第25話 もうこの世にいない人
皇族用通路から程なくして、エスメは右手の廊下に黒髪の男を見つけた。フラフラとした足取りで朝廷宮の中枢へ向かっている。
「見つけた……バルトロメ!」
体力のないエスメは、息を切らせながらも懸命に走る。その後ろから、まったく呼吸の乱れていないリサベルがついて来た。
「エスメ王女、バルトロメに会ってどうするおつもりですか?」
「ハァ……ハァ、レジェスに……自害を、させないよう、頼むのよ」
リサベルは唖然とした。すでにレジェスが訂正しているものと思っていた。血の契約は解除されたのだと。この様子では想いすら伝えていないだろう。困った弟だ。
「血の契約はもう――」
言いかけたときにはエスメの姿はなく、右手にある玉座の間へ入ったあとだった。肩で息をするエスメを、玉座に座ったバルトロメが睥睨する。
「やっとぼくの時代がやって来た。エスメ、お前をぼくの……余の妃にしてやろう」
「ハァ……バカを、言わないで。わたくしは、レジェスの妻よ!」
大きく深呼吸をして、エスメは姿勢を正した。
「バルトロメ皇子、レジェスを操ることは許さないわ」
「……許さない? 命令できる立場だと思ってんの?」
「ええ。あなたはわたくしに命乞いをするべきだわ」
「はぁ?」
玉座から立ち上がったバルトロメが階段を下りてくる。
リサベルが走り寄ろうとしたのを、片手で制した。
「リサ、離れていて」
その意味に気づいたリサベルは大人しく下がる。
揚々と近づいたバルトロメが、エスメの顎に手をかけた。
「命乞いするのは、お前のほうだろう?」
愉悦を堪えきれないといった顔でエスメを眺め、小さく形のよい唇に目を落とした。エスメはポケットから取り出した瓶の蓋をあけ、バルトロメの頭上でひっくり返す。途端にオレンジの香りが広がった。
「うえっ、ぺっ……ぺっ、何をかけた⁉」
「倉庫に眠っていた精油ですわ」
「精油? ……まさか、父上たちに火をつけたのは……」
やっと気づいたのか。残念ながら、エスメの奮闘は見られていなかったようだ。
「だが、リブレリア人は魔法など使えないだろう⁉ どうやって火をつけたんだ⁉」
「原始的な方法ですわ」
エスメはベルトのバックルから鋼鉄リングを取り外し、黒曜石の指輪と一緒に掲げて見せた。ところが、火打ち石など使ったことのないバルトロメは、目を白黒させるだけ。
まぁ、エスメも同じで、“王の書”から教授されるまで知らなかったわけだが。
「わたくしが火花を落とせば、あなたは炎に包まれます。命乞い、しなくていいのですか?」
「ハッ、そんなもので火がつくはずがない!」
「では試してみましょう」
エスメは容赦なく鋼鉄に指輪を擦りつけた。この男と約束を交わしたとて、守られるわけがない。命令できない状態にするのが一番だ。
火花はバルトロメの胸もとに落ち、そこから上に向かって火が伸びていく。
「ひ、ぎゃああぁぁ――⁉ み、水っ!!」
踊りながらバルトロメが玉座の間を出て行く。
バケツの水が届くのに時間がかかったことを考えれば、水場は遠いだろう。
「エスメ王女!! ドレスに火がっ!!」
エスメにも精油が少しかかっていたようだ。慌てるリサベルを落ち着かせるように手をあげ、その手で顔を覆いつつ、床にうつ伏せた。燃えた部分を床に擦りつけるようにして横に転がっていく。スカートの火は燃え広がることなく鎮火した。
「火がついても、まずは落ち着いて対処することが肝心よ」
「はぁ……」
リサベルはドッと疲れたように肩を落とした――そのとき、扉からひとりの男が飛び込んで来た。
「――エスメ!!」
フードを目深にかぶっているが、この声を忘れるわけがない。
けれど、もうこの世にいないはずの人だ。
「お……お兄様?」
「エスメ! よかった。第二皇子が火だるまになって出て来たから、ここにいるんじゃないかと思って」
「お兄様……うそ、……本当に?」
エスメの兄アンドレイはフードを下ろし、バツの悪そうな顔を見せた。
