バラ屋敷
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フェンスにつたって咲く一面のバラは、夕方になると甘い香りを放つ。
空気にゆれて匂いたつ、薄いピンクのバラはそれだけで幸せな気持ちにさせてくれた。
わたしの大好きだったその場所は、バラ屋敷と呼ばれていた。
彼等がいつから住んでいたのか、記憶は定かではない。
ただ、わたしが10歳になった時にはバラは溢れんばかりに咲いていた。
広大な敷地に咲く、色とりどりのバラ、古めかしいお屋敷に離れと温室。
フェンスにつたって咲く薄いピンクのバラの向こう側は、子供のわたしには別世界のようだった。
学校の帰り道、遠回りになるけれど、バラのつたわるフェンス沿いに歩いて思い切り深呼吸をする。
バラの甘い香りが鼻の奥にまで広がる。
いい匂い。
わたしは思って、しばし幸せの気分にひたっていた。
「どうぞ」
ふいに、頭の上から男性の声が降ってきた。
目の前には一輪のピンクのバラ。
「どうぞ。昨夜の嵐で折れてしまったんだ。飾ってくれると嬉しいな」
若い男性がニコニコと笑い、話しかけてきた。
わたしはビックリして言葉に詰まった。受け取ろうかどうしようかと迷っていると、男性は何かに気づいたように後ろを振り向いた。
「こっちだよ!あ、そこ!枝が落ちているから気をつけて!」
かすかに女性の声が聞こえた。
「残念だわ。せっかくきれいに咲き始めていたのに」
確かに昨夜の雨と強風は、台風ではないかと思うくらいにすごいものだった。
「折れたバラは部屋に飾るよ。」
男性は後ろを振り向いたまま、女性と言葉をかわしている。
「だから君にもお裾分け。はい、どうぞ」
男性はわたしの方を向いて再びピンクのバラをすすめてきた。
「遠慮しなくていいのよ」
男性の後ろから、ひょこりと女性が顔を出した。
ふたりともニコニコと笑顔でわたしを見ていた。
わたしは恥ずかしくて、小声で「ありがとうございます」と言ってバラを受け取った。
「じゃあ、気をつけて帰ってね」
男性と女性は話しながら奥へと去っていった。ふたりの会話と笑い声は、幸せそうな声だった。
わたしはわたしで手にした一輪のバラを鼻に近づけ、嬉しさをかみしめた。
次に会ったらもう一度お礼を言おう。
家に帰ると空き瓶にバラをさした。
一輪だけのピンクのバラ。
母親が、わたしが手にしたバラを見てどうしたのかと聞いてきた。
わたしはバラ屋敷の人にもらったと答えた。
食卓で新聞を読んでいた父親が、「若い夫婦が住んでるらしいが、ふたりであのバラを手入れしてるのかなあ?」と言った。
「うん、若い男の人だった。女の人もいて話してたよ。折れたバラは飾ろうって。わたしにもお裾分けってくれたの」
「バラは萎れやすいからちゃんと毎日水を変えなさいよ」
「はーい」
それからわたしはバラの手入れを調べ始めた。持っていた図鑑に切ったバラの手入れ方法はのっていなかった。ネットの普及していない時代、調べる方法は本か誰かに聞くこと。
翌日わたしは学校の先生に聞いた。
先生にもバラ屋敷の人からバラをもらったことを話した。
先生は、毎日水を変えるときに茎も少しずつ切るか、切り口をガスで焼くといいと教えてくれた。
「切り口を焼くんですか?」
「そうよ。焼くと水あげがよくなるのよ」
わたしはその日、ブラスバンドの練習で帰りが少し遅くなっていた。早く帰りたい気持ちもあったが、結局、バラ屋敷のフェンス沿いを帰り道に選んだ。
遠回りだけど、どうしてもバラのそばを歩きたかった。
あたりに人気はなく、しんとしている。
薄い暗闇にバラがゆれた気がした。
え?、と、わたしは思った。
フェンスにつたうバラの向こう側に気をとられた。
お屋敷のほう。
怒鳴り声。
何を言ってるかわからなかったが、男の人たちの声が響いてわたしは怖くなって走って家に帰った。
この時、家に帰ったわたしが、父親か母親にでも教えていれば・・・。
もしかしたら、何か変わっていたのかもしれない。
夜の9時を過ぎた頃。
ドーーンッ!!
