第17話 無念を晴らす時が来た
――エスメ、起きなさい。……エスメ!
父の声が聞こえた気がして、エスメはベッドに身を起こす。部屋の中は真っ暗で、目が慣れるまでしばらくボーッとしていた。
(夢だったのかしら? もう一度聞きたいわ)
レジェスとは一緒に寝ていない。出征の日が決まり、追い詰めるようなことをすればレジェスがエスメに手を出しかねない。そう、アリヤが皇帝に吹き込んでくれたおかげで、夜も静かなものだった。
もし何か物音が聞こえたら、レジェスの部屋へ行けるようにクローゼットをあけてある。ぼんやりとそちらを見ていると、また声が聞こえた。
――エスメ、こちらへおいで。
胸のうちにある“王の書”が震えている。エスメは時が来たのだと思った。
(ああ、お父様……、無念を晴らせということですね)
枕もとに忍ばせていたペーパーナイフを取り出す。鹿の角を削って作られたそれは鋭利に尖っており、心臓をひと突きすればひとたまりもないはずだ。
まだ夢うつつのハッキリしない頭でクローゼットへ向かう。夜は木板で穴を塞ぐこともしていない。スルスルと身を滑らせ、音もなく壁から這い出た。
ベッド横のナイトテーブルの上では、蝋燭の灯りが揺らめいている。
レジェスはベッドで仰向けになっており、読みかけの本が枕もとに置かれていた。そばには魔剣も立てかけてある。
エスメはペーパーナイフを両手で握りなおす。自分の心音が耳もとで聞こえるかのようだった。レジェスは眠ったまま、起きる気配もない。
ジジッという炎の音に気を取られ、ふいに枕もとの本が目に入った。
エスメの瞳が次第に大きくひらかれる。
(この懐かしい魔力……まさか、お父様の……?)
深緑色の表紙でとても薄い。エスメはペーパーナイフを取りこぼし、震える指で本をひらいた。
――各領が守りを固める時間は十分に稼げたはずだ。帝国には逆らわないよう言い含めた。城の者たちはうまく逃げられるだろうか。ほかにやっておくべきことはなかったか。
アデリナにはつらい役目を負わせてしまった。私の妻となったばかりに、申し訳ない。インドラを公爵家に託したが、ちゃんと救い出してくれるだろうか。
エスメが逃げおおせたとしても、初めて見る外の世界でやっていけるだろうか。
私は、お前たちを犠牲にして“王の書”を葬る道を選んだ。恨むなら私を恨んでほしい。憎しみに駆られて報復など考えぬように。
――やはり帝国軍は装備が違うな。少ないが魔術師もいる。すぐに砦は制圧されるだろう。ここに残っているのは志願者だけ。もう持たない。
遠くに見える大将は第二皇子か。しかも女連れとは舐められたものだ。
それに比べて、第一皇子の勇猛果敢なことよ。ひとりで乗り込んで来るとは。
『“王の書”を掲げよ!!』
目の前に迫る第一皇子は動きを止め、食い入るように巨大な書を見上げた。部下によってひらかれた書に、大量の油がかけられていく。
『なっ、何をする⁉ リブレリア王、“王の書”を渡してくれ! そうすれば属国という形だが生き残れる!』
『久しいな、レジェス皇子。我が国がここまで追い詰められたのは、物量だけでなくそなたの功績が大きい。エスメの嫁ぎ先がそなたであれば、考えたものを』
腹心に向かって手を上げると、巨大な書に火が放たれた。
『ま、待ってくれ!! “王の書”は国の礎だろう⁉ ――チッ』
隙をついたはずの部下を、レジェスはやすやすと斬り捨てた。
『国を造るのは人だ。書はなくとも、皆で知恵を出し合えばいい。最後に会えたのがそなたでよかった』
『そんな、どうして死を選ぶんだ⁉ 生きていればなんとかなるだろ!』
『ふむ、そなたはどうなのだ?』
『……?』
『その魔剣、皇帝に対して忠誠心がないと証明しているようなものだ。でなければ血の契約など必要ないからな』
動揺したレジェスにまた部下が斬りかかったが、魔剣のほうが早かった。
『他人に操られる人生を「生きている」とは言わん。そなたが姉のために戦っているのは知っている。だが、そろそろ自分のために生きてみてはどうだ?』
以前、皇帝が側室を迎えるパーティーで見たレジェスは十三歳と若く、姉を守るのに必死な様子だった。しかし、いまでは十分な力を手にして立派な戦士となった。彼に必要なのは強い意志だけだ。
『俺は……』
迷いがあるということは、気づいているということ。
このままでいいはずがないと。
この男に、娘を託してみようか。あの子は怒るかもしれないが。
『レジェスよ、もし娘が……エスメが帝国に捕まるようなことがあれば、そなたが守ってやってくれ』
『――は? 俺は帝国の人間だぞ⁉』
『どんな形であれ、娘が笑顔でいられる人生を望む。それを叶えてくれたなら、そなたは望むものを手にするであろう』
レジェスの瞳は大きくひらかれ、口が半開きになった。死神皇子のマヌケ面を眺めながら、燃え盛る炎へ向かう。巨大な書はすでに焼け落ち、小さく見える。
死ぬのがこわくない者などいるのだろうか。痛みから逃げるのは人間の本能だ。潔い者というのは、相当な役者なのだろう。私にもできるだろうか。
『なっ⁉ 王よ、何をしている⁉ 火に炙られるなど正気の沙汰ではない! 周りもなぜ止めないのだ⁉』
彼らもすぐにあとを追うだろう。そうでなくても構わない。私が“王の書”とともに燃え尽きた事実さえあればいい。
熱さはすぐに痛みに変わった。
――ぐぅ……これは、耐えられるか、わからない。
『レジェス、私の首を……持って行け。だが、“王の書”は、燃えかすすらも、渡さないでくれ』
『っ……わかった。せめて、介錯を』
レジェスの申し出に頷いた。この男の剣は容赦なく、そして慈悲深い。
父の魔法書はそこで終わっていた。
ポタポタと落ちた涙は魔法書に染みることもない。
ふいに、また父の声が聞こえた。
――エスメ、彼を許してやりなさい。お前には幸せになってほしい。
(い……嫌よ!! 許すことなどできないわ!)
ポットを火にかけたとき、火傷の痛みを知った。わずか一秒にも満たない接触でおそろしい熱さと痛みが走った。自ら火に入るなど、とんでもない。この事態を招いた者たちに復讐せずして、この先、笑うことなどできるものか。
あふれる涙を乱暴に拭い、落ちたペーパーナイフを探す。すぐにまた視界が滲んで見つからない。ならばと魔剣を手に取った。ところが今度は、重くて持ち上がらない。
「うっ……ううっ……」
我慢していた嗚咽が漏れてしまい、ベッドから大きな手が伸ばされた。
「王女、そっちは危ないから、ペーパーナイフにしよう。な?」
そのペーパーナイフが見つからないから魔剣をつかんでいるのだ。これから殺そうとする相手に気を遣われるなんて、格好がつかない。
「ぐすっ……いつから、起きてたの?」
レジェスは返答に困って頭をかいた。エスメが入って来てすぐに気づいたが、手にしたペーパーナイフを見て目を閉じたのだ。
「王女――」
言いかけて、レジェスは体の異変に気づく。魔剣が視界に入ると体が脈打つような感覚があったのに、それがない。まさかと思いつつベッドから出て、エスメの前に膝をついた。
「王女、宝珠から手を放してくれないか?」
エスメは、剣を持ち上げようと鍔を両手で持ったため、宝珠に手が触れていた。
レジェスに支えられながらゆっくり手を放すと、宝珠に残っていた赤い楕円は跡形もなかった。
「血の契約が、解けたのか……」
レジェスの言葉にエスメは目を白黒させながら、自分の手を見やった。涙で濡れた手で宝珠に触れた。それはつまり――魔剣に涙を与えたことになる。
(わたくしが、レジェスを愛しているというの……?)