最も遠い、隣のあなたへ
◇◇◇
アストラリア王国の歴史は常に王家と筆頭公爵家であるヴァロワ家の微妙な均衡の上に成り立ってきた。それは時に緊張を孕み、時に強固な同盟となる、複雑なタペストリーだ。そして今、そのタペストリーに新たな糸が織り込まれようとしていた。王太子アレクシスと、ヴァロワ公爵令嬢セレスティーヌの婚約である。
それは国中が祝福する慶事であり、王国の未来を盤石にするための最良の一手だと誰もが信じて疑わなかった。しかし、当事者である二人の心境は春の穏やかな陽気とは裏腹にひどく冷え冷えとしていた。
アレクシスは王太子の執務室で、窓の外に広がる広大な庭園を眺めながら、誰に聞かせるでもないため息をつく。金髪碧眼、均整の取れた体躯。絵に描いたような王子然とした容姿を持つ彼だがその表情には若者らしい情熱や期待といったものは微塵も感じられなかった。
彼の婚約者となるセレスティーヌ・レイ・ヴァロワ。その名は幼い頃から何度も耳にしてきた。国内随一の名門貴族の令嬢であり、聡明で教養深く、非の打ち所のない女性だと聞いている。だがしかし、実際に何度か顔を合わせたこともあるが、アレクシスが抱くセレスティーナへの印象は「悪くはない」という程度だ。
彼女は確かに美しい。プラチナブロンドの髪は艶やかで、サファイアブルーの瞳は理知的な光を宿している。立ち居振る舞いも完璧だ。未来の王妃としてこれ以上ない人材だろう。だが彼女といるとひどく息が詰まるのだ。形式張った会話、決して本音を見せない微笑み。まるで精巧に作られた人形と向き合っているかのようだ。
「まあ、仕方がない」
アレクシスは独りごちた。王太子として生まれた以上、恋愛結婚など夢のまた夢だ。自分の人生は国家のものであり、個人の感情など二の次、三の次だ。彼はそのことを痛いほど理解していた。理解しているからこそ、この味気ない現実にため息しか出ないのだ。正直なところ、彼女に対する評価は「微妙」の一言に尽きた。
一方、ヴァロワ公爵邸でも似たような光景が繰り広げられていた。
セレスティーヌは自室の鏡の前で、静かに佇んでいた。彼女もまた、その美貌と才知で社交界の注目を集める存在だったが、今の彼女の表情は硬く、その瞳には何の感情も浮かんでいなかった。
「アレクシス殿下と……」
鏡に映る自分に向かって呟く。アレクシス王太子。彼もまた完璧な人物だ。容姿端麗、頭脳明晰。次期国王として申し分ない器量だろう。だがセレスティーヌは彼に対して何のときめきも感じていなかった。
尊敬はしている。彼の持つ責任感や、国を思う気持ちは本物だろう。だがそれだけだ。彼と心を通わせた記憶など一度もない。いつもどこか上の空で、こちらの話を聞いているのかいないのか分からない。彼の笑顔は完璧すぎて、かえって胡散臭く見える。そんな彼とこれから一生を共にするのかと思うと、気が重くなった。
「これも公爵家に生まれた者の務め」
セレスティーヌは自分に言い聞かせるように呟いた。幼い頃からそう教えられてきた。自分の感情よりも家の名誉を優先しろと。彼女はその教えを忠実に守ってきた。だから今更、この決定に異を唱えるつもりなど毛頭ない。
ただ、もう少し、ほんの少しでいいから心が躍るような相手だったらよかったのに。そんな詮無いことを考えてしまう自分を、セレスティーヌは静かに嘲笑った。彼女にとっても、アレクシスは「微妙」な存在でしかなかった。
こうして二人の婚約は当人たちの冷めた感情とは裏腹に周囲の熱狂的な祝福の中で成立した。それはまるで、緻密に計算された舞台劇のようだった。役者たちは与えられた役割を完璧にこなし、観客はその演技に酔いしれる。だが舞台裏では役者たちが互いに無関心な視線を交わしているだけなのだ。
◇◇◇
婚約が正式に発表されてから、二人が顔を合わせる機会は格段に増えた。週に一度の茶会、月に一度の観劇、そして様々な公式行事への同伴。それは傍から見れば、仲睦まじい恋人たちのデートのように見えただろう。だが実際は単なる公務の一環だった。
ある秋の午後。王宮の庭園で茶会が開かれていた。色とりどりの花が咲き乱れ、心地よい風が吹いていた。アレクシスとセレスティーヌは真っ白なテーブルを挟んで向かい合っていた。
「今日の紅茶は東方の国から取り寄せた珍しいものだそうだ。君の口に合うといいが」
