私的芸術論 緊張を要する美と、心が穏やかになる美について
前半は14か15年前に、後半は昨年書いた文章です。
芸術すなわち美を論じることは難しい。どういう芸術を最高と感じるか といえば、一見、平凡に見えて実は奥が深い。そういうものこそ最高なのであろうと感じる。
何の気負いも衒いもなく、普通の人には分からない。そのことに関し て 相当な素養をもつ、すなわち分かる人にだけ分かる。そんな芸術だ。
文章しかり、音楽、絵画しかり、建築、彫刻しかり。書、陶芸・・・あらゆる 芸術 においてきっと、そうなのであろう。
しかし、残念ながら、私はそのような境地にまで到達することはできなかった 。
ある芸術にふれてひどく感動することはままあった。文章を読んで、そのようになるケースが最も多かったが、音楽についてもそのように感じることはままある 。
自分が感動できる芸術こそ、自分にとって最高の芸術。素直にそう思えばよい 。
が、この「感動」というもの、いささかやっかいな心の動きではある。毎日、毎日 感動していたらひどく疲れてしまう、ということだ。
それほど大きな感動はないが、そのものにふれていると快い。そういう種類の芸術もまた存在する。私にとっては多くのものが、そこに分類される。
それは常に身近にいてもらってもうるさくない、私にとって居心地のよいものである。
ひとつ例をあげれば、深い精神性だとか、抽象的概念などというものに煩わされていない、人の欲望に素直な、俗な豪華さ、類型的な壮大さ。そういうものが伝わってくる芸術は、私にとって居心地が良い。
以下2017.11.29記
世の多くの人が大きな感動を受ける圧倒的な美というものがある。それは、分かり易く大衆的な美ということもできよう。
世の多くの人には分からないが、そのことについて高いレベルの素養と見識、そして豊かな感受性を持ち合わせる人にだけわかる美というものもある。それは高踏的、貴族的で、品格をもった美とも言い得よう。
(前衛的芸術における美については、ここでは論じない。総じて、論じたいと思うほどの愛着も無い)
この前者の美にしろ、後者の美にしろ、それが極めて高い美だということを認識すると、私はその美に対しては、緊張感をもって接することになる。
ただし、後者について、私にその美が認識できる、素養、見識、感受性があるわけではない。書物、解説本により、その種の美をもった芸術品であるらしい、と知るだけのことである。
だが、そういう私であっても、ある美術品、芸術にふれ、世評通りに、あるいは世評とは異なっても、深く感動する、魂がふるえるような気持になることもある。
が、多くの場合、その対象に接しているのが辛くなる、場合によっては苦痛を感じることもある。
ある年代の時までは私は、それが私にとっての最高レベルの美であるから、その緊張感に堪えられないということなのであろうと認識していた。
そして、10数年前に書いているが、私にとっては、それほど大きな感動はないが、ちっともうるさくない、居心地のよい美もまた存在する。それについては、私にとっては、それは最高の美ではないから、安心して接することができるということなのであろう、と認識していた。
だが、美の高さとはいったい何なのだろう。
書物を読めば、識者の間で、それが歴史的に見て、どの程度にランクされている美なのかということは分かる。
それでいいのではないか。
メモとしての知識、それで充分であり、私は私の感受性に従って、芸術に接していけばよい。
そして、私にとっては、いかに深く、感動し、魂がふるえるような気持にさせられても、それが、接していて辛くなり、苦痛を感じるのであれば、それは、私にとっては、その美は、慎みのない過剰な美ということになるのであろう。
ちっともうるさくない、居心地のよい美。それが、私の感受性にもっともしっくりくる美。それだけのことなのではないか。
近年はそのように思っている。
さらには識者が、見巧者が、良い、と言うので、私もそのように感じる、借り物の感受性であっても構わない。それは己の主観を廃し、識者の感性に従うということなのだから、それはそれで良いと思う。