第三話 姫椿の毒気⑨
「嘘……」
「凄……」
友人二人は、呆然とする絢子の横でそう呟く。
彼女達の眼前には、地に転がる十数人の男達と。一人、涼しい顔で立つランの姿があった。
彼女は一対多数……しかも武器を所持した男達相手に、一歩も引けを取るどころか完全に圧倒し。瞬く間に、全員を捻じ伏せてしまったのだ。
ある者は、打撃を食らった箇所を抑えて地面に転がり悶絶し。ある者は、白目を剥いて意識を手放しており。傍には、砕かれた木材や破壊された武器類が転がっていた。
「貴様等など、準備運動にもなりはしない」
そう冷たく言い放ち、ランは絢子達の元へと踵を返す。
『――クックックック』
しかし、倒したはずの黒葛が起き上がり。ランは歩行を止める。
『たかが人間が、人間を倒したくらいで良い気になるなよ……』
死なない程度の加減しかしていないので、普通なら起き上がれないはず……と、頭の片隅で考えながらも。再び臨戦態勢に入るラン。
だが、顔を上げた黒葛は。先程とは少し様子と雰囲気が一変していた。
肌は土気色に褪せ、目の下は窪んだような濃く黒い隈が現れており。動いてはいるものの、人間としての生気を感じられなかった。
一体何が……そう、思考した刹那。黒葛の瞳が深紅の光を放ち、ランの身体が勢い良く校舎の壁へと叩き付けられる。背中を強く打ち付けた衝撃で一瞬息が詰まり、呼吸が乱れる。そして、そのまま今度は。俯せの状態で地面へと、ランの身体は叩き付けられてしまう。
後方で絢子達の悲鳴が上がった。
『ツヅラのお返しだ。バカな人間だが、俺様の隠れ蓑として大いに役立ってくれている。大切な下僕だからな』
ランの身体が痛みを訴えながらも、彼女は起き上がって再び攻撃への構えを取ろうとするが。
『誰が起きて良いと言った』
と、再び悪魔から放たれた力で。ランの身体は地面へと叩き付けられてしまう。
その時、ジャンヌが息を切らして体育倉庫へと到着した。
「ランちゃん!」
ジャンヌに気が付いた絢子達が「純矢様!?」と驚愕する中、ジャンヌは黒葛の相貌を見て確信する。
「やっぱり、悪魔……!!」
ジャンヌの言葉に、黒葛……否、黒葛に憑依する悪魔は舌打ちを溢し。
『また、面倒な……』
と、言うと。右手をジャンヌや絢子達の居る方向へと掲げる。すると全員の身体が重さを持った空気のようなものに圧し掛かられ、地面へと伏してしまう。
『暫くしたら、意識なんてどこかへ行くから安心しろ』
笑みを浮かべてそう告げ、『ああ、そうそう』と思い起こしたかのように。
『さっきの優しい~、勇気あるカワイコちゃんは。ツヅラの分まで、後でしっかり俺様が可愛がってやるからなぁ~』
絢子を見ながら、そう満面の笑顔で言い。
『丁度、人間の雌の奴隷が欲しいと思ってた所なんでな』
と、嗜虐的に表情を歪めて続けるのだった。
刹那、地面に倒れていたランの右手が動く。そして、その掌は拳を握りしめてから。少し鈍い動作で、身体を起こし始める。
『テメー……まだ動けんのかよ』
吐き捨てるように言うと、悪魔はランにもジャンヌ達と同じように負荷を掛ける。すると、彼女は表情を歪めて身体を地面に着けてしまうが。すぐさま再び腕を伸ばし、身体を悪魔に向かって前進させ始めた。
『なっ……!?』
驚愕しながらも、さらに負荷を増大させる悪魔。
身体の動きだけではなく、ランの体内にも大きく負担が掛かり。意識が飛ぶ前に、内臓が吹っ飛んでしまいそうであった。
しかし、痛みや苦しみを自覚しながらも。彼女は進む事を止めず、徐々に。悪魔との距離を詰めて行く。
『なっ、何なんだよテメーはっ!?』
動けるといっても、ランは長年の鍛錬で身につけた体力と肉体強化をフル稼働し。気力を振り絞っているだけである。
現時点の優勢が、悪魔である事に変わりは無い。
『くっ、来るんじゃねェ!!』
しかし、それでも彼は恐怖した。
何の変哲も無い、ごく普通の見た目をした人間の女学生に。悪魔の心は、急加速で恐怖に蝕まれていった。
(こんな奴、一瞬で直ぐ殺せるんだ……悪魔の俺様が、純潔の上級エリート悪魔の俺様がこんな……)
そう内心で自身を宥める中、ランの口端から一筋の赤い軌跡が伝う。
長く圧を掛けられ過ぎ、彼女の内臓が悲鳴を上げたのだ。
(勝った……!!)
ランが受けたダメージに、歓喜する悪魔。
だが、停止するかと思っていたその動きが止まる事は無かった。
(なっ……!?)
口から血を流し、多大な負荷の圧力を全身に浴びながらも。ランは動かせる部位に、全身全霊の力を込め。黒葛の身体を纏った悪魔に迫って行く。
すると少しだけ上げたランの双眸と、悪魔の視線が交わる。
彼女の眼光は怒りを強く孕んで放たれ、彼の心臓を凍り付かせた。悪魔の精神の緊張が、黒葛の身体から冷や汗を噴き出させ。震え始めてしまった手足の感覚が、少し遠くに感じ始める。
(俺が……俺様が……)
悪魔の中にある恐怖心が、自尊心と傲慢と混濁する。
自分の気持ちが、自身の理解の範疇を超えてしまい。彼の頭は混乱した。
(こんな……下等な、人間風情に……!!)