アレクシスは形式的に言った。彼はセレスティーヌの好みなど興味がなかったが、婚約者として最低限の配慮を示す必要があった。
「まあ、ありがとうございます。とても良い香りですわ」
セレスティーヌも形式的に答えた。彼女は紅茶の銘柄などどうでもよかったが、婚約者として感謝の意を示す必要があった。
二人は黙って紅茶を啜った。鳥のさえずりと、風の音だけが静寂を埋めていた。
アレクシスは退屈していた。彼はこの形式的な茶会が嫌いだった。セレスティーヌといても何の刺激も得られない。彼女はいつも完璧な受け答えをするが、そこには何の感情もこもっていなかった。
(早く終わらないものか)
アレクシスは心の中でため息をついた。彼はこの後、執務室で山積みの書類を片付ける予定だった。そちらの方がよほど有意義な時間だ。
セレスティーヌもまた退屈していた。彼女はこの形式的な茶会が苦手だった。アレクシスといても何の楽しさも感じられない。彼はいつも上の空で、こちらの話を聞いているのかいないのか分からない。
(早く帰りたいわ)
セレスティーヌは心の中でため息をついた。彼女はこの後、図書室で読みかけの歴史書を読む予定だった。そちらの方がよほど心が安らぐ時間だ。
二人は互いに同じことを考えながら、無言で時間を過ごした。それはまるで、罰ゲームのようだった。
そんな日々が続く中、周囲の期待はますます高まっていった。人々は二人の間に流れる微妙な空気に気づくことなく、勝手な幻想を膨らませていった。
アレクシスとセレスティーヌはそんな周囲の反応を冷ややかに受け止めていた。彼らは自分たちが演じている役割の滑稽さを自覚していた。だがそれを口に出すことは決してなかった。彼らは王侯貴族としての常識と分別をわきまえていたからだ。
「私たちは良い役者だな」
ある日、馬車の中でアレクシスは皮肉っぽく言った。
「ええ、本当に。歴史に残る名演技ですわ」
セレスティーヌも皮肉っぽく答えた。
二人は顔を見合わせて、少しだけ笑った。それは心からの笑みではなく、乾いた笑いだった。だがそれは二人が初めて共有した本音の瞬間だったかもしれない。
◇◇◇
そんな平穏な日々に小さな波紋が広がることがあった。それは彼らの前に現れた二人の人物によってもたらされた。
一人はアレクシスの異母弟、第二王子レナード。そしてもう一人は新興貴族の男爵令嬢イザベラだった。
レナードは兄とは対照的な性格だった。自由奔放で芸術を愛し、王位継承権から解放されている立場を謳歌していた。彼は女性の扱いに長けており、その甘いマスクと情熱的な言葉で多くの女性を虜にしてきた。
イザベラは地方から出てきたばかりの男爵令嬢だったが、その美貌とコケティッシュな魅力で社交界の注目を集めていた。彼女は野心家であり、王太子の寵愛を得ることを狙っていた。
この二人がアレクシスとセレスティーヌの前に現れたことで、彼らの心にわずかな変化が訪れることになる。
セレスティーヌがレナードと親しくなったのは王宮の図書室でのことだった。彼女は調べ物のために古い歴史書を探していたが、目当ての本がなかなか見つからずに困っていた。
「何かお探しですか?」
突然、背後から声がした。振り返ると、そこにはアレクシスとよく似た顔立ちの青年が立っていた。だがその雰囲気は全く違っていた。彼の瞳には好奇心と快活さが宿っており、その笑顔は自然で魅力的だった。
「ええ、建国期の資料を探しているのですが、見当たらなくて」
セレスティーヌは少し驚きながら答えた。
「それなら、あちらの棚にありますよ。ご案内します」
レナードは親切にセレスティーヌを案内し、目当ての本を探し出してくれた。
「ありがとうございます。助かりました。あなたは……」
「失礼しました。私はレナードと申します。アレクシス兄上の弟です」
レナードは悪戯っぽく微笑んだ。
「まあ、レナード殿下でしたか。失礼いたしました」
セレスティーヌは慌ててカーテシーをした。レナードは彼女を手で制した。
「そんな堅苦しい挨拶はいりませんよ。ここは図書室ですから。学問の前では身分は関係ありません」
レナードはそう言うと、セレスティーヌが読んでいる本を覗き込んだ。
「歴史書ですか。難しそうな本を読んでいるのですね」
「ええ、歴史は未来を知るための鍵ですから」
「素晴らしい。私も歴史が好きです。特に芸術史に興味があります」
