卑怯者であることに
桔梗は儚宅の庭先のテーブルで、きな粉がたっぷり塗された三井寺力餅を食していた。
「大津に来たら、これ食べへんと」
本当は出来立てホヤホヤを食べれた方が良いのだが、これは儚のお母さんのご厚意で出されたものだ。贅沢は言っていられない。
竹櫛に刺さった餅を一口食べれば、お餅とは思えないほどのとろりと柔らかいお餅と芳醇なきな粉の香りが一気に広がる。
一緒に置かれた冷たい焙じ茶とも相性が良く、まさに至福のひと時だ。
それにお菓子が大好きな百合亜や藤も、お餅ときな粉の組み合わせだと、いまいち受けが良くない。
それよりも、湖で遊ぶ方が魅力的に感じているのだろう。
「ほんまに……このお餅なら何本でも食べられそう」
冷たい焙じ茶で、口の中に残るきな粉を流し込みながら、桔梗が幸せ一杯な息をつく。
するとそこへ、儚のお母さんが『輝夜』という名前の赤ん坊になっている鬼絵巻を抱っこして、桔梗の元へとやってきた。
「すみません、桔梗さん。輝夜ちゃんが起きたみたいなんやけど、何か飲ませます?」
輝夜が特殊な存在である事は、儚の母親にも簡単にだが説明している。
けれど、やはり見た目が赤ん坊である以上、子を持つ親としては気にかけてしまうのだろう。
「それじゃあ、僕が飲ませて起きます。昨日、粉ミルクを買ってきて飲ませたら、飲みはったんで、持って来てるんですよ」
そう言って、桔梗が儚の母親から輝夜を受け取る。
腕の中にやって来た輝夜は、人間の赤ん坊と同じように短い手足をバタつかせている。
こうして至近距離で触れても、鬼絵巻の反応は殆ど感じられないのだ。
「主、本当にこの赤ん坊が鬼絵巻だと思いますか?」
儚の母親が家の中へと消えたあと、隣に座る椿鬼が声を掛けてきた。
隣にいる椿鬼も、鬼絵巻の気配の希薄さに疑心暗鬼に掛かっているのだ。
「これまでの戦いで鬼絵巻が今みたいな状態になった事はあらへんの?」
桔梗の疑問に椿鬼が静かに首を横に振る。
「いえ……。これまでは鬼絵巻がこんな風になる事はなかったのです。なので、少なからず私たち従鬼の中にも動揺は広がっています」
「成る程ね……。うーーん、やっぱり今回の鬼絵巻は今までとは、大分違うみたいやね」
「やっぱり、ですか?」
桔梗の言葉が引っ掛かった椿鬼が、疑問符を浮かべてきた。
そんな椿鬼に桔梗が苦笑を浮かべる。
「うん、そうやで。僕もとある人から入れ知恵されたんやけどね。今回は、鬼絵巻を集めて、はい、終わり……にはならへんみたいやから」
「つまり、鬼絵巻が完成するという事でしょうか?」
目を丸くさせた椿鬼が自分の顔を注視してくる。
「断定はできへんよ。ただ完成する可能性が凄く高いっていうだけで。それで、僕からも一つ椿鬼に質問してもええかな?」
桔梗が椿鬼にそう訊ねると、椿鬼が真面目な表情で頷いてきた。
「瑠璃嬢が僕らの契約書を破壊しようとしたとき……どうして、君はあんなに怯えはったん?」
闇討ちで襲いかかって来た瑠璃嬢から、何とか契約書を死守したが……その後の椿鬼はとても怯えていた。
そしてそれは、闇討ちをしてきた瑠璃嬢や魑衛に対してのものではないだろう。
訊ねられた椿鬼の表情に、戸惑いと動揺が走っている。
「答え難いんやったら、今は無理して言わんでもええよ。ただ訊ける時に訊いておこうと思っただけやから」
口を固く閉じ、顔色を悪くする椿鬼を桔梗が宥める。
しかしそんな桔梗の言葉は、椿鬼の耳に入っていなかったようだ。
「実は……前回の戦いで、私は目撃してしまったんです。我々従鬼と主の契約書が燃やされる所を」
