第8話 やっと自覚した第一皇子
レジェスの部屋は皇宮一階の突きあたりにあった。エスメはその右隣――北側の部屋に案内されたのだが、護衛が待機する前室もなく、ドアをあけるとすぐに居間があった。ドアには鍵もない。
(なんだか不安だわ)
唯一、部屋から裏庭へ降りられることには感動した。いままでは三階に住んでおり、すぐ近くの花といえば花瓶に咲く切り花しかなかった。
しかし、レジェスもリサベルも浮かない顔をしている。
「一階は使用人たちも通るし、庭は警備兵の巡回もある。あまり外には出ないほうがいい」
「あら、リサだってこの部屋の向かいに住んでいるのでしょう? ……あ、お義姉様と呼ぶべきかしら?」
結婚した実感などまったくないが、身分を知り、年上であるリサベルを呼び捨てにするのも憚られる。ただ少し、『おねえさま』という響きに実姉を思い出して心が引きつれた。
「いいえ、妃殿下。いままでどおりリサとお呼びください」
「どうして?」
「わたしが、この皇宮で生きていくために必要なことなのです」
「そう……」
リサベルが守っている境界線を超える気はない。帝国内の誰にも気を許さないことは、エスメにとっても復讐を果たすうえで必要なことだ。
会話の途切れた部屋に、レジェスの気まずげな声が落ちる。
「その……王女、必要なものがあれば言ってくれ。バルトロメほどの財はないが、できるかぎり用意する」
「……とくに何も」
そこへリサベルがポンと手のひらを合わせた。
「レジェス、ホセを呼んできて。シャベルも持ってきてね」
「あぁ……、またアレをやるのか」
「安心は何よりの宝物よ。お金や宝石よりもね」
「そうだな」
リサベルは、テラスに置かれたテーブルへとエスメを誘い、お茶を入れてくれた。
何をするのかは「見ていればわかる」とのことだったので、庭に大穴を掘る男ふたりを呆然と眺めた。
大穴はリサベルの部屋からぐるりとレジェスの部屋をまわり、エスメの部屋の前へと続いているらしい。
「リサ、見てもよくわからないわ?」
「これは、お城を囲む堀のようなものです」
「堀……。これではわたくしも外へ出られないわ」
「ご心配なく。妃殿下しか渡れない橋をご用意します」
エスメの体重がかかっても壊れないが、成人男性が乗れば折れてしまうような木板が架けられた。作業を見ながら、エスメは“王の書”をひらく。
「ねぇ、リサ。粒が大きい砂利はあるかしら? 敷き詰めておくと足音を知らせてくれるそうよ」
「まぁ! それはよい考えですわね。すぐに持って来させましょう」
ほかにもクローゼットに内側から閂をかけられるようにしたり、ドアをあけると鈴が鳴るようにして、エスメは仮初めの安心を得た。
(音がしたらクローゼットに逃げ込めばいいわね)
レジェスの隣の部屋といっても、妃を迎えるための部屋ではないから、完全に分かれている。この部屋はエスメだけのお城だ。
「……あら? これだとレジェスの寝首を掻けないわ」
「「…………」」
声に出ていたらしい。三人からあきれたような視線を受けてしまい、咳払いでごまかそうとしたところへ、ホセが手を打った。
「オレ、閃いちゃいました!! クローゼットの壁に穴をあけましょう! 隣は殿下の寝室だから、寝首を掻けますよ!」
「おい、やめろ」
「まぁ、ホセ。天才だわ! やってちょうだい!!」
「お任せください! え~、ノコギリとハンマーと……」
エスメとホセはさっそく寝室へ向かい、止めようとしたレジェスは寝室の入口でリサベルに捕まった。
「なんだ? 姉上、あれを止めないと」
「レジェス、命を差し出すなんて……本気なの?」
「……ああ、これしか償う方法がない」
「本気で愛しているのかと聞いているのよ」
「は……、あ、愛……?」
的外れだとレジェスは首を振った。
「そんなんじゃ――」
「――よく考えてみて。戦争に赴いて何人殺したの? その家族全員に、あなたは命を差し出したりしないでしょう?」
「…………、っ⁉」
レジェスは頭をはたかれたように体を揺らしたのち、硬直した。リサベルの言うとおり、こんな気持ちになったのはこれが初めてだった。
――我が身すべてを差し出してもいいと思った。守るべき姉のことも、自分の立場も忘れて。
「レジェス、どんな大義名分があろうとも、戦争はただの殺し合いよ。仕掛けたほうも受けて立ったほうも、承知のうえで戦うの。その責は、あなただけが負うものじゃないわ」
「……」
――そうだ。自分だってそう割り切って戦っていたはずだ。それでもなお、燃え盛る炎が身を焦がすような、この気持ちは何だ?