二人はそのまま立ち話をした。レナードは話題が豊富で、話術にも長けていた。彼はセレスティーヌの知的好奇心を巧みにくすぐり、彼女の心を開かせていった。
セレスティーヌは驚いていた。アレクシスとこれほど楽しい会話をしたことは一度もなかった。レナードと話していると、自分が一人の人間として尊重されているように感じられた。
それ以来、レナードは積極的にセレスティーヌに接近するようになった。彼は様々な口実を作っては彼女に会いに来た。
ある日の午後、二人は王宮の庭園を散策していた。レナードはセレスティーヌのために詩を詠んで聞かせた。その言葉は甘く、情熱的だった。
「君はまるで、氷の中に閉じ込められた薔薇のようだ。美しく咲き誇りながらも、その冷たさで人を寄せ付けない」
レナードはセレスティーヌの瞳を覗き込みながら言った。
「まあ、殿下ったら。お上手ですこと」
セレスティーヌは平静を装ったが、内心ではドキリとしていた。彼の言葉が、自分の心の奥底にある何かを言い当てているような気がしたからだ。
「私は本心しか言いません。君のような女性が、兄上の隣で人形のように微笑んでいるのは見ていて忍びない」
レナードの言葉は核心を突いていた。セレスティーヌは息を呑んだ。
「何を仰いますか。私は殿下の婚約者として、当然のことをしているだけですわ」
「本当にそうでしょうか。君の瞳はもっと自由な世界を求めているように見えますが」
レナードはセレスティーヌの手を取り、熱く見つめた。その手は温かく、力強かった。
セレスティーヌの心臓は高鳴った。彼女は自分がレナードに惹かれていることを自覚した。彼はアレクシスにはない魅力を持っていた。情熱的で、ロマンチックで、そして自分を女性として扱ってくれる。
もし自分が公爵令嬢でなければ。もしアレクシスの婚約者でなければ。彼と恋に落ちていたかもしれない。
だがそれは許されないことだ。彼女は未来の王妃であり、その立場を捨てることはできない。
「殿下、お戯れが過ぎます。私はアレクシス殿下の婚約者です」
セレスティーヌは毅然とした態度でそう言うと、レナードの手を振り払った。
「おっと、失礼。つい君があまりにも魅力的だったものだから」
レナードは悪びれる様子もなく笑った。
「でも覚えておいてください。もし君が兄上に愛想を尽かしたらいつでも私のところに来るといい。私はいつでも君を歓迎しますよ」
レナードはそう言うと、去っていった。
セレスティーヌはしばらくその場に立ち尽くしていた。彼女の手にはまだレナードの温もりが残っているような気がした。彼女は自分の感情の乱れに戸惑っていた。
一方、アレクシスもまた、予期せぬ出会いを経験していた。
彼は王宮で催された夜会で、イザベラと出会った。彼女は深紅のドレスを身にまとい、艶やかな黒髪を揺らしていた。その瞳は情熱的で、一度見たら忘れられないほどの強い印象を与えた。
「アレクシス殿下。お初にお目にかかります。イザベラ・レイ・モンローと申します」
イザベラは臆することなくアレクシスに近づき、カーテシーをした。その仕草は洗練されているとは言い難いが、不思議な色気が漂っていた。
「モンロー男爵令嬢か。話は聞いているよ。最近社交界で注目されているそうだな」
アレクシスは平静を装いながら答えたが、内心では動揺していた。セレスティーヌとは正反対のタイプだ。感情的で奔放で、そして危険な香りがする。
「光栄ですわ。殿下のような素晴らしい方とお話しできるなんて夢のようです」
イザベラはアレクシスを見上げ、甘えるような視線を向けた。その瞳には明らかな誘惑の色が浮かんでいる。
「君はダンスは得意か?」
アレクシスは無意識のうちに尋ねていた。
「ええ、大好きですわ。殿下、一曲お願いできますか?」
「……ああ、いいだろう」
アレクシスはイザベラの手を取り、ダンスフロアへと向かった。彼女の体は驚くほど柔らかく、そして熱かった。セレスティーヌの冷たい手とは違う。
音楽に合わせて踊りながら、イザベラはアレクシスに囁きかけた。
「殿下は本当にお強い方ですわね。でも、その瞳の奥に孤独が見えます」
「……何を言っているんだ?」
アレクシスは驚いて彼女を見た。
「隠さなくてもわかりますわ。わたくしがその孤独を癒して差し上げたい」
