第1話 理想の人は敵でした
本より重い物を持ったことはなく、魔術が使えるほどの魔力もない。
けれどエスメのまわりには愛が溢れていた。
一国を治める聡明な両親と、頼りがいのある兄、本が大好きで読み聞かせをしてくれる世話好きの姉。見目麗しい一家であったが、なかでもエスメの美しさは飛び抜けていた。
ふわふわのクリームブロンドと花のかんばせを母から引き継ぎ、父からはエメラルドの瞳と好奇心を受け継いだ。おかげで外の世界へ飛び出そうとするのだが、そのたびに優しく部屋へ連れ戻される毎日。
『お外は危険ですわ、姫様』
『姫様のようにお美しい方は連れ去られてしまいますのよ』
決して体が弱いわけではない。煙るような睫毛に縁取られた瞳はなんとも眠たそうで、それがまた儚く見えるらしい。皆に心配そうな顔をされては、エスメも引き下がるほかなかった。
仕方なく本に没頭していくうちに、王女と騎士の恋愛物語がお気に入りになった。いつかエスメだけの騎士があらわれて、この窮屈な鳥かごから連れ出してくれるのではないか。
そんな望みを持ってしまったのがいけなかったのだろう。
***
「エスメ、行きなさい!!」
「お母様!! お姉様!」
「姫様、お早く!」
死の足音に追い立てられ、真っ暗な地下通路を松明の明かりだけで進む。先頭の護衛が持つ明かりだけでは足もとが覚束ない。
石畳に足を取られるたび、エスメの後ろについていた護衛イゴルの世話になった。旅装用の軽いドレスにブーツを履いていてもこのざまだ。先が思いやられる。
「姫様、あと少しで地上への階段に着きますから」
「わたくしのことはいいの! お母様……」
守ろうとしてくれるイゴルを気遣う余裕もなく、エスメは泣き濡れた顔で後ろを振り返る。あんなに外へ出たかったくせに、鳥かごの中にいたことを幸せに思うなんて。
「皇帝の狙いは姫様です。さぁ、行きましょう」
朝日を待たずして帝国軍は王城を取り囲んだ。寝静まっていたリブレリア城は瞬く間に赤く燃えさかり、母と姉はエスメだけを送り出した。
『わたくしたちは足手まといになる。あなたは逃げ延びて、“王の書”を守ってちょうだい』
帝国には戦の神に愛された死神皇子がいる。その噂はリブレリアにも轟いていた。強靱に鍛え上げられた肉体に、黒馬のたてがみを思わせる黒髪。手には鮮血色の魔剣を携えており、狼のように鋭い瞳までも血の色をして、目が合っただけで死を予感させるという。
イゴルに背中を押されて前を向く。
「姫様は我が国の希望なのです」
「……わかっているわ」
エスメを城から連れ出した護衛は三人。少数だが皆、三十歳近い手練れだ。
前を進むふたりが立ち止まった。
「ここから階段です。急ですからお気をつけください」
松明をイゴルに渡し、屈強な男ふたり掛りで押しあけた天板から光が差し込む。木々の隙間から見える空はすっかり白んでいた。
「先に我らが出ます。合図があるまでお待ちください」
不承ながらも頷いてエスメは階段の途中に留まった。帝国軍は王城へ進んだのだから、森の中にある出口に気づくはずがない。用心深い護衛たちだ。
(わたくし、本当に城の外へ出るのね)
頬に滴る雫を払っていると、上から手が差し伸べられた。階段をゆっくりと上がり、その手に手を重ねる。厚みのある無骨な手だが、美しいと思った。
手のひらは剣ダコがあり硬いけれど、知っている護衛の手より若い気がする。疑問に思った瞬間、するりと引き上げられてエスメは息を飲んだ。
(だ、だれ……?)
黒髪からのぞく端正な顔立ちに、夕日を思わせる朱い瞳。育ちの良さが滲み出ているのに、着ているものはずいぶんと軽装だった。生成りのシャツの胸もとははだけ、捲り上げた袖から伸びるたくましい腕。
その腕に引き寄せられ、厚い胸板に熱を感じて心が震えた。エスメの知る美しい男性というのは皆、線が細かった。対して目の前の人物は、ギラつく鋭さも猛々しい体躯をも美へと昇華していた。
思い描いていた騎士像に、これ以上の人はいない。そう思ったのも、イゴルの叫び声を聞くまでだった。
「姫様!! 死神皇子め! 姫様を離せ!!」
――死神皇子。イゴルはそう言った。
慌てたエスメが必死にもがいても、皇子はびくともしない。それどころかイゴルに目をやることもなく、エスメに丸い瞳を向けたままだ。
イゴルが剣を引き抜いた音に、やっと死神皇子も前を向く。皇子が地面に向かって手をかざすと、赤い剣が浮かび上がりスッと収まった。
「ひっ」
これが魔剣というものか。噂に違わず血の色をしている。剥き身の剣を握ると同時にエスメは解放され、皇子はイゴルへ向かう。
「姫様! お逃げください!!」
言われてすぐに動ける人間がどれほどいるだろうか。何もできないくせに、自分より強いイゴルを置いていくことに躊躇してしまう。エスメの足もとには先に出た護衛ふたりが倒れており、まだ息がある。それもまた迷いを生じさせた。
(バカね。わたくしがいても、足手まといになるだけなのよ? でも……)
「姫様! 走って!!」
イゴルの声に一歩、二歩と後ずさり、心を鬼にして背を向ける。あとはもう振り返らなかった。
森の中をただひたすら走った。護衛にすべて持たせていたから手荷物はない。命と同等に大事な“王の書”はエスメの中にある。
我がリブレリア王国の王侯貴族は魔力で書を編む。誰も教えていなくとも、赤子の時分から魔力を特殊な紙に変え、人生の記録とともに知識が綴られていく。
魔力持ちのリブレリア人が死亡すると、胸から魔法書が浮かび上がり、他人でも手にすることができる。だからエスメが死ぬわけにはいかないのだ。
――自害は絶対に許されない。
どんな状況にあろうとも、生きて“王の書”を守らなければならない。たとえすぐそばに、鮮血の魔剣を携えた死神が近づいて来たとしてもだ。
木の根っこに足を取られて転び、手をつきながらジリジリと後ずさる。
「こっ、来ないで!!」
聞き入れられるわけがないと知りつつも放った言葉は、しかし、皇子の歩みを止めた。さらには魔剣を地面に放り投げ、今度はゆっくりと歩いてくる。
木に身を寄せ、エスメはできるかぎりの強面を作って睨みつけたが、死神皇子に通用するはずもない。捕まるのは時間の問題だ。
凜々しいと見とれたはずの顔が、いまはおそろしく思えた。
「ヒッ」
腕をつかみ上げられると覚悟したが、皇子はエスメの前で片膝をつき、手を差し出すだけに留めた。
引きずっていくほうが簡単であろうに、皇子はエスメに手を伸ばさない。涙が止まるのを待ち、手を乗せるべきか迷う素振りをずっと見守るだけ。
この辛抱強さを見ていなければ、エスメの心は早々に参っていただろう。
きっと乱暴に扱われることはない。皇子の大きな手に、エスメは身を委ねた。