第1話:目覚めたら、世界の仕様が見えていた
目を開けた瞬間、最初に思ったのは「眩しい」だった。
天井がない。代わりに、薄い雲が流れている。草の匂いが鼻の奥に刺さって、土の湿り気が背中にまとわりつく。寝転んでいたのは、柔らかい苔の上だった。
起き上がると、体はいつもの自分のままだった。
だが、不思議なほど軽い。慢性的な肩の重さも、寝不足のだるさも、きれいに消えている。
「……ここ、どこだ」
声は、間違いなく自分のものだった。
喉の渇きや口の中の土の感触も現実そのものなのに、
体だけが妙に調整されている感覚があった。
記憶が遅れて追いついてきた。
相川律。二十七歳。前の世界では、設計の仕事をしていた。会議と仕様書と締め切りに追われ、終電と寝不足が日常で――
最後の記憶は、横断歩道。白線。クラクション。視界が白く飛んだ。
「……転生、じゃないな」
そう結論を出した瞬間、胸が少しだけ痛くなった。怖いとか悲しいとかより先に、仕事のデータが消えたことを思い出して胃が締まる。死ぬって、もっと劇的なものだと思っていた。
辺りを見回す。
森。遠くに小さな川の音。風が草を揺らす。空は青すぎるほど青い。人工物が見当たらない。道路も電線もない。
その代わり。
視界の端に、薄い文字が浮かんでいた。
半透明で、光の角度でわずかに見えたり見えなくなったりする。まるで、スマホの画面に映った通知の残像みたいに。
『接続確認:完了』
『ローカル環境:安定』
『同期:未実行』
「……は?」
思わず目をこすった。消えない。むしろ、意識を向けると少しだけ鮮明になる。
自分の中の、嫌な習性が反射的に働いた。
仕様を読む。ログを読む。挙動を観察する。原因を切り分ける。
そういう仕事を、二十七年やってきたわけじゃないけど、少なくともこの数年はそれで飯を食っていた。
『同期:未実行』の下に、小さな矢印が見えた。触れそうで触れない距離。指を伸ばして、空をなぞる。
反応はない。
「タッチパネルじゃないのか」
そう呟いた自分に笑いそうになる。異世界に来て最初にやることが、UIの操作確認って。
でも、笑えなかった。
この文字列は、偶然の幻覚で片付けるには出来すぎている。
接続確認。ローカル環境。同期。
世界を「環境」と呼ぶ感覚。世界に「接続」する発想。同期が未実行って言い方。
どれも、神話じゃなくてシステムの言葉だ。
背筋が冷える。
ここがどこであろうと、少なくとも「何か」によって管理されている。あるいは、管理されようとしている。
起き上がり、森の中を歩き出した。まずは安全な場所と水。生存の優先順位は単純だ。
歩いていると、足元の草がわずかに光った。いや、草そのものが光ったんじゃない。足が踏み込んだ瞬間、地面に薄い模様が走った。
線。幾何学。円と記号の組み合わせ。
一瞬で消える。だが、確かに見えた。
「……魔法陣?」
口に出したとたん、空気が変わった。
森の奥から声がした。男の声。複数。近い。
「おい、そっちだ!」
「いたぞ! 生きてる!」
枝が揺れ、人が飛び出してきた。革の服、腰には短剣。髪も服も土で汚れている。現代日本の服装ではない。ファンタジーの衣装そのままだ。
三人。全員が若い。だが目つきは荒い。
「お前、どこの村だ?」
「返事しろ。森に一人でいるとか正気かよ」
言葉が通じている。日本語だ。でもイントネーションが少し違う。翻訳されている感覚。耳で聞いてるのに、脳が勝手に意味へ変換している。
「……俺は、相川律。気づいたらここにいた」
男たちが顔を見合わせた。
「名前だけかよ」
「迷子か? それとも……」
「まさか、転生者?」
転生者。いきなり核心ワードが出てきて、律の心臓が一度だけ強く跳ねた。
この世界には、そういう概念が最初からあるのか。
「転生者って、何だ」
聞き返すと、男の一人が嫌そうな顔をした。
「最近増えてんだよ。訳のわかんねぇこと言うやつが」
「神殿で鑑定すりゃすぐわかる」
鑑定。
その単語が出た瞬間、律の視界に別の薄い文字が浮かんだ。
『対象:ヒューマン』
『識別:可能』
『ステータス参照:権限不足』
……権限不足。
喉が鳴った。
「おい、どうした? 顔色悪いぞ」
男が一歩近づく。律は反射的に距離を取った。
「……鑑定って、どうやる」
「神殿に行きゃ水晶がある。手をかざすだけだ」
手をかざすだけ。水晶。ステータス参照。
あまりにテンプレすぎる。なのに、今見えた文字列がそれを裏付けた。
俺だけ、ステータス参照ができない。権限不足。
つまり、普通の人間のアクセス権限とは違う。
「連れてく。抵抗すんなよ」
荒っぽい手が伸びてくる。律は抵抗しなかった。今は情報が欲しい。安全な場所が欲しい。
歩きながら、男たちの会話を拾う。
「また転生者かよ」
「でもこいつ、ステータス見えない感じだったぞ」
「は? そんなのあるか?」
やっぱり、異常だ。
森を抜けると、小さな村が見えた。木造の家、畑、煙。人々がこちらを見て、ざわつく。誰かが神殿の方向へ走っていった。
石造りの小さな建物。中は薄暗く、香の匂いがする。中央に、透明な水晶球が置かれていた。
神官らしき老人が現れる。白い衣。皺だらけの手。目は冷たいほど澄んでいる。
「……手を」
律は水晶に手をかざした。
一瞬、冷たい感触。だが水晶は光らない。
周囲が静まり返る。
神官が眉をひそめた。
「もう一度」
律はもう一度、手をかざした。
変わらない。
水晶は、沈黙したままだ。
「……そんな馬鹿な」
誰かが呟いた。男たちがざわつく。
神官が息を吸い、ゆっくり吐いた。
「ステータスが……読めぬ」
その瞬間、律の視界に薄い文字が浮かぶ。
『ステータス参照要求:拒否』
『対象:Admin-Less』
『例外処理:適用中』
Admin-Less。
背中が冷たくなった。
神官の声が遠い。
「この者は――」
律は水晶から手を離し、喉の奥で乾いた笑いを噛み殺した。
神がいない。
世界はシステム。
そして俺は、権限がない例外。
最悪だ。
なのに。
目の前のログは、最高に興味深かった。
自分でも驚くほど落ち着いた声が出た。
「この世界、普通じゃない」
神官が目を細める。
「お主……何を知っておる」
律は水晶を見つめた。
知らない。
でも、見えてしまう。
この世界の裏側が。
そして、次に浮かんだ文字はさらに不穏だった。
『同期開始まで:残り 29日』
律は息を止めた。




