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第8話:『路地裏の波濤(はとう)』

石段を駆け上がった先は、古書店の裏手に広がる、迷路のような狭い路地裏でした。


「凪、走れるか!」 「ガ、ァッ!」


凪は低く短く吠え、人間離れした跳躍で路地のゴミ箱を飛び越えていきます。湊の黄金の瞳は、昼間だというのに路地全体が「青い霧」に覆われているように見えていました。それは、自分たちが纏う竜宮の気配が現実を侵食し始めている証でした。


背後から、風を切る音が連続して響きます。


「逃がさんと言ったはずだ、忌み子共」


綱元は、住宅の屋根から屋根へと音もなく飛び移り、上空から正確無誤な射撃を繰り出してきます。放たれる矢は、着弾するたびに周囲の「音」を吸い込み、空間を歪ませる不可解な力を帯びていました。


「湊にいちゃん、右だ!」


言葉にならない凪の意思が、湊の脳内に直接流れ込んできました。湊は直感に従い、右の細い隙間へと体を滑り込ませました。刹那、先ほどまで湊の頭があった場所を、光の矢が抉り取っていきました。


「……はぁ、はぁ……っ!」


心臓が早鐘を打ち、黄金の瞳が激しく明滅します。 湊の視界には、逃走経路の先々に、赤い「死の線」が見えていました。それは綱元が次に狙う場所。


(見える……でも、体が追いつかない……!)


路地を抜けた先は、町を南北に分かつ運河でした。逃げ場のない橋の上で、綱元が先回りして立ちはだかります。


「終わりだ。箱を開けた罪、その命で償え」


綱元が弓を限界まで引き絞ります。矢の先端には、鬼を断つための凄まじい「殺気」が凝縮されていました。


その時、湊のポケットの中で真鍮の鍵が、耳を劈くような高音を奏でました。


「……罪だなんだって、勝手に決めるな!」


湊は「鉄の断片」を抜き放ちました。しかし、それを振るうのではない。鍵から溢れ出した青白い光を、断片に纏わせ、足元の運河の「水面」に向けて叩きつけたのです。


ドォォォォン!!


爆発的な水柱が上がり、運河の水が意思を持つかのように巨大な壁となって綱元の視界を遮りました。 それは「浦島」の血が呼び寄せた、一時的な海の加護。


「なっ……水の壁だと!?」


綱元が動揺した隙に、凪が湊を抱え上げ、水飛沫の向こう側へと力強く踏み出しました。凪の脚力は一跳びで運河を越え、対岸の複雑な住宅街へと消えていきます。


「……逃げたか。だが、竜宮の匂いは隠せんぞ。吉備の地が、お前たちの墓場だ」


綱元は弓を下ろし、暗い眼差しで水の引いた水面を見つめていました。


一方、息を切らして人気のない公園まで辿り着いた湊は、凪の背中で力尽きるように目を閉じました。 視界の端で、あの栞の店があった方向から、微かに本が焼けるような匂いが風に乗って届いた気がしました。


「……ごめん、栞さん。……ありがとう」


湊は、凪の冷たい角を握りしめたまま、意識を失うように深い眠りへと落ちていきました。

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