
だから彼女は、安心させるように優しい声音で話し始めた。
「……要は、普通の人とは全く違う私をすぐに受け入れてくれたわよね?」
離れないように、しっかりとその手を掴んで語る。
「大和人でありながら、髪は銀に、肌は黒く、目だってこの通り変わっているわ……」
「……俺は人を見た目で判断できるほど、優れた人間では無いからな。それに、学園のみんなもそれなりに受け入れていたはずでは……」
「ほとんど全員、珍しいものを見る目だったわよ。事実、誰も興味は持ちながらも気味悪がって話しかけてこなかったわ……」
要の反論を彼女は即座に否定した。
御影の言うとおり、彼ら彼女らは確かに好奇の目を持ってはいたが、決して自分から近付こうとはしなかった。外見だけとはいえ、自分と大きく異なる存在に得体の知れない恐怖でも感じたのか、要と……彼の友人以外は積極的に接してこようとはしていなかった。
「……だから、今度は私の番」
言うと同時、御影は要の手を強く引き、勢いついたところ、要の頭を優しく抱きしめた。
「なっ……何を!?」
「私は要に何があろうと受け入れるわ。それが一人だった私に、あなたが与えてくれたものだから」
……無償の愛情。
それは、家族が家族だからこそ注ぐ、最高の宝物。
まるで母親のように、御影は抱きしめた要の頭を撫でた。
海水で濡れているにも関わらず、彼を包む腕は温かく、要の『恐れられる恐怖』は溶かされていった。
「……ありが……とう……っ!」
そう言う要の声は、小さく、掠れ、震えていた。