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白い結婚の奥様は、夜な夜な下町で食堂を開く ~お忍びの常連客が私の旦那様(氷の大公)だなんて、お互い気づいておりません~  作者: 月城 友麻


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4. 病弱な奥様

「大公夫人は病弱」の噂は、思ったより根が深かった。


 曰く、日の光に当たれない。曰く、離宮の奥で伏せったきり。曰く、氷の大公が見向きもしない、薄幸で儚げな美人(見た人はいない)。尾ひれに背びれまで付いて、噂の中の私は、もはや半分幽霊である。


 ……出どころには、心当たりがあった。夜の外出を隠すために「奥様はお加減が優れません」で来客を全部断ってくれているうちの家令さんである。バルツァーさん、仕事が丁寧すぎやしませんか。おかげで俄然、夜の商売はやりやすいのだけれど。


 試しに鏡の前で「儚げ」を作ってみたら、映っていたのは竈の火で頬の焼けた、健康優良な女将である。噂というのは、本人の与り知らぬところで、勝手に別人を育てるものらしい。


「女将。どうかしたか?」


「いえ。世間って、広いようで狭いなと」


 その晩は、雨のせいか客足が早く引けた。竈の火が小さく爆ぜて、軒を打つ雨音が店の中まで届く。閉店間際まで残っていたのは、ヴェスさんひとりである。


 お付きの皆さんも毎晩は遅くなれないようで、もう帰ってしまっていた。


 今夜の彼は、いつにも増して顔色が悪く見える。私は何かできることをと、生姜の粥を出した。


「……頼んでいないが」


「今日のヴェスさんにサービスです。元気になってもらわないと」


 彼は少し黙って、それから素直に匙を取った。生姜の香りの湯気が、フードの奥の強張りをゆっくりほどいていく。器が半分空く頃には、指先の色が戻っていた。


 その彼が、珍しく自分から口を開く。匙を置いて、ぽつり、ぽつりと、石を積むように。


「……妻が、いる」


「そうなんですね。どんな奥様なんですか?」


「会ったことが……ないんだ」


「はい?」


「政略でな。式は代理、その後は戦場だ。文のやり取りはある。あるが……あちらの文は、季節の挨拶と決まり文句だけでな。三年分読み返しても、顔が見えん」


 布巾を持つ手が、止まりそうになった。


 政略結婚。代理婚。顔も知らない妻。決まり文句の手紙。……いや、待て。落ち着け、私。この国の政略結婚は掃いて捨てるほどあるし、戦場帰りだっていくらでもいる。


 だいたい、私は旦那様の肖像画を見ている。軍装に髭、岩をそのまま鎧に詰めたような大男——あれが「氷の大公」である。目の前のこの人は髭がないし、声も若いし、何より生姜の粥で幸せそうになる人だ。別人である。


 それに、バルツァーさんは言っていた。旦那様は北の砦にご常駐で、王都へお戻りの予定は当面ない、と。家令の言葉ほど確かなものはない。


 閣下呼びのことなら、うちの常連は半分が元・兵隊さんで、いまだに階級で呼び合う人たちである。昔の上官を「閣下」と呼ぶ連れが一人いたところで、驚くほうが野暮というものだ。


 結論。この人は、王都のどこかのお屋敷の、訳ありの元・軍人さん。以上、閉廷である。


 それよりも——事務的な手紙しか書けない奥方の話は、他人事として聞くには、耳が痛すぎた。季節のご挨拶を申し上げます。旦那様のご武運をお祈りします。まさにそういう手紙を、私は三年間、北へ送り続けてきたのだ。だって、何を書けばいいのか分からなかった。顔も知らない、声も知らない、怒っているのかどうかも知らない相手に。


「奥様も、困ってるのかもしれませんよ」


 気づけば、そう言っていた。


「顔も知らない旦那様に出す手紙って、たぶん、世界でいちばん書きにくい手紙です。間違えたら怖いから、決まり文句に逃げたくもなります」


「……では、どうすればいい?」


「お食事の話でもしてみたらどうですか? 今日は何を食べたとか、何が好きかとか。食べ物の話に、身分は関係ないので」


 ヴェスさんは、粥の匙の名残を、じっと見つめた。


「食事……」


「食事です。あ、これは女将の営業トークじゃなくてですね」


 半分は営業トークである。でも半分は、本音だった。決まり文句の便箋の前で途方に暮れる誰かの姿が、どうしてか、他人の気がしなかったのだ。


       ◇


 その深夜、大公家の執務室――。


 アレクシス・ヴィンターは、便箋を前に三刻が経過していた。書き出しては丸め、丸めては書き出す。足元の屑籠は、すでに小山である。


 怪訝に思った副官が拾い上げてみれば、『貴殿の健勝を祈る』(堅い)、『前線の冬は寒かった』(暗い)、『息災か』(三年目に聞くことか)——副官として言葉もない。


「閣下。国境の防衛線計画は半刻で書き上げたお方が、何をそんなに」


「ギデオン。『好きな食べ物は何か』は……軽率か」


「い、いえ。よろしいのでは」


「そうか。……そうか」


 北の英雄は、生涯でいちばん慎重に、一行だけの手紙を書き上げた。封をする手つきが、爆薬でも扱うようだったという。


       ◇


 翌朝。離宮に、手紙が届いた――。


 銀盆に載せて運んできたバルツァーさんが、心なしか嬉しそうである。差出人、アレクシス・ヴィンター。私の、旦那様。北の砦の消印を捺されて、遠い道のりを旅してきた、三年間で初めての決まり文句ではない私信である。


 便箋には、たった一行。


『好きな食べ物は、何か』


 ……昨晩に聞いたような話の流れに、嫌な汗が背中を伝った。


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