第3話 本当に死神皇子なの?
「ハァ、ひとりで着替えることもできないなんて。情けないわ」
レジェスの姉が用意したというドレスや下着を前に唖然としつつも、“王の書”の知識を頼りにがんばった。実際に役に立ったのは、王妃である母の記録。
若かりしころは城を抜け出して城下町を闊歩していたらしく、エスメが知る母からは想像もつかなかった。
「お母様……」
もう何度目のホームシックだろうか。母は、父が死を覚悟して向かうことをひどく嘆いていた。エスメにはそんな素振りをまったく見せなかったが、魔法書に書かれた母の心情は絶望一色。エスメは最後まで目を通せないでいる。
『エスメを帝国にやればいいのに』なんて記述が出てきたらと思うと、こわかった。
帝国へ向かう道中、レジェス皇子もホセも献身的に世話を焼いてくれ、エスメがどんなにもたついても文句ひとつ寄越さない。
とくに、ホセの明るい言動はエスメの気を緩ませるのに十分だった。クルクルの茶髪に愛敬のある顔立ち。いつもニコニコしていておしゃべり上手。飼いならされた犬のようだった。
「見てください王女様! 野イチゴがこんなに! オレが一番ですよね?」
胸を張ってカゴを差し出すホセの後ろから、レジェスがニュッとあらわれた。
「俺は質を重視している。こっちのほうが甘い」
凜々しい顔立ちというのは、表情が乏しいと不機嫌にも見える。しかも狼のような鋭い目つきのせいで、レジェスが近づくと体が勝手に緊張してしまう。そんなエスメに気づいて、すぐに離れて行くまでが最近の流れだった。
そのたびに心が軋むけれど、これでいいと思っている。レジェスに気を許してはならないし、彼に笑顔を向けられでもしたら、心がかき乱されそうでこわかった。
(もう十分油断させたわ。隙を見て逃げなくちゃ)
そうは思えど、森の中では逃げても生きていけない。どこかの街へ寄ったときがチャンスなのだが、そんな機会はなかなかめぐって来ない。彼らは森の中で食料から水まで調達してしまうのだから。
“王の書”によれば、兵士とはそのように訓練されているらしい。しかも細い道ばかり通るので、ほかの馬車とすれ違うことすらなかった。すでに国境は越え、リブレリアがどんどん遠ざかっていく。
(もう、この方法しかないわ)
馬車の中からジットリとした目でレジェスを睨めば、首をかしげてくる。ニコリともしない男だが、気遣いのできる男ではある。
いまもすぐに馬車を止めさせ、「疲れたのか?」と聞いてきた。彼の優しさにつけ込む作戦だ。
「……わたくし、街に寄ってみたいわ」
大抵のことには頷いてくれるレジェスだが、さすがに渋い顔を見せた。
「この辺りは、王女がお気に召すような街はない」
「そんなの、行ってみなければわからないでしょう? わたくし、お城の外に出たことがないの。お願い!」
手を組んで上目遣いに見上げるとレジェスはのけぞり、馬から落ちそうになった。見たことのない反応だ。エスメがこのようにお願いをすれば、前のめりになって叶えてくれる人たちしか知らない。
御者台で話を聞いていたホセは乗ってくれた。
「もうしばらく行けば、スズラン祭をやってる村がありますよ! 見ていきますか?」
「まぁ! スズランのお祭りがあるの? 見てみたいわ」
逃げるという作戦が一瞬頭から飛んでしまったが、キラキラと輝くエメラルドの瞳がレジェスの心を動かしたようだ。
「笑顔でいられる人生か……」
「はい?」
「なんでもない。少し寄るだけだぞ?」
「ええ!」
エスメは胸に手をあて、脳裏に浮かんだ“王の書”から地図や情報を検索し、スズラン祭があるというブランカ村を調べた。村おこしのために作られた祭で、五十年の歴史がある。年々来客数が増えており、とても賑わうらしい。
(これはチャンスだわ! はぐれたフリをして逃げるのよ!)
――でも逃げたら、レジェスは今度こそ容赦しないかもしれない。
思わず目をやったのは、レジェスに背負われた赤い魔剣だ。光を受けると血が滴っているように見えておそろしい。そうレジェスに告げると、布で覆ってくれるようになった。
(つ、捕まらなければ大丈夫! わたくしには“王の書”が、お父様やお祖父様、歴代の王の知恵がついているのよ!)
逃亡作戦を練りながらも思い出すのは、姉が読み聞かせてくれた冒険物語だ。いま自分は冒険の最中にいるのだと、そう思えば恐怖も幾分かは和らいだ。
太陽が真上にのぼったころ、ブランカ村に着いた。たくさんの屋台がある大通りを避け、馬車は裏通りの馬宿に止まった。ホセは残って馬の世話をするらしい。レジェスがホセに魔剣を預けたのを見てホッとした。やっとエスメに運がまわってきたようだ。
「では王女様、レジェス殿下の手を放さないでくださいね!」
「てっ、手を? どど、どうして⁉ わたくしもう子どもではないわ!」
「はぐれたら大変でしょう? それにレジェス殿下のおっかない顔は、人除けにもなりますからね」
帽子を被せられたのち、強引に手をつながされ、エスメの運は早くも燃え尽きた。
おそるおそるレジェスを見上げると、エスメの手を見て思案顔になっている。
「あの、わたくしの手に何か?」
「力の入れ具合がわからない。これは痛くないか?」
「……平気ですわ」
手を触れられただけでエスメの手も顔も熱を持ったというのに、レジェスはまったく動じない。なんだか負けたような気がして握る力を強めてやっても、首をかしげただけ。
(わたくし、女性として見られていないのかしら……ハッ⁉ 何を考えているの⁉ いまは逃げることだけを考えるのよ!!)
この力加減ならすぐに手を引き抜けそうだ。大丈夫、まだ運に見捨てられてはいない。まずは油断させるためにも、祭を楽しんで見せなければ。
そんな意気込みはわずか数メートル歩いただけで吹き飛んだ。
「まぁ! あの丸いものは何?」
「魚のすり身を丸めて揚げたものだな」
「あの棒みたいなものは?」
「揚げ菓子だ。ホットチョコレートに浸して食べるとうまい」
屋台を次々とまわり、スズランもそっちのけで舌鼓を打った。食べるのに忙しく、つないでいた手はとうに放されている。
ふいに視線を感じて見上げれば、目を細めたレジェスがわずかに微笑んでいた。
優しげな表情はエスメの心を溶かし、鼓動がどんどん早く、大きくなっていく。よくない。とても危険だ。いますぐ目をそらさなければ。そう思えば思うほど、体は言うことを聞いてくれなかった。
「どうした? まだ食べるか?」
「い……いいえ、もうお腹いっぱいだわ」
やっと目をそらせたと思ったら、今度は足が動かない。次々に疑問が湧いてくるのだ。無愛想だが悪い人ではない。彼が本当に兄を殺したのだろうか。死神と呼ばれた男なのだろうか。
「そろそろパレードが始まる。手を」
「……」
「王……エスメ?」
いつもは『王女』としか呼ばれないが、人ごみの中にいるからだろう。名を呼ばれて浮き立ったエスメの心は、疑問を口にのぼらせてしまった。
「本当に、あなたが死神皇子なの?」