椿鬼の告白に桔梗が思わず眉を寄せる。
「ごめんね。さっき聞かへん言うたばっかりやけど、詳しく聞かせてくれる? 今後にも関わる事やから」
「はい……。主がそれを望むのでしたら」
「じゃあ、まず……核心を訊くね。誰が従鬼との契約書を燃やしはったん?」
問う桔梗の表情が自然と厳しいものになる。
そんな桔梗の姿に少し萎縮した様子で、
「契約書を燃やしたのは……ーー」
契約書を燃やした人物の名前を告げてきた。
(つまり、失敗したって事やな……)
名前を聞いて、桔梗は合点がいった。
「目撃したって事は、何故その人が契約書を燃やしたのかまでは、分からへんのやろ?」
念のために桔梗がそう訊ねると、椿鬼がコクンと頭を頷かせてきた。
「何故、燃やすに至ったのかは分かりません。特別、仲が良かったわけではありませんが、不協和音でもなかった。だから、その理由が全く思い浮かばなくて……」
「謎やね。でもまだ君への疑問は解消されへんね。それを目撃したことによって、君が怯える必要があるの? それともそれに加担してはったん?」
見てしまっただけの人物がここまで怯える必要はない。考えられるのは、椿鬼が契約書を燃やす事に加担していたという流れが自然だろう。
けれど、そんな桔梗の予想は首を大きく降った椿鬼によって否定された。
「違いますっ! 私はそのような事はしておりませんっ! ですが、ですが……私が卑怯者である事に違いないのですっ!」
目から涙を流しながら椿鬼が嗚咽を漏らしている。
そしてそんな椿鬼の声音に驚き、桔梗の腕の中にいた輝夜が大きな声で泣き出してしまった。
輝夜の鳴き声に、水辺で遊んでいた櫻真たちがこちらを注視してきた。
「椿鬼、ここでのこの話は終わり。少し気持ちが落ち着くまで透過しはってて。後は僕が宥めるから」
「……はい、申し訳ございません」
「気にせんでええよ。僕も肩の力入れ過ぎてしもうたから」
姿を透過させる椿鬼にそう言って、桔梗は櫻真たちの方へと視線を向ける。
(まだまだ、大変な事は続きそうやな……)
輝夜の泣き声に驚き、櫻真たちは桔梗の元へと走り寄った。
普通の赤ん坊が泣いただけなら、慌てる必要はないだろう。むしろ自分たちが駆け付けた所でやれる事はあまりない。
しかし、輝夜は普通の赤ん坊ではなく鬼絵巻が擬人化したものだ。
何か特別な事が起きたとしてもおかしくはない。
けれど駆け付けた先の桔梗は、テーブルの上に儚の母親が買ってきたお餅を広げており、椅子に座ったまま泣く輝夜の背中を優しく叩きながらあやしているだけだ。
「桔梗さん……何か起きはったんですか?」
櫻真が桔梗の腕の中にいる輝夜を一瞥しながら訊ねる。
「いや、特にないよ。起きたてやから、愚図ってはるのかもしれんね」
「そうだったんですか。起きたてて愚図りはるとか……ホンマに人の赤ん坊に似てますね」
頬を少し掻きながら、櫻真が苦笑を零す。
「ホンマやねぇ。僕もついつい忘れてしまいそうやわ。この子が鬼絵巻であることを。それで、どうして瑠璃嬢と蓮条君は、そんな疑いの視線を僕に向けてはるの?」
桔梗が櫻真の横に立つ蓮条と瑠璃嬢に、心外とばかりの表情を浮かべている。
けれど瑠璃嬢と蓮条は、そんな桔梗に目を細めさせたままだ。
「とかいって、アンタ……あたし達が油断している間に鬼絵巻に何かしようとしてたんじゃないの?」
「今もしっかり腕の中に抱えてはるしな……」
どうやら、瑠璃嬢と蓮条は桔梗が鬼絵巻に対して、行動を起こしたと思ったのだろう。
「でも、今の状態だと鬼絵巻を回収する事は出来へんのやろ?」