イザベラはアレクシスの胸に顔を寄せた。甘い香水の香りが鼻腔をくすぐる。
アレクシスは息を呑んだ。こんなにも露骨に誘惑されたのは初めてだった。心が揺らぐ。もしこのまま彼女を受け入れたらどうなるだろうか。
だがすぐに理性が働いた。自分は王太子だ。そしてセレスティーヌという婚約者がいる。ここで間違いを犯すわけにはいかない。
「……ありがとう。だが私には癒される必要などない」
アレクシスは静かにイザベラを引き離した。
「まあ、つれない方。でもわたくしは諦めませんわ」
イザベラは唇を尖らせたが、その瞳はまだ笑っていた。彼女はアレクシスが本気で拒絶しているわけではないことを見抜いていた。
その夜以来、アレクシスとセレスティーヌの心にはそれぞれ小さな棘が刺さったままだった。彼らは普段通りに振る舞っていたが、時折、レナードやイザベラのことを思い出しては心が揺らいだ。
◇◇◇
季節は冬に移り変わり、王都は雪に覆われた。アレクシスとセレスティーヌの婚儀の日が近づいていたが、二人の関係は相変わらずドライなままだった。
セレスティーヌはレナードからのアプローチに悩まされていた。彼は相変わらず情熱的な言葉で彼女の心を揺さぶってきた。
ある雪の夜、セレスティーヌが自室のバルコニーで外を眺めていると、レナードが突然現れた。彼は庭からバルコニーによじ登ってきたようだった。
「レナード殿下! 何をなさっているのですか!」
セレスティーヌは驚いて叫んだ。
「君に会いたくて我慢できなかったんだ」
レナードは息を切らせながら言った。彼の髪には雪が積もっていた。
「無茶ですわ。誰かに見られたらどうするのですか」
「構わないさ。君のためならどんな危険も冒せる」
レナードはセレスティーヌに近づき、彼女の手を握った。その手は冷たかったが、彼の瞳は熱かった。
「セレスティーヌ、私と一緒に逃げよう。こんな窮屈な生活から抜け出して、自由に生きるんだ」
レナードは真剣な表情で言った。それは駆け落ちの誘いだった。
セレスティーヌの心は激しく揺れた。レナードの提案は魅力的だった。全てを捨てて彼と一緒になれたらどんなに幸せだろうと思った。愛のない結婚生活を送るよりも、彼と情熱的な恋に生きた方がよほど素晴らしいかもしれない。
彼女はレナードの瞳を見つめた。彼の瞳には自分への愛と情熱が溢れていた。彼女は彼に抱きしめられたいと思った。彼に愛されたいと思った。
だがその瞬間、彼女の脳裏に浮かんだのは公爵令嬢としての責務だった。王太子妃としての未来だった。もしここで彼の手を取れば、全てが水泡に帰す。ヴァロワ家の名誉は地に落ち、両親は失望するだろう。そして何より、王国全体を巻き込む大スキャンダルとなるだろう。
彼女は常識的な感性を持っていた。自分の感情よりも、立場と責任を優先しなければならないことを理解していた。
「……できませんわ」
セレスティーヌはゆっくりと首を横に振った。
「私にはそんなことはできません」
「なぜだ! 君は兄上を愛していないじゃないか!」
レナードは叫んだ。
「愛していなくても、私には責務があります。ヴァロワ家の名誉と、王国の安定がかかっているのです」
セレスティーヌは自分に言い聞かせるように言った。
「責務なんてクソくらえだ! 自分の人生を生きるべきだ!」
レナードは熱く語ったが、セレスティーヌの決意は固かった。
「申し訳ありません、レナード殿下。私はあなたとは行けません」
セレスティーヌはきっぱりと断った。彼女はレナードを愛していたかもしれないが、それ以上に自分の立場と責任を重んじていた。
「……そうか。分かったよ」
レナードは深く傷ついた表情を見せたが、それ以上無理強いはしなかった。
「君が幸せになることを祈っている。でもこれだけは覚えておいてくれ。私はいつでも君を待っている」
レナードはそう言い残して、バルコニーから降りていった。
セレスティーヌは一人残り、涙を流した。これが最善の選択だと分かっていたが、心が痛んだ。彼女は自分の手で、淡い恋心を葬り去ったのだ。
一方、アレクシスもまた、イザベラからの誘惑に晒されていた。彼女はますます大胆にアレクシスに迫ってきた。
ある日、アレクシスが執務室で一人で仕事をしていると、イザベラが突然現れた。彼女は薄着のドレスを着ており、その豊満な肉体が露わになっていた。