しかし、その混乱はやがて怒りへと変貌し。
『死ねェェェェェ!!!! 小娘がァァァァァ!!!!』
と、致死性の術を発動させようと両掌を掲げた。
「ラ、ン……ちゃ、ん……」
悪魔の異変に気付いたジャンヌが、彼女に右手を伸ばす。だが、その距離は。あまりにも掛け離れ過ぎていた。
何とか、どうにかしなければ……そう思っていた、その時。
「――そこまでだ」
という声が弾け、閃光が瞬く。
すると、ジャンヌの身体に圧し掛かっていた目に見えない重みが消える。
『何!?』
同時に、悪魔がランに放とうとした攻撃も霧散していた。
『一体……』
疑問に駆られながら、無意識に瞬きをした刹那。悪魔の眼前に、ランの姿が飛び込んで来る。
(しまっ――)
そう心の中で言い切る前に、彼女の右ストレートが顔面に命中。さらに、背後に顔を仰け反らせた黒葛の首に。上段回し蹴りがブチ込まれ、彼の身体を外壁へと激突させるのであった。
「……良いのか、アレ」
「……あの嬢ちゃん、容赦ねーなぁ」
ジルとケルベロスの右の首が、若干引き気味で言う。
「ジル、ケルベロスの右の首様も……」
「ジャンヌ! ご無事ですか――」
と、抱き着こうとしたジルの尻に。ケルベロスの右の首が容赦無く噛み付く。
「ってェ!!!! ……っの、クソ犬!!」
「ドサマギで不貞行為しようとしてんじゃねー。仕事しろ、仕事」
呆れた口調で吐き捨てられたケルベロスの右の首の言葉に、ジルは舌打ちを溢しながらも。「では、ジャンヌ! お勤めに励んで参ります!」と、ランが倒してしまった悪魔の元へと向かう。
「――先輩方!」
ジャンヌが何となくジルとケルベロスの右の首の背中を見つめていると、ランの声が届く。見ると、彼女は絢子達へと駆け寄り、心配気に声を掛けていた。
「大丈夫ですか!? 怪我は……」
ランの視界が、絢子の口端と赤く腫れてしまった頬。そして、擦り剝いてしまった膝を捉える。
「してるじゃないですか!! 早く、保健室へ――」
「どう、して……!!」
慌てた様子で絢子に言うラン。だが、絢子は彼女の優しさを受け取る事が出来なかった。
「私……貴女の事呼び出して、貴女に酷い事を……」
震える手を握りしめ、震える声で。
「足を痺れさせて、ツンツンしてやろうと思ってましたのに!!」
と、言葉を続ける。聞こえてしまっていたジャンヌが、思わずズコッとし。「いや、確かに嫌な行為ではあるけど……」と、思う。
「貴女に身勝手に嫉妬して、理不尽な目に遭わせようとしたんです……私は……」
だから……と、絢子は続けて。
「貴女が必死になって助ける価値なんて、私には無いんです!!」
目に涙を浮かべ、叫ぶようにそう言う絢子。
友人二人も、そんな彼女の姿に心を痛めながら悲し気な表情で沈黙をしていた。未遂だったとはいえ、ランへと向けていた悪意は簡単に許して貰えるものでは無い……そう思ったからだ。
しかし、ランは。絢子への返答の前に。一枚の薄紅色のハンカチを、彼女へ差し出した。
「使って下さい」
あっ、未使用なのでご安心を……と、告げてから。絢子の手へと、ハンカチを渡す。
「昔、イタリア人のフランチェスコに教えられたんです。『ハンカチは、自分の清潔感を保つエチケット用と。女性の涙を拭く用に、綺麗な物を常に二枚所持しとけ』って」
いや、それ男がするちょっとしたモテテク……君、女の子でしょ!! と、ジャンヌは内心で叫ぶ。
「されても無い事を、怒ったりしませんよ。それに私はただ――」
ランは、穏やかな笑みを象り。
「美しい女性を泣かせて、傷つけた野蛮人達が許せなかっただけなので」
と、初夏の風のように。爽やかに、サラリと告げた。
「失礼」
次に、ランは優しく絢子の肩と膝裏に手を回し。彼女の身体を抱え上げる。
すると、友人二人の口から「ひゃ~!!」という歓声が上がった。
「えっ、ちょっ……何ですの!?」
親類男性以外からの初めてのお姫様抱っこに、絢子が戸惑っていると。
「よろしければ、保健室までお連れさせてください。先輩」
と、ランは柔らかく告げ。再び、絢子へと至近距離で笑みを送った。
その時、絢子は自身の顔に突風が吹きつけてくる感覚に襲われる。
それは、百合園ことジャンヌと初めて出会い。助けられた時と似たような感覚にも感じられたが、それよりも強い衝撃が絢子の脳を揺らした。
(オスカル様……!!)
昔、絢子の母が持つ少女漫画を借りて読んだ際。ヒロインながらも、理想の王子様的な憧れを抱いたキャラクターの事を思い起こす。単純な恋とか愛とかの名称で片付けられない好意が、絢子の心に大輪の花を咲かせた。
のぼせあがってしまった絢子の心中に気が付かぬまま、ランは保健室へと颯爽と歩き出す。
(いっ、行ってしまった……)
ランに存在すら気が付かれぬままのジャンヌが、絢子に付き添う友人二人を引き連れ去って行く彼女の姿を見送りながら心の中で呟く。
(あんなイケメン言動サラッと言っちゃう人、十九年と十六年の人生でも。漫画やアニメでしか見た事無かったのに……)
と、思いつつ。伝説の聖女ですら少し見惚れてしまったランの姿に、ジャンヌは苦笑を溢す。