晴れの