「殿下、まだお仕事ですか? お疲れでしょう」
イザベラは甘い声で囁きながら、アレクシスの肩に手を置いた。
「少し休憩なさいませんか? わたくしが癒して差し上げますわ」
彼女はアレクシスの首筋に唇を寄せた。アレクシスは彼女の香水の匂いに目眩を覚えた。
(だめだ、このままでは流されてしまう)
アレクシスは理性を振り絞った。彼はイザベラに惹かれている。それは間違いない。彼女はセレスティーヌにはない魅力を持っていた。情熱的で、自由で、そして危険な香り。
もし自分が王太子でなければ。彼女と情熱的な恋に落ちるのも悪くないかもしれない。
彼はイザベラの肩を抱き寄せようとした。彼女の甘い香りに包まれたい。彼女の熱い肌に触れたい。そんな欲望が込み上げてきた。
だがその瞬間、彼の頭の中にセレスティーヌの顔が浮かんだ。彼女を愛しているわけではない。だが彼女は自分の婚約者であり、未来の王妃だ。自分は彼女を裏切るわけにはいかない。
彼は王太子としての自覚を持っていた。自分の感情よりも、立場と責任を優先しなければならないことを理解していた。
「やめろ、イザベラ嬢。私は君の誘いには乗らない」
アレクシスはイザベラを突き放した。彼の声は震えていた。
「あら、どうしてですの? わたくしがお嫌いですか?」
イザベラは驚いたように目を見開いた。彼女は自分の魅力に絶対の自信を持っていた。
「君が嫌いなわけではない。だが私には婚約者がいる。彼女を裏切ることはできない」
「婚約者? セレスティーヌ様のことですか? あんな氷のような女性のどこがいいのですか?」
イザベラは嘲るように言った。
「彼女のことを悪く言うな! 彼女は私の婚約者だ」
アレクシスは怒りに声を震わせた。彼はセレスティーヌを愛してはいない。婚約破棄を自由にしていいなら迷わずにしただろう。しかしそんな事由はない。無いならば、婚約者としての責務──彼女の名誉を守る義務がある。アレクシスはそれを重々理解していた。だから怒鳴りつけたのだ。
「……分かりましたわ。私が間違っておりました。お許しください」
イザベラはしおらしく謝罪したが、その瞳には悔しさが滲んでいた。彼女はアレクシスを諦めたわけではなかったが、今は引くべき時だと判断したのだ。
イザベラが去った後、アレクシスは椅子に座り込んだ。彼は自分の額に滲む汗を拭った。彼は誘惑に打ち勝ったことに安堵したが、同時に虚しさも感じていた。彼は自分の手で、情熱的な恋の可能性を摘み取ったのだ。
こうして二人はそれぞれに訪れた誘惑を退けた。彼らは自分の感情よりも、立場と責務を優先した。それは王侯貴族として当然のことだったが、同時に残酷なことでもあった。
◇◇◇
誘惑を乗り越えた後、二人の関係は再び平穏を取り戻した。彼らは以前と同じように形式的な交流を続けた。だが二人の間には微妙な変化が生じていた。それは互いに対する信頼感のようなものだった。
ある日の茶会で、二人は顔を合わせた。いつものように形式的な会話が交わされた後、ふと沈黙が訪れた。
「最近、少し痩せたか?」
アレクシスが不意に言った。彼はセレスティーヌの顔色が優れないことに気づいていた。
「え? そうですか? 自分では気づきませんでした」
セレスティーヌは驚いて自分の頬に触れた。彼女はレナードとの別れで心身ともに疲弊していたが、それを隠していたつもりだった。
「無理をするなよ。君は私の大切な婚約者なんだから」
アレクシスは優しく微笑んだ。その笑顔は以前のような形式的なものではなく、心からのものだった。
「ありがとうございます。殿下も少しお疲れのようですね。大丈夫ですか?」
セレスティーヌもアレクシスの顔色が優れないことに気づいていた。
「ああ、少し忙しくてな。だが大丈夫だ。心配するな」
アレクシスは力強く頷いた。彼はイザベラとの一件で心身ともに疲弊していたが、それを隠していたつもりだった。
二人は顔を見合わせて、少しだけ笑った。それは以前のような乾いた笑いではなく、温かい笑みだった。
二人は互いに相手が何かを乗り越えたことを察していた。それが何であるかは分からなかったが、相手が自分と同じように苦悩し、そしてそれを克服したことを感じ取っていた。
それは奇妙な連帯感だった。愛や恋といった感情ではなく、同じ戦場を生き抜いた者同士の戦友意識のようなものだった。
