第3話:『因縁の初陣』
「凪、後ろにいろ」
湊は弟を背に庇い、一歩前へ出た。 廃屋の入り口を塞ぐように現れたのは、巨大な泥の塊のような「何か」だった。顔と呼べる場所には目も口もなく、ただ底なしの闇のような穴が空いている。怪異は鴨居をみりみりと踏み潰し、腐った畳の上にその異形を這わせた。
(……来る!)
怪異の腕が、鞭のようにしなって湊を襲う。 湊は反射的に身を翻したが、その速度は常人のそれではない。黄金の瞳が、怪異の動きを「光の軌跡」として数瞬前に予見していた。
畳が爆ぜ、砂埃が舞う。湊は転がりながら、ポケットの**「鉄の断片」**を掴み取った。
その瞬間、掌に焼けるような熱痛が走る。 ただの錆びた金属だったはずの断片が、湊の意志に呼応し、眩い黄金の光の刃を形成した。
「……ッ、これは……!」
驚愕する湊に構わず、泥の怪異は無数の触手を突き出してきた。 湊は無意識に、習ったこともない「型」でそれを切り払う。光の刃が触れるたび、泥の腕は断ち切られ、焼けるような音を立てて蒸発していく。
だが、怪異の再生は早かった。 「ア、ガ……ギィィ……」 言葉にならない呻き声を上げながら、泥は湊の足を絡め取り、そのまま床へと叩きつけようとする。
「兄ちゃん!」
叫び声とともに、影が走った。 凪だ。 異形となった凪は、地を蹴る凄まじい脚力で怪異の側面に躍り出ると、鋼のような爪をその胴体に突き立てた。
「ガアアアア!!」
凪の爪が泥を引き裂き、怪異の中心にある「どす黒い核」を剥き出しにする。 凪は理性を失った獣のように、無我夢中で怪異を食い止めようとしていた。
「離せ、凪! 危ない!」
湊は叫んだ。怪異の触手が凪の首に巻き付こうとしている。 湊は全身の力を右腕に込めた。黄金の瞳が一点――泥の奥で脈打つ核を射抜く。
その時、湊の視界に、自分を突き動かす「もう一つの意志」が重なった。 それは、かつて同じようにして鬼を討った男の記憶。
「退けぇ……!!」
湊が鉄の断片を突き出すと、黄金の光が一本の巨大な杭となって放たれた。 光は泥を貫き、中心の核を木っ端微塵に粉砕する。
「ギ、ヤァアア……!」
断末魔とともに、泥の怪異は黒い霧となって霧散し、廃屋を包んでいた嫌な湿り気が嘘のように消え去った。
「……は、ぁ……は、ぁ……」
湊は鉄の断片を落とし、その場に崩れ落ちた。 全身の血が沸騰したかのような熱さと、直後に襲いくる、魂を削られたような脱力感。視界が激しく揺れ、黄金の光がゆっくりと薄れていく。
「……凪……無事か……?」
声を絞り出すと、隣で肩を上下させていた凪が、ふらつきながら近寄ってきた。 凪の腕は怪異の泥で汚れていたが、その瞳は湊を心配そうに見つめている。
凪は大きな、爪の鋭い手で、そっと湊の肩を支えた。 異形になっても、その触れ方は、かつて熱を出した湊を気遣った時の、優しい弟のままだった。
湊は、血の滲む手で凪の冷たい頬をなでた。 「……大丈夫だ。俺たちは、まだ生きてる……」
雨上がりの月光が、廃屋の穴の空いた天井から差し込み、傷だらけの兄弟を静かに照らした。 湊は気づいた。この力は、自分たちを守る力であると同時に、あまりにも重い「業」なのだと。
その傍ら、空になったあの**「小箱」**が、月の下でひっそりと冷たい光を放っていた。