と、轟音がした。
家が揺れ、窓ガラスがビシビシと鳴り、わたしは二階の部屋から慌てて降りた。
「地震か!?」
父親が言い、母親がわたしを抱きしめた。
近所の人達が外に出ていた。
誰かがバラ屋敷が燃えていると言った。
わたしは両親が止めるのも聞かず走ってバラ屋敷に向かった。
人が集まりはじめていた。
燃えている。
お屋敷が。
燃えているお屋敷に気をとられ、皆、気づかなかったのだと思う。
離れから人が出てくるのが見えた。
わたしは離れに近い裏手に走った。
バラをくれた男の人かもしれない。
よかった。助かったんだ。
だが、その人は腕に誰かを抱いたまま温室へと向かっていた。
だめだよ!危ない!!
声が出ていたのかもしれない。
その人はわたしのほうを見た。
わたしのほうを見て首を横にふった。
そして温室へと入っていった。
わたしは叫んだ。
大人達が集まってきて危ないからとわたしを連れ出そうとした。
わたしは言った。
温室に人が入っていった、と。
温室からも火の手があがり、炎に包まれるまで、わずかな時間でじゅうぶんだった。
そのあとのことはあまりよく覚えておらず、両親に聞いた話だが、わたしはずっと泣き続けていたのだという。
『何か見たらしい』と、わたしはパトカーに乗せられ、そこに両親がやってきた。
わたしは泣きながら、離れから誰かが出てきて温室に入っていったこと、その人がわたしに向かって首をふったこと。
そして、学校帰りにお屋敷から男の人たちの怒鳴り声がしていたことを言ったのだという。
数日たって、お屋敷からひとりの男性の遺体、温室からは男性女性のふたりの遺体が発見された。
男女ふたりは夫婦ではなかったため、屋敷に住む若い男女と呼ばれ、もう一人は、女性の元夫で、若い男性の実の兄にあたる人だと発表があった。
お屋敷はガス爆発による火災で、訪れていた兄は巻き込まれたのだろう。
温室は人の手による放火。油がまかれたあとがあったこと、わたしの証言があったことが決め手となったのか、男女ふたりに関しては心中ではないかと判断された。
はっきりとはしない発表に、憶測だけが飛び回り、ふたりの男女がどんな経緯であの屋敷で一緒に暮らしていたのかは誰も知らない。
ただ、あのふたりがバラを育て、バラ屋敷で幸せに暮らしていたことだけは確かだろう。
『仕方がなかったんだ』
泣くだけのわたしに、まわりの大人達はいいきかすように繰り返した。
『仕方がなかった』
そうだ。仕方がなかったのだ。
いま、大人になったわたしも、『仕方がなかった』と、そう思う。
けれど、もしも、
もしも、あの時、バラ屋敷から怒鳴り声がしていたと両親どちらかに教えていれば、そこから警察に話がいっていたかもしれない。
田舎町ゆえに、親戚や古くからの顔なじみが多く、些細なことにもお巡りさんが仲立ちに入る町だ。
新しい住人にはやや警戒を持つことは珍しくなかった。
もしもわたしが一言でも・・・。
そうしたらあんなことは起きなかったかもしれない。
そう思う自分を未だに消せない。
バラ屋敷は火災後しばらく放置されていたが、燃え残ったバラがかわいそうだと、町の有志が手入れをするようになった。
それがきっかけで、土地の所有者が燃え落ちた屋敷と離れ、温室をきれいに片付け、バラの手入れを条件に、土地を町に無償で貸し出してくれることになった。
『そのほうが、亡くなった二人も喜ぶだろう』
土地の所有者が言ったという。
亡くなったのは三人なのに━━━━━
時がたち、バラを見るたびに泣いていたわたしも、いつしかバラの手入れをする大人達に加わった。
お屋敷の跡地と温室の跡地には池が造られた。
池の水は業者が時折交換を行っている。
あれから時は過ぎて、今、バラ屋敷と呼ばれたその場所は、見事なバラ園となっている。
あまり知られてはいなかったが、SNSで人目にふれるようになり、見知らぬ人達も訪れるようになった。
時代の移り変わりに目まぐるしさを感じながらも、ふと、こうして思い出す。
『どうぞ』
バラを一輪くれた笑顔のふたりのことを。
~fin~