「私たちは良いコンビだな」
アレクシスが言った。
「ええ、本当に。最高のパートナーですわ」
セレスティーヌが答えた。
二人は互いに信頼し合えるパートナーであることを確信していた。彼らは愛し合ってはいなかったが、互いを尊重し、支え合うことができると信じていた。
それは恋愛結婚とは違う形の絆だったかもしれない。だがそれは確かに彼らにとっての真実だった。
婚儀の前夜。アレクシスは自室のバルコニーで一人、星空を眺めていた。空には無数の星が輝いていた。
彼の心は静かだった。イザベラへの熱い思いはいつの間にか冷めていた。彼女は確かに魅力的だったが、自分とは住む世界が違う人間だった。彼女と一緒になっても、幸せにはなれなかっただろう。
彼はセレスティーヌのことを考えた。彼女を愛しているわけではない。相変わらず「微妙」な存在だ。だが彼女は自分と同じように国のために生きる覚悟を持っている。彼女となら、良きパートナーとして共に歩んでいけるだろう。
「それで十分ではないか」
アレクシスは独り言を言った。彼にとって結婚とは愛する相手と結ばれることではない。国を共に治めるパートナーを得ることなのだ。
一方、セレスティーヌもまた、自室で一人、物思いにふけっていた。彼女の手にはレナードから贈られた詩集があった。
彼女は結局、この詩集を読むことはなかった。レナードへの淡い恋心はいつの間にか消えていた。彼は確かに魅力的だったが、自分とは価値観が違う人間だった。彼と一緒になっても、幸せにはなれなかっただろう。
彼女はアレクシスのことを考えた。彼を愛しているわけではない。相変わらず「微妙」な存在だ。だが彼は自分と同じように義務を果たす覚悟を持っている。彼となら、良き理解者として共に生きていけるだろう。
「それで十分ですわ」
セレスティーヌは独り言を言った。彼女にとって結婚とは愛する相手と結ばれることではない。王妃としての役割を全うすることなのだ。
彼女は詩集をそっと閉じた。彼女の心は冬の湖のように静かだった。
◇◇◇
婚儀当日。王都は晴天に恵まれた。大聖堂には国内外から多くの人々が集まっていた。
アレクシスは純白の軍服を身にまとい、祭壇の前でセレスティーヌを待っていた。彼の表情はいつも通り冷静だったが、その瞳には未来への決意が宿っていた。
やがてパイプオルガンの荘厳な音色と共にセレスティーヌが現れた。彼女は純白のウェディングドレスを身にまとい、父親のエスコートでバージンロードを歩いてきた。
彼女の姿は息をのむほど美しかった。アレクシスは彼女を見つめながら、改めて彼女を妻として迎える決意を固めた。
セレスティーヌはアレクシスの前に立つと、静かに微笑んだ。その笑顔は決して心からのものではなかったが、彼女なりの誠意が込められていた。
式は滞りなく進んだ。二人は神の前で永遠の愛を誓った。もちろんそれは形式的なものだったが、彼らはその誓いを守り抜く覚悟を持っていた。
指輪の交換が行われ、アレクシスはセレスティーヌのベールを上げて口づけを交わした。会場は拍手と歓声に包まれた。
その様子を、会場の片隅でレナードとイザベラが見つめていた。
レナードは悲しげな表情を浮かべていたが、同時に吹っ切れたような顔もしていた。彼はセレスティーヌの幸せを心から願っていた。
イザベラは悔しそうな表情を浮かべていたが、すぐに気持ちを切り替えた。彼女は野心家であり、立ち止まることを知らなかった。彼女はすでに次のターゲットを見つけていた。
アレクシスとセレスティーヌは腕を組んで大聖堂を後にした。外には多くの国民が集まっていた。彼らは二人に祝福の言葉を投げかけた。
アレクシスとセレスティーヌは笑顔で手を振って応えた。彼らは完璧な王太子夫妻を演じていた。
馬車に乗り込むと、二人はようやく二人きりになった。
「疲れたな」
アレクシスはため息をついた。
「ええ、本当に。でも無事に終わって良かったですわ」
セレスティーヌもまた疲れた表情を見せた。
「これからが本番だ。我々は国のために尽くさなければならない」
「ええ、分かっております。微力ながらお支えいたします」
二人の会話はいつも通りだった。そこに甘い雰囲気はなかった。
アレクシスは窓の外を眺めた。王都の街並みが流れていく。彼はセレスティーヌを見た。彼女もまた窓の外を眺めていた。
