3話 「私のベル」
目の前で肌色の残像だけを残して最愛の弟が一瞬の内に目の前から消えた。
それに伴って生まれた爆風がティナの長い黒髪をかき乱す。
「え、ちょっと……」
伸ばした腕は空を切り、ティナは1人、屋敷の廊下にポツンと残された。
「おかしい……まさか本当に悪魔にでも憑りつかれたというの……?」
口からこぼれ出たその問いに答える者はいない。
それならばとティナは1人考えた。
突然のぼせたといて風呂を出ていったベル。おかしいのはそれからだ――と。
ティナは知る由も無いがその考察は見事に的を得ていた。
ベート伯爵家長女ティナ・ベート。彼女もまた眉目秀麗な才女としてその名を広く知られた存在なのである。
「考えられる原因は一つ……ふふ、やはりベルの目は誤魔化せなかったようね……私が先月から比べて2キロ太っていた事に」
ベート伯爵家長女ティナ・ベート。彼女もまた眉目秀麗な才女としてその名を広く知られた存在なのである……。
「ぬかったわ。私としたことが自分の管理を誤るだなんて。やはり練習で作ったアップルパイを残さず食べていた事が原因ね」
そうと分かればあとはあとは単純な問題である。自らを磨き、再び弟を振り向かせるだけだ、とそうティナは考えていた。
「……こんなところで何をしている?」
突如後ろからかけられた声にティナは内心驚きつつもそれを決して表には出さず、声の主に背をむけたまま、ため息をつく。
「……クラウス兄さん。いい加減気配を絶ったまま私に声をかけないでください」
「気配を絶つ? 笑わせるな。この程度見破れないようであいつの教育係が務まるのか?」
クラウスのその言葉にむっとしたティナは振り返る事もせずその場を去ろうと前に足を進める。
しかし、クラウスはティナが不機嫌になった事などまるで意に介さずにその背に続く。
「あいつがこの先どう成長するかは私達にかかっている……以前お前は俺にそう言ったな」
「……ええ。言いましたがそれがなにか?」
依然としてティナは止まることなく進み続ける。それでもクラウスの問いに答えたのは、いつもと違う兄の様子が気になっていたからだった。
「正直そう言われた時は、心からお前に失望したよ。何故ならあいつ――ベル・ベートは俺達と同じ血が流れていることが不思議なくらい、グズで鈍間で救えないようなバカだったからだ」
ティナの歩みがピタリと止まる。既にその身からは抑えきれない魔力が怒りによって滲み出ていた。
しかし、それでもクラウスは止まらない。
「この国では俺達兄妹を知らぬものはいない。俺は剣技を、お前は魔法の道を歩み、血の滲むような鍛錬を続けてきた。俺は自分が誇らしい。今俺が手にした名声は何を隠そう自分自身で掴み取ったものだと自負しているからだ。それと同時にティナ、お前の事も俺は兄として誇らしかった」
「……お褒めにあずかり光栄です」
はっきりと兄から受けた賛辞をティナはそのまま受け取らなかった。
何故なら続く言葉はティナにとって毒にしかなり得ないと分かっていたから。
「だからこそ、許せなかった。俺たちの影に隠れ、のうのうと無能を振りまくアイツが。剣技を教えても真面目に取り合わず、女の尻ばかり追いかけるあいつが心底憎らしい」
ティナにとっては耳の痛い話だった。事実としてベルはお世辞にもこれまで貴族らしい生き方をしてきたとは言えない。しかし、それでも――。
「人には向き不向きがあります。クラウス兄さまには剣が。そして私は人より少しだけ魔道に明るかっただけのこと。ベルはまだ10歳です。何も今道を決めなくてはならないという事は無い筈でしょう?」
この時ティナは初めて兄、クラウスに面を向けて言の葉を紡いだ。
ティナが心から思う事まで背を向けて話すべきではないと思っていたからだ。
ベルはたしかに今はこれといって何かが上手くできる訳ではない。しかしティナは知っていた。いや、信じていたと言い換えてもいい。
今まで多くの時間をベルと過ぎしてきたティナだからこそ確信できるのだ。
弟、ベルの持つ才能は、私達ごときで測れるものではないと。
事実、兄クラウスは知らなかった。
つい先ほど、天才魔術師と謳われながら武術にも明るいティナが為す術も無くベルを取り逃がしたという事実を。
しかし――。
「なるほど。確かに耳障りの良い正論だな」
ティナはここにきてようやくその違和感に気づく。いつも以上にベルに対して怒りの感情を兄が抱いているという事に。
「……兄上? 一体なにがあったと――」
「しかし、それはあいつがただの庶民であったならばの話だ!!」
クラウス自身ももはやこの怒りをどう表現していいか分からなかった。
「あいつはベート家の三男だ! 無能を無能のままにしていい筈がない!」
クラウス・ベートは良くも悪くもベート家を、そして貴族である事を誇りに思っていた。
嫌いな弟に今まで剣技を教えようとしたのもそうした理由からだ。
しかし、その度にだらしのない弟を見て、クラウスは心に小さな怒りを蓄積させていたのだ。
そんな時に例の出来事だ。
クラウスにとっては事件と呼称してもなんら不思議ではないアレだ……。
そう――ベート家長男、クラウス・ベートの唯一と言っていい至福の時間をベルは邪魔してしまったのである。
それはクラウスにとって青天の霹靂のような出来事だった。
何故ならクラウスは戦場にいる時以上に周囲に気を配り、あまつさえ自らの部屋に何重ににも防御結界を敷いていたのだから。
しかし、事実としてベルはその結界を破りクラウスの室内に到達してみせたのだ。
無論、突然態度が嘘のように変わっていた事などを含め、他にも気になる事は多々あったが、それすらもいずれ分かる事だとクラウスは考える。
「……喜べ妹よ。もう少しであいつの真価が分かる。ベート家にふさわしいか否か……それを決めるのは他でもないあいつ自身だ」
「……一体、何をするつもりですか?」
既に廊下中を埋め尽くさんばかりにティナの魔力は広がっている。常人であれば立っている事のできないようなその空間で、クラウスは鋭い視線をティナへと向けていた。
「決闘を申し込んだ。無論、ハンデはつけてやったが――」
瞬間、クラウスのすぐ横を魔力の塊が奔る。
その力は長い廊下の最奥へと瞬き一つも許さないスピードで到達し、飾られていたブロンズ像を粉々に破壊する。
「その決闘は……行われません……」
ゆらりゆらりと、ティナが前へと歩を進める。
その様は地獄を彷徨う魔物を彷彿とさせた。
既にその目に明るい生気は無く、あるのはただ純粋な殺意の炎だけである。
それすらもクラウスは涼しい顔で待ち構える。
否、待ち構える気など無い。
クラウスもまた既にその手に剣の柄を握り、圧のある敵意をティナへと放っている。
常人であればその視線を向けられただけで昏倒必至である。
もはや衝突は必至――。
その時だった。
「大変です! ベル様が!」
メイドの女が発した緊迫した声を二人は同時に聞いた。
そして要件など聞かずに既にティナは走り出していた。