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プロローグ:深海からの産声

雨が、すべてを塗り潰していた。 山あいに建つ吉浦よしうら家の蔵の中は、カビの匂いと死の気配が混じり合い、重苦しく沈んでいる。


「……みなと、にいちゃん……たすけ……て……」


足元で、弟のなぎが苦悶の声を漏らす。 兄の湊は、光を失った瞳を必死に見開いた。事故で視力を奪われて以来、彼にとって世界は「音」と「気配」だけの暗闇だ。だが今、その暗闇の中で、凪の肉体が異常な変質を遂げていることだけは、触れる肌の異様な熱さと、骨が軋む不気味な音で理解できた。


「凪、しっかりしろ! いま、誰かを呼んでくるから……!」


湊の声は震えていた。二人きりで生きてきた。凪だけは守ると誓ったのに、目の前の弟は今、人ではない「何か」に成り果てようとしている。


その時だった。


蔵の奥、近づくことすら禁じられていた古い棚の向こうから、女の声が響いた。


『……開けて……お願い……その子を、助けて……』


それは、記憶の底に眠る誰かの声に似ていた。だが、それよりもずっと冷たく、暗い海の底から響いてくるような、慈愛と呪いが混じり合った響き。


湊は、這うようにして棚へ向かった。 指先が触れたのは、うるしが剥げ落ちた、てのひらよりも一回り大きな古い小箱だった。 何重にも巻かれた真田紐さなだひもは腐りかけ、古びた紙の封印が重々しく貼られている。


「これを開ければ、凪を助けられるのか……?」


答えはなかった。代わりに、小箱の奥からドクン、ドクンと、巨大な心臓の鼓動が伝わってくる。湊は震える手で、その封印を指先で引き裂いた。


パキィィィィン!!


静寂を裂いて、乾いた音が響く。 蓋を跳ね上げた瞬間、視界を失っていた湊の脳裏に、凄まじい「黄金の閃光」が奔った。


「――っ!?」


目が焼けるように熱い。 小箱から溢れ出した漆黒の煙は、意思を持つ生き物のように凪の体へと吸い込まれていった。それは数千年の間、この小さな器の中に押し込められていた、荒ぶる「異形の生命力」。 そして湊の瞳に飛び込んだ黄金の輝きは、その異形を封じ、いつか来るべき日のために残された「鋭い意志」だった。


「……あ……」


湊は息を呑んだ。 光を失ったはずの瞳に、世界が「色」を変えて映り込む。 壁を這う黒い因縁の霧、床に沈む古い血の記憶。そして目の前には、黒い鱗に覆われ、二本の角を突き立てた、異形の姿で息を吹き返した凪がいた。


湊の視界には、凪の胸の奥で、優しく微笑む女性の影が視えた気がした。


『ありがとう……あの子を、呼んでくれて……』


声が止む。 空になった小箱の底には、一本の真鍮の鍵と、折れた古い鉄の欠片が残されていた。


湊は、変わり果てた姿で自分を見上げる凪の手を、迷わず握りしめた。その手は冷たい鱗に覆われていたが、脈打つ鼓動は、紛れもなく弟のものだった。


「行こう、凪。……ここで終わらせたりしない」


湊は、箱の中にあった「鉄の断片」と「導きの鍵」をポケットにねじ込んだ。 自分たちが何者なのか、この力が何なのか、今はまだ何も知らない。 ただ、新しく得た黄金の瞳で、雨の夜の向こう側に輝く「一本の道」を見つめていた。


これが、二人の少年の――神話を書き換える旅の始まりだった。

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