第16話 母と私
「私は、もとより知っていた。
旦那が、いずれ死ぬということを」
母は、淡々とそう切り出した。
声は落ち着いていたが、その奥には、長く沈殿したものがあった。
「覚悟は、できていたつもりだった。
それでもね……」
母は一度、言葉を切った。
「旦那の心臓が止まった瞬間、私は初めて知った。
人は、ここまで苦しめるんだって。
それまでのどんな苦しみも、比べ物にならなかった」
誇張には聞こえなかった。
ただ、事実として置かれた言葉だった。
「頭ではわかっていたのよ。
でも、その瞬間になって初めて、
本当にいなくなったんだって、理解してしまった」
沈黙が落ちた。
重く、逃げ場のない沈黙だった。
「あなたには、その能力がある。
だから、覚悟はできているつもりでしょう。
彼氏が死ぬということも」
母は、まっすぐ私を見た。
「でもね、実際にその時が来たら、
そんな覚悟なんて、簡単に壊れる」
心をえぐり取られる。
ぽっかりと穴が開き、世界に自分だけが取り残される。
「……それでも」
母の声が、ほんの少しだけ柔らいだ。
「それでも、あなたがその選択をするなら、
私は、止めない」
けれど、と母は続けた。
「もし耐えられないと思うなら。
覚悟がないと思うなら……
幸助さんとは、別れなさい」
命令ではなかった。
懇願に近かった。
「そのほうが、苦しまない。
悲しまない」
そして、母は小さく言った。
「私は、後悔している。今でも」
旦那を、
本気で愛してしまったことを。
「愛してさえいなければ、
ここまで苦しまなくてよかったのに……」
長い沈黙のあと、母の声は驚くほど優しくなった。
「私の話は、これでおしまい。
……ここからは、あなたの答えを聞かせて」
そう前置きして、母は問いかけた。
「あなたなら、どう生きる」
待ってほしかった。
考える時間が、欲しかった。
でも、私たちには時間がない。
だから母は、答えを急がせたのだ。
怖かった。
今の私は、母と同じ場所に立っている。
私は、幸助の死を、
どこか現実味のないものとして
軽く考えていたのかもしれない。
その時が来たら、
きっと、受け止めきれない。
母と同じように、
付き合わなければよかったと
思ってしまうかもしれない。
それでも――
幸助と別れる、という選択肢はなかった。
愛は、苦悩だ。
理屈では、もう十分わかっている。
それでも私は、
自分からこの道を選び、
戻れないところまで来てしまった。
あなたも、そうだったんでしょう。
お母さん。
わかっていた。
それでも、止められなかった。
愛とは、そういうものだ。
私は、そう悟って、母に言った。
「あなたの言うことは、わかった。
でも、もう戻れない。
だから、幸助とは別れない」
母は、何も言わずに聞いていた。
私は続ける。
「でも、短い時間でも、できることはある。
私の記憶の中に幸助を刻み込む。
目いっぱい、刻み込む」
声は、震えていた。
「そうしたら、幸助がいなくなっても、
私は一人じゃない。
思い出の中に、いつも幸助がいる」
……そうでしょ。
母は、私の言葉が終わるのを待って、
静かに口を開いた。
「そう。それが、あなたの答え」
それだけ言って、母は黙った。
長い、長い沈黙だった。
私は、この沈黙が早く終わってほしかった。
声をかけようとした、その時。
母が、優しい声で沈黙を破った。
「そうよね……もう後には引けない。
私も、そうだった」
胸が、少しだけ締めつけられた。
「でも、あなたの言葉を聞いて、確信した。
あなたは、たぶん大丈夫。
きっと、乗り越えていける」
母は、息を整えて続けた。
「だから、私はあなたの恋路を応援する」
思わず、声が漏れた。
「どういうこと……?」
「あなたは、幸助さんを、
いなくなったあとも心の中に残そうとしていた」
母は、少し言葉を探すように続ける。
「私は、死んだらすべてが終わると信じていた。
だから、孤独だった。
でも、あなたは違う」
一拍置いて、母は言った。
「あなたなら、大丈夫。
だから、後悔のないように生きなさい」
その言葉を聞いた瞬間、
自然と涙があふれた。
母は、笑っていた。
「そうよ。頑張りなさい」
その言葉を最後に、電話は切れた。
私は、幸助と書いた婚姻届を握りしめ
家路についた。