正直なところ、彼女に対する感情は相変わらず「微妙」だった。愛しているわけではない。しかし嫌いでもない。
セレスティーヌもまた、アレクシスに対して同じような感情を抱いていた。彼を愛しているわけではない。しかし尊敬はしている。
彼らの関係はこれからも変わらないだろう。彼らは決して愛し合うことはないだろう。しかし彼らは良きパートナーとして、共に国を治めていくだろう。
それでいいのだ。これが彼らの選んだ道なのだから。
馬車は王宮に向かって進んでいった。二人の未来はまだ始まったばかりだった。彼らの前途には多くの困難が待ち受けているだろう。しかし彼らなら乗り越えていけるだろう。彼らは王太子と公爵令嬢なのだから。
彼らの物語は特にヤマも意味もオチもなく、ただ淡々と続いていくのだった。王国の歴史の一ページとして。彼らの感情がどうであったかなど、誰も知る由もないままに。
王宮に到着した馬車から降り立つ二人。アレクシスが手を差し伸べ、セレスティーヌがその手を取る。その一連の動作はまるで絵画のように完璧だった。
「さあ、行こうか。我が妃よ」
「はい、殿下」
二人は並んで歩き出した。その背中を見送りながら、侍従の一人が呟いた。
「本当にお似合いのお二人だ」
その言葉に周囲の者たちも深く頷いた。彼らの目にはアレクシスとセレスティーヌが理想的な夫婦として映っていた。
しかし、当の二人はそんな周囲の評価など気にも留めていなかった。彼らの頭の中は今夜開かれる晩餐会のスケジュールでいっぱいだった。
彼らの思考は常に実務的であり、感情が入り込む余地はなかった。
晩餐会が終わり、アレクシスとセレスティーヌは寝室へと向かった。広大なベッドルームには二人のためのベッドが用意されていた。
二人は無言のままベッドに入った。緊張感が漂っていた。彼らはこれまで一度も肉体関係を持ったことはなかった。
「セレスティーヌ」
アレクシスが口を開いた。
「はい、殿下」
「我々には世継ぎが必要だ。それは分かっているな?」
「ええ、承知しております」
二人の会話はひどく事務的だった。そこにロマンチックな雰囲気は微塵もなかった。
アレクシスはセレスティーヌに手を伸ばした。セレスティーヌは目を閉じてそれを受け入れた。
彼らの初夜は義務感と責任感の中で淡々と過ぎていった。そこに愛はなかった。しかし彼らはそれで満足だった。
数ヶ月後、セレスティーヌの懐妊が発表された。王国中が喜びに包まれた。アレクシスとセレスティーヌは安堵した。彼らは自分たちの義務を果たしたのだ。
だが子供が生まれても二人の関係は変わらなかった。彼らは子供を愛していたが、お互いを愛することはなかった。
彼らは良き父と母であり、良き国王と王妃だった。しかし彼らは決して情熱的な夫と妻ではなかった。
彼らの人生はまるで精密に作られた機械のように正確に時を刻んでいった。感情の起伏はなく、ただ淡々と役割を全うする日々が続く。
そうして──
◇◇◇
幾星霜の時が流れ、アストラリア王国はかつてないほどの平和と繁栄を享受していた。その礎を築いたのは誰あろう国王アレクシスと王妃セレスティーヌであった。彼らは理想的な君主として国民から深く敬愛され、その治世は歴史に燦然と輝くものと称えられた。
しかし、永遠に続くものなど何一つない。
玉座を息子に譲り、王宮の片隅で静かな余生を送っていた二人にも、ついに終わりの時が訪れようとしていた。共に九十歳を超え、かつての壮健な肉体は見る影もなく衰え、今や自らの足で立つことさえままならない。侍医からはいつその時が来てもおかしくはないと告げられていた。
そんなある夜、二人は同じ寝台で横になっていた。それは彼らの最後の我儘だった。長い結婚生活の中で、彼らが一つの寝台を共にするのは世継ぎをもうけるための数夜を除けば、これが初めてのことだった。しわくちゃになった手を、お互いにかたく握り合っている。
「君は私の期待通りの女性だった。いや、期待以上だったと言うべきか」
掠れた声で、アレクシスが静かに語り始めた。
「君を妻に迎えて、私は心から良かったと思っている。最高のパートナーだった。……ただ、君にずっと言えなかったことがあるんだ」
セレスティーヌは穏やかな表情で、夫の言葉に耳を傾けていた。そのサファイアの瞳は老いてなお、理知的な光を失っていない。