「もう一度聞くわ。彼女を愛しているのね?」
レジェスはちらりと視線をエスメに向け、口もとを覆いながらゆっくりと顔を伏せた。信じられないと言いたげに瞳を揺らしながらも、耳まで真っ赤だった。
やっと自覚を持った弟の背を、リサベルが押す。
「なら、あなたがやるべきことは、命を差し出すことじゃないわ。彼女を幸せにするのよ。それは生きていなければできないことなの」
「だが、俺は――」
「「――せ~の!」」
ドォンという鈍い音がして、ホセとエスメが勝鬨をあげた。
「「ヤッタ――!!」」
「ぁあ⁉ ホセ、お前……マジであけやがって」
「あれれ? オレだけが怒られる感じ? オレは妃殿下のご命令に従っただけなのにぃ~……妃殿下、なんとか言って……妃殿下?」
忽然とエスメの姿が消え、レジェスは「まさか」と穴をのぞき見る。ベッドの手前に座り込むエスメの後ろ姿が見えた。
「王女! そこを動くなよ!!」
壁にあいた穴はエスメがなんとか通れるくらいの大きさ。レジェスには無理だ。慌てて自室へ走る。ひとつだけ、見られたくないものがあった。
一方、エスメは呆然とベッドの上を見つめていた。もっと正確に言えば、ベッドの上に寝転ぶ、一糸まとわぬ女性に目を奪われていた。申し訳程度に掛布がかかっているが、下着すらつけていないとわかる。
壁をぶち破った音にも動じておらず、肉づきのよい小麦色の足が、我が物顔でベッドを蹂躙する。枕もとから流れ落ちる亜麻色の髪を見て、夢心地に聞いたレジェスの言葉を思い出した。
『この髪色、彼女に似ているでしょう?』
明るめの亜麻色は、エスメのクリームブロンドに似ていなくもない。エスメに彼女の面影を見たということか。そしてここはレジェスの寝室。
(彼女はレジェスの……大切な人? そういう関係なのね?)
突如、バンッと左手のドアがひらき、座ったままのエスメを確認したレジェスが、ベッドを二度見した。
「あ⁉ しまった……忘れてた」
レジェスの声に女性が身を起こす。亜麻色の髪が豊かな胸を覆った。
「んん……、おはようレジェス。ごめんなさいね。昨日はあまりにも激しすぎたから」
「いいから服を着てくれ」
脱ぎ捨ててあった服を放り投げ、レジェスが後ろを向いた隙に、エスメはするすると壁の向こう側へ戻った。
「あっ⁉ ま、待て、王女! 誤解――」
クローゼットの扉を閉めれば、レジェスの声も聞こえなくなった。
寝室のドアからホセが顔をのぞかせる。
「あ、お帰りなさい! どうでした? レジェス殿下のお部屋は」
「……不潔だわ」
「え? あ~、メイドが掃除をさぼったかな? 二年も留守にしてたから」
「レジェスが来ても部屋に入れないで」
「エッ⁉ そんなにですか? あっ、もしかしてレディ・エリザベスが……」
ホセの口から女性の名前が飛び出し、エスメは寝室のドアもバタンと閉めた。いまは何も聞きたくない。レジェスに妃はいないはずだが、恋人がいてもおかしくはない。
(これも復讐の一環よ。好きでもない女と結婚させられて、いい気味だわ)
胸がチリチリと痛むのは、他人の部屋に穴をあけた罪悪感のせいだ。