「ごめんね、エスメ。実は――」
レジェスの魔剣がアンドレイの脇腹を貫いたとき、アンドレイから切り離された魔法書を見て、レジェスは剣を抑え込んだ。
レジェスに担がれ、アンドレイは国境から一番近い教会に運び込まれた。一時的に死を装うため城へは帰れないが、教会は中立不可侵であるから、帝国軍が検めることもない。帝国軍が引くまでの辛抱だ。
とはいえ脇腹の傷は深く、長いあいだ生死の境を彷徨った。なんとか生還し、動けるようになるまで半年以上かかった。そして剣が振れるようになったころ、ホセがあらわれ、レジェスからの手紙を渡された。
『エスメ王女を国へ帰したい』
アンドレイはたまらず、ホセに無理を言って帝国まで迎えに来たのだ。
「僕は死ぬのがこわくて、魔法書を差し出したんだ。軽蔑されても仕方ないよ」
「いいえ……いいえ、お兄様! 生きていてくださり、ありがとうございます」
ぼろぼろと涙をこぼすエスメにもらい泣きをしたのは、アンドレイだけではなかった。少し離れた場所でリサベルも小さく鼻を鳴らす。
「エスメ、あちらの女性は?」
「ぐすっ、第一皇女、リサベル殿下ですわ」
「っ……」
「……お兄様?」
アンドレイは気まずげに頭をかきながら、リサベルに近づいた。
「こうしてお会いするのは初めてですね。リサベル皇女」
リサベルも、赤くなった目を伏せて淑女の礼をとった。初対面の空気とは思えない。ロマンスが始まるでもなく、ひたすら通夜のような無言が続いた。
「あの、お兄様とリサは初対面なのですよね?」
「そうなんだが……昔、手紙をもらったことがあるんだ」
「まぁ! どうして教えてくださらなかったの?」
復讐することで頭がいっぱいだったエスメは、兄の書を隅まで読んではいない。自発的に読む、または問わなければ知らない知識が、“王の書”にはたくさんある。
「まだエスメは幼かったから……」
アンドレイが十五歳のとき、帝国から第一皇女との結婚を持ちかけられたという。三歳も年上の女性に興味が持てず、かといって国のことを考えれば無下にもできない。
そんな折、リサベル本人から手紙が届いた。
『皇帝はあなたがたの魔法書に興味を示しております。わたくしでは力及ばず、リブレリアから断っていただけないでしょうか?』
これによりアンドレイは破談を決意し、父と相談してエスメを城に軟禁した。
「不自由な思いをさせてすまなかった。皇帝がお前の美しさを知れば、必ず『寄越せ』と言ってくるのは目に見えていたから。それでも事は起こってしまったが」
「そうだったのですね」
言われてみれば、九歳のころから急に過保護になった。十歳になれば子どもたちが集うお茶会に参加するのが通例だが、それすら出席させてもらえなかった。
(すべて、わたくしを守るためだったのね)
アンドレイはリサベルにも深く腰を折った。
「リサベル皇女には感謝しております。ご忠告を活かせなかったのは不徳の致すところ」
「いえ、こちらにも事情があったのです。弟をひとりにしたくなかったものですから」
「弟……そうだった! レジェス皇子が何者かに刺され、いま治療室に」
「「なんですって⁉」」
リサベルが慌てるのはわかる。しかし、エスメまで取り乱したことに、アンドレイはおどろきを隠せなかった。
治療室をノックするとホセが顔を出し、レジェスのベッドへ案内してくれた。
眠るレジェスの顔は土気色で、体が硬直しているように見える。拳が強く握られたままだ。
医師たちは慌ただしく動き、薬瓶をたくさん並べて口論している。
「この辺りで手に入る毒といえばジキタリスでしょう」
「いやしかし、この量で即効性はないはずだ」
「ほかの毒と混ぜてあるのかもしれない。慎重に解毒しなければ」
『毒』という言葉にエスメは思わず、レジェスの拳に手を重ねた。
「レジェス、約束を守って。わたくしより先に逝かないで」
「エスメ? ……まさか、彼を愛しているのか?」