「あなたもまた、わたくしの期待通りの方でしたわ。いいえ、あなたほど立派な国王はいらっしゃらなかったでしょう。誇りに思います。……でも、わたくしも、あなたにずっと言っていないことがあるのです」
「それは何だい?」
アレクシスの問いにセレスティーヌは悪戯っぽく微笑んだ。まるで遠い昔の少女に戻ったかのように。
「あなたから先にどうぞ。わたくしは淑女ですから」
「……そうか。相変わらず君には敵わないな」
アレクシスは苦笑し、天井を見つめながら、ゆっくりと告白を始めた。
「私はね、セレスティーヌ。君を愛してはいなかった」
セレスティーヌは驚いた様子も見せず、ただ静かに夫の顔を見つめている。
「もちろん、君を深く尊敬していた。信頼もしていた。国を治める上で、君以上のパートナーは考えられなかった。だが、男女の愛というものはついぞ感じることができなかったのだ。……若い頃、一度だけ心が揺らいだ女性がいた。情熱的で、奔放で、私とは全く違う世界の人間だった。だが、私は君を裏切らなかった。王太子としての、夫としての責務を、私は最後まで守り抜いたつもりだ」
長い告白を終え、アレクシスは息をついた。セレスティーヌは握っていた夫の手にそっと力を込める。
「わたくしもですわ、アレクシス」
彼女は静かにそしてはっきりと答えた。
「わたくしも、あなたのことを愛してはいませんでした」
アレクシスもまた動揺した様子はない。まるでそれを知っていたかのように泰然としている。
「……知っていましたわ。あなたがわたくしを愛していないことも。イザベラ嬢のことでしょう? あなたがどれほど苦悩していたか、わたくしには分かっていました」
「君は……」
「わたくしにもいたのですよ。心がときめいた方が。あなたの弟君のレナード殿下。自由で、情熱的で……もし違う立場で出会っていたなら、と何度も思いました。でも、わたくしはヴァロワ家の娘であり、あなたの妃でした。その誇りが、わたくしを支えてくれたのです」
二人の間に長い沈黙が流れた。それは気まずいものではなく、全てを理解し合った者同士の、穏やかで温かい沈黙だった。やがて、どちらからともなく、くつくつと笑い声が漏れ始めた。
「ははは……そうか、君もか」
「ええ、わたくしもですわ。お互い様、でしたのね」
皺だらけの顔で、二人は子供のように笑い合った。涙が滲む。それは悲しみの涙ではなく、長年の重荷を下ろした安堵の涙だった。
「なあ、セレスティーヌ」
ひとしきり笑った後、アレクシスが言った。
「もし、もしもだ。私たちが王太子と公爵令嬢ではなく、もっと普通の、責任のない立場で出会っていたら……どうなっていただろうな」
「そうですね……」
セレスティーヌはうっとりと目を細めた。
「きっと、とても良い友人になれたでしょうね。あなたとは歴史や政治の話を、夜が明けるまで語り明かせそうだわ」
「ああ、違いない。君の知性は誰よりも刺激的だったからな。……友人、か。それも、良かったかもしれないな」
愛ではなかった。しかし、そこには誰よりも深い理解と尊敬があった。戦友と呼ぶにはあまりに穏やかで、パートナーと呼ぶにはあまりに個人的な、不思議な絆。
「ねえ、アレクシス」
セレスティーヌが、ほとんど吐息のような声で囁いた。
「もし、来世というものがあるのなら……」
「ああ」
アレクシスは妻が何を言いたいのかを察した。
「来世では友として会おう。何のしがらみもない、ただの友人として。間違っても婚約者になどならない様にしよう」
「ええ、約束ですわ。きっと見つけ出してくださいね。来世はもっと心ときめく結婚がしたいですわね……」
「ふふ、君も言うじゃないか。ああ、必ず見つけ出すとも。君のその美しいサファイアの瞳が目印だ」
二人は微笑み合い、そして静かに目を閉じた。握り合った手は最後まで離れることはなかった。まるで来世で互いを見失わないための、固い約束のように。
翌朝。
いつもの時間になっても国王夫妻が起きてこないことを不審に思った老侍従が、静かに寝室の扉を開けた。
目に飛び込んできたのは安らかな寝顔で寄り添う二人の姿だった。まるで同じ夢を見ているかのように穏やかな表情で、固く手を握り合ったまま、二人は共に旅立っていた。
その日のアストラリア王国は建国以来、最も美しい朝焼けを迎えたという。
(了)




