第四話 遅桜の秘め事⑤
「ごっ、ごめんなさい……」
しかし望む返事は、またしても受け取る事は叶わなかった。
「ど、うして……?」
「私、今とっても楽しいんです!」
神の問いかけに、ジャンヌは微笑みを浮かべながら答える。
「ずっと、今の家族にも友人にも……自分を隠して、生きていました」
聖女ジャンヌ=ダルクから、現代の男子高校生に転生した等という荒唐無稽は話。誰も本気にしてくれるワケもなければ、打ち明けられた所で困惑するであろう……と。ジャンヌは今までずっと。一人、色々な思いをひた隠しにして、平穏な日々を保とうと必死に生きて来た。
「でも、今は……」
しかし、そんなある日。ランが現れたのだ。
彼女との出逢いは特に取り立てて特別でも何でもない日に、ほんの少しの幸福と喜びをくれた日常の出来事であった。好きな漫画の事を語り合える後輩……それが前世の旧友との再会を切っ掛けに、誰とも共有出来ない秘密を分かち合ってくれる友人へと急変した。
最初こそ、激しく流れる展開に身を委ねるだけであったジャンヌだが。自然と一緒に居る時間が増え、交わす言葉も積み重なり、自身の傍らに居てくれないと寂しさを感じてしまう……いつの間にか、そんなかけがえの無い大切な存在へと変化していたのだ。
「どんな私も受け入れて、話しを聞いてくれる。とっても大切な友達が出来たんです」
――だから、私は。
「此処に、居たいんです」
それがジャンヌの心からの言葉であり、今の一番の願いであった。
「……分かったよ」
すると、ジャンヌの想いを理解したのか。神は比較的、穏やかに言った……が。
「でも、その代わり。ボクにキスして!」
と、顔を赤らめながらも強く言い放った。
唖然と言葉を失うジャンヌ。
そしてランとジルとケルベロスの右の首はというと、呆れを通り越し、嫌悪を飛び越え。思考回路が数秒間ショートする。
「何言ってんだテメェェェェェ!!」
「恥を知れストーカーがァァァ!!」
数秒経ち、脳の活動を再開させたジルとケルベロスの右の首が吠える。
「うるさいー!! ジャンヌの初めては全部ボクが貰うんだ! 万が一、他の誰かに奪われないように、先にボクが貰っておいて何が悪い!!」
「悪い所しかねーわ!!」
「良い加減、聖女サマの気持ちをちゃんと考えろ能無し!!」
野次を飛ばすジルとケルベロスの右の首であったが、神には全く響かず。彼は「うるさーいっ!!」と一蹴し。
「ジャンヌ!!」
と、彼女の肩を掴んだ。ジャンヌの身体である百合園純矢の身長よりも、神の憑依している櫻小路の身長の方が少し高い為。神がジャンヌに覆い被さるような体勢となる。
「キスしたら、ボクは大人しく帰る……けど、もし叶わぬなら。彼等に天罰を与えるから」
神からの宣告に、ジャンヌは一度少し目を見開いてから視線を下へと落とす。
視界は櫻小路の相貌から、床へと辿り着き。
――キスくらいなら、いっか……。
と、彼女は心の中で説き伏せるようにそう呟いた。
自分がほんの少し我慢をする事でラン達が助かるなら、迷うこと自体が間違いだ……重く沈み、浮かない心で。ジャンヌはそう思った。
「分かり、ました……」
キスくらい、なら……もっと大切なものを寄越せと言われた訳では無いのだ。それくらい、手が触れ合うのと大差など無い……。
心の中で、沢山の良い訳と説得がジャンヌの中で溢れる中。少しずつ、櫻小路との顔の距離が近づいていく。
――まあ、しかも。キスする唇は、会長のだし……。
そう思ってから、自分の気持ちに。喜びもトキメキもドキドキも無い事に……見て見ぬ振りをした。
――今まで、これよりもっと。前世でも、酷い目に遭いそうになった事もあるじゃない……。
過去の辛い記憶を思い起こし、苦しくなってすぐに放棄した。
――誰かが辛い思いをするのと比べたら、私が苦しんだ方がずっとマシだ。
自嘲気味なのを自覚しつつも、そう思った瞬間。ジャンヌの心が、少しだけ軽くなる。
