第18話 死ぬことは許さない
風もないのに揺らめく蝋燭に照らされ、エスメは自分の両手を呆然と見つめた。胸のうちに灯った火に気づいてはいたけれど、吹けば消える程度のもの。決して強い感情ではなかったはずだ。
「……違う。……愛してなど」
愛には遠く及ばない。ただ見た目が好みであっただけ。目の保養ぐらいにしか思っていない。
上辺だけの興味であり、彼の魂を愛しているなんて、そんなの――
「――ありえないわ」
「王女……」
「違うの! 何かの間違いよ。あなたを愛してなどいないわ!」
「エスメ」
名を呼ばれてエスメは喉を詰まらせた。レジェスがどんな顔をしているのか、おそろしくて目を向けられない。
手に残るわずかな水滴を信じられない気持ちで眺めていると、ペーパーナイフの柄が差し出された。
「リブレリア王の書は、王女が復讐を果たしたあとに、手に渡るよう考えていたんだ。まだ見せるべきではなかったのに、迂闊だった」
「……どうして?」
ペーパーナイフを受け取り、エスメは視線をゆっくりと上げる。
レジェスは考えの読めない表情で父の書を拾い上げた。
「王は復讐を望んでいなかったようだが、それは先立つ者の考えだ。残された者が抱く感情は、簡単には払拭できない」
誰かを思い浮かべたかのように、レジェスの瞳が昏く凪いだ。
「レジェスも、復讐したいと思ってる?」
リサベルが言っていた『あの女』とは、おそらく皇后のことだろう。レジェスにとっても母親の仇だ。
凪いだ瞳がしばらく虚空を見つめたのち、レジェスは無表情に答えた。
「わからない」
「え……?」
「昔は必ず復讐してやると思っていたが……、戦争に出るようになってから、わからなくなった。……俺はきっと、人を殺しすぎたんだと思う」
静まり返った部屋が、シンと鼓膜を冷やしていく。
その沈黙を破ったレジェスの声は、一転して柔らかく暖かみがあった。
「許さなくていい。俺の命は王女のものだ」
言いながらレジェスは、おもむろにシャツを脱いだ。
「なっ、何を」
「心臓は骨に守られているから、ナイフは横にして、胸の……この辺りを突けばいい」
「ひっ⁉ そ、そんな、殺したら苦しめられないでしょう⁉」
「心臓を刺してもすぐには死なない。苦しむ時間はある。とくに王女の力だと深くは刺さらないだろうから……」
とうとう堪えきれなくなり、エスメはペーパーナイフを放り投げた。
「嫌っ!! どうしてあなたもお父様も、簡単に命を投げ出すのよ⁉ どうしてわたくしを置いて逝こうとするの⁉」
「王女……?」
「そんなに死にたいなら……、死ねなくしてやるわ!」
エスメは再び魔剣を引きずり寄せ、宝珠を押さえながら柄をまわす。柄頭にチロリと針が見えるも、硬くて最後までまわらない。
「王女⁉ 何をするつもりだ⁉」
「契約をするの! 今度はわたくしがあなたを縛るのよ!」
「ま、待て! 契約には血だけでなく魔力も持って行かれる。リブレリア人は魔法書に魔力を使うと聞いたぞ? 倒れるに決まってる!」
「復讐のためなら、構わないわ!」
魔剣はたやすくレジェスに奪い取られ、エスメはギリギリと歯噛みした。
「命は差し出すくせに、わたくしと契約はできないって言うの⁉」
「そうじゃない。血の契約などしなくても、約束は守る。俺に何をさせたいんだ?」
少し冷静になったエスメは、人差し指を立てる。
「まず、わたくしより先に死なないで」
「ん? ああ、自決はしない。俺を殺していいのは王女だけだ」
「そうよ、戦死も病死も許さないわ」
「……がんばってはみるが、それは血の契約を結んでいても不確かだぞ」
「約束、守れないの?」
「………………、マモリマス」
よろしい、と大きく頷いたエスメは、二本目の指を立てようとして動きを止めた。その手が下がっていく。
「わたくしが復讐を遂げるには、やはり、血の契約であなたの行動を縛らないといけないわ」
「……俺が、言うことを聞かない可能性があるのか?」
「ええ。だって……、肉親を見殺しにさせるんだもの」
肉親という言葉にレジェスは喉を鳴らした。
目の前でリサベルが殺されるのを黙って見てはいられないだろう。
「王女、俺の命だけではダメだろうか?」
「言ったでしょ。死をおそれていない者を殺しても復讐にならないの。あなたは生きて、わたくしと同じ苦しみを味わうのよ」
たしかにそれは、レジェスにとって最大の復讐となる。
「王女……頼む……」
姉上だけは、と言いかけてレジェスは言葉をグッと飲み込む。エスメの大切な人を奪ったのはレジェスだ。命乞いをする資格はない。
エスメは冷たく一瞥して、リブレリア王の書を手に、壁穴から自室へと戻って行った。
***
早朝、レジェスは姉の部屋へ押しかけ、エスメの復讐について話した。
「――姉上、どうか逃げてほしい」
「レジェス」
「やはり俺は耐えられない。自分の犯した罪を姉上の命で償うなんて」
「レジェス、少しはわたしの気持ちをわかってくれたかしら?」
「え……? あっ」
レジェスはエスメに命を差し出すと言った。それを聞いたリサベルの気持ちも考えずに。
「あなたが殺されたら、いくら同意のうえであっても、わたしは彼女を許せないわ。レジェスはどうなの?」
「姉上を殺されたら……、俺は……」
エスメを許せるのだろうか。愛しい気持ちなど吹き飛んでしまうのではないか。
――本当に? 彼女を憎み切れるのか?
きっと、ひどい愛憎を抱えて生きることになる。
「……だから、そんなことが起こる前に」
「レジェス、血の契約が解けたのでしょう?」
レジェスは無言で頷いた。何が起こったのかを理解した瞬間に、エスメを抱きしめそうになり、太ももに爪を立てて己を律した。
「このことに一番動揺しているのはエスメ妃殿下だわ。憎むべき相手を愛してしまったのですもの」
「っ……」
昨晩のエスメはひどく取り乱していた。いまレジェスが葛藤したことを、現実に突きつけられたのだ。その心境は計り知れない。
「あなたは彼女のどこが好きなの?」
「――は? な、なんだ、いきなり」
顔に血を集めながらも、レジェスは出会いを思い出していた。
細く小さな手を引っ張り上げたとき、人とは思えぬ美しさに時が止まった。あの瞬間に心を奪われてしまったのだ。
それだけではない。怯えながらも気丈に睨めつける姿に悶え、錯乱することなく現状を受け入れた芯の強さに心を打たれた。
「質問を変えるわ。彼女は、恨みを晴らすために、わたしを殺せる人だと思う?」
言われてレジェスはハッとした。嫌がらせだと本人が思っていることも、皇帝を肥だめに落とすという発想も、殺傷能力のない復讐だ。世事に疎い鳥かご姫の、精一杯の悪巧みなのだろう。
けれど、レジェスにはおそれていることがあった。
――おそらく、 “王の書”はエスメの中にある。
リブレリア王が残した言葉がずっと気にかかっていた。
『娘が笑顔でいられる人生を望む。それを叶えてくれたなら、そなたは望むものを手にするであろう』
王はレジェスに『自分の人生を生きろ』とも言っていた。エスメを笑顔にさせると手に入れられる『望むもの』とは、自由に生きるための『知恵』なのではないか。
その疑念は、アンドレイ王子の魔法書がなくなったことで確信に変わった。ちなみに魔法書の紛失は写字官たちが隠蔽した。あの部署は腐敗している。
ダメ押しにエスメは、魔剣をリセットするためにレジェスの叔父を呼んだ。聖水が必要だと知っていたからだ。しかも魔剣と契約する方法まで知っていた。このような知識は、“王の書”によるものとしか考えられない。
だとすれば、“王の書”によって導かれる知恵が、おそろしい事態を招くかもしれない。