二人の気持ちも分からなくはないが、本当に桔梗が鬼絵巻(輝夜)に対して何かアクションを起こしたのかは不明だ。
そのため、櫻真が桔梗の擁護に入る。
するとそんな櫻真に瑠璃嬢が辟易とした溜息を吐いてきた。
「櫻真は本当に考えが甘いね。これは鬼絵巻のことに関してだけじゃなくて、社会に生きていく為に言っておくけど、あんまり他人を信用し過ぎない方がいいよ? アンタみたいに信じやすいタイプがいるから、詐欺する奴が減らないんだから」
「それって、騙される人が悪いんやなくて、騙す人が悪いんとちゃう?」
櫻真が瑠璃嬢の言葉に唇を尖らせる。
けれど、そんな櫻真に対して瑠璃嬢がしれっとした表情で、
「自己防衛を心掛けるのは大切でしょ? そうじゃなかったら、アメリカが銃社会になってないから」
櫻真に向けて、銃を撃つ仕草をしてきた。
「そんな事言って、この中で桔梗に一番世話になってるのはアンタやろ? 恩を仇で返すのはやめた方がええんとちゃう?」
儚が瑠璃嬢に目を細めると、瑠璃嬢が誤魔化すように肩を竦めさせてきた。
「それはそれ。これはこれ」
「うわぁ、ナチュラルに自分の事を棚に上げてきよった」
儚が瑠璃嬢にドン引きした表情を浮かべていると、そこへ……
「桔梗の信用性がないのはしゃーない、しゃーない」
いつの間にか水着に着替え、百合亜と藤を遊ばせていた浅葱がやってきた。
ニヤリと笑みを浮かべる浅葱に桔梗が眉を顰めさせる。
「貴方に言われたら、僕もおしまいですよ」
「何言うてるん? ほら、僕と桔梗の顔を比べて、どっちが人を騙しそうか考えたら、絶対に桔梗が選ばれるやん」
「根拠がまるでないですね。むしろ安心して下さい。浅葱さんも十分、人を騙しそうですから」
「僕にそう言うって事は、櫻真と蓮条にも同じことが言えるんやで? うわぁ、可哀想に〜〜」
「分かってないですね。人の顔は内面からも作り出されるんですよ。つまり、櫻真君たちは浅葱さんのように内面が汚れてないので、大丈夫です」
桔梗と浅葱がそんな子供染みた言い合いをしていると、桔梗の腕の中でいつの間にか泣き止んでいた輝夜が身を乗り出すように櫻真の方へと手を伸ばしてきた。
反射的に櫻真が輝夜を支えるように抱っこする。
櫻真に抱き上げられた輝夜が、声を出さずに足をバタつかせて喜んできた。
「ほら、鬼絵巻も櫻真に抱っこされる方が嬉しいみたいやで?」
浅葱の言葉に桔梗が微かに反応を見せる。
「まさか、これで鬼絵巻が選んだって事にならないでしょ?」
「いや、まだだろう。葵という女の話だと鬼絵巻としての機能を持たぬと。ならば、今のこの行動は単なる気まぐれ、と考えた方がいい」
「いや、どうだろうな」
瑠璃嬢を宥める魑衛の言葉に、魁が一石を投じてきた。
そんな魁に魑衛が不服そうに眉間に眉を寄せている。
「何故だ?」
「機能はなかったとしても、自我があって、記憶もあるとしたら……選考にも大きく影響してくるんじゃないか? とは言っても、これは俺の憶測に過ぎねぇけどな」
けれど最後の魁の言葉を聞いている者は少なかった。
「櫻真、その赤ん坊をあたしに貸して」
「えっ、嫌や。今、俺が抱っこして落ち着いてはるんやから、下手に移動させへん方がええよ」
「じゃあ、櫻真。次は俺が面倒みるわ」
「じゃあ、ウチは蓮条の後!」
「はぁ? ちょっと後から出てきて変な事言わないでくれる? 最初に言ったのはあたしだから」
輝夜に取り入ろうと、必死になり始める櫻真たち。
そんな櫻真たちに百合亜が眉を寄せて異議を唱えてきた。