――これで、ランちゃん達が助かるなら……うん、これで良いんだ。これで……。
ジャンヌと櫻小路の唇が、間もなく重なり合おうとした……その時。
「ぅるうあああああ!!!!」
けたたましい雄叫びがこだました。
驚愕し、振り返ると。やはりというか何というか……神の力によって動きを封じられていたランが、恐らく強引に立ち上がり。
「神と言ってもなあ」
一瞬の瞬きの内に、神の眼前へとやって来て。
「横暴にも限度ってものがあるぞ、この――」
鋭い眼光を向けたまま、ランは拳を強く握り締める。
神は彼女に「待てっ、ボクは神だぞ! ボクを殴れば、天罰が……」と訴えるが。ランは全く耳に入れずに。
「愚か者がァァァァァ!!」
と、強力な打撃を櫻小路の腹部へとお見舞いした。
「らっ……ラン、ちゃん……」
窓へと激突する櫻小路の身体と、勇まし過ぎるランの姿を見つめ。呆然と呟くジャンヌ。
「だっ、大丈夫!? てか……」
しかし思考が再開し、現状を把握し始め。
「なんで動けっ……いや、神様殴っちゃったけど、マズイんじゃ……」
良くない方へと傾いてしまった事態に、慌てふためくジャンヌ。だが、混乱する彼女に構わず。ランはジャンヌの右手に優しく触れ、温かな両手で包み込み。
「私は大丈夫です……ジャンヌさんこそ、大丈夫ですか?」
穏やかな笑みで、優しく尋ねる。
「私は、全然……それよりも、ランちゃ――」
「“キスくらい”じゃ、無いですよ」
ジャンヌの言葉を遮って、ランは続けた。
「女の子にとって、キスは。“それくらい”とかで片付けても良いものじゃ無いです」
ランの言葉に、ジャンヌの心が跳ね上がる。
「文化や時代、それに個人によって価値観は異なりはしますけど……ジャンヌさんが嫌だったら、それを押し込めて我慢なんかしちゃダメです」
「ラン、ちゃん……」
「辛くて苦しくて、助けが欲しい時には私が助けます」
続けられた台詞に、鼓動の速さが加速していく。
「何があっても、どんな邪魔が入っても。絶対に、ジャンヌさんを助けに駆け付けますから」
「ど、どうして……私なんかの、為に?」
ジャンヌが尋ねた質問に、ランは不思議そうな表情で。
「そんなの、当たり前じゃないですか」
と、言い。
「ジャンヌさんは、私の大切な友達なんですから」
屈託の無い笑顔で、無垢な声で。真っ直ぐに、純真な優しさを向けた。
すると、ランの言葉に思わずジャンヌの瞳から涙がこぼれてしまう。
「じゃ、ジャンヌさん!? ごっ、ごめんなさい!! 私、何か気に障る事を……」
慌てるランに「違うよ……寧ろ、逆だよ……」そう伝えたかったが、今のジャンヌは上手く声を出す事が出来ず。
「良かったら、使って下さい」
そんな彼女に、ランから白のハンカチが差し出された。
「あっ、未使用なので安心して下さい! 私、ハンカチは自分用と。女性に貸す用に、常に二枚持ってるので!」
明るく言うランに「だからそれ、男の人がやるちょっとしたモテテクだよ……」と、思いつつ。笑みを溢し。
「……ありがとう」
と、絞り出す。
「“女性に貸す用”なのに、私にも貸してくれるんだね」
少し冗談めかして告げるが、ランからは真剣な驚きの表情が向けられ。
「何言ってるんですか? ジャンヌさん、立派な可愛い女の子じゃないですか」
真面目なトーンで、そう告げられてしまう。
刹那、ジャンヌの見えている景色が明るさを増した。
勿論、彼女の目に映る景色が変わったのではなく。暗く影らせていたジャンヌの心を、ランによって晴らされてしまったのだ。
――ズルいなぁ、ランちゃん……。
そう思いながらジャンヌは赤らむ頬を、ランから借りたハンカチで涙を拭いながら覆い隠す。
「……こっ、の」
すると、すっかり忘れ去られていた神が身体を起こし始める。
「神たるボクに、何たる無礼を……」
刹那、神の動きがピシりと止まった。
「なっ、えっ!?」
戸惑う神の様子に、ジャンヌとランも不思議そうな顔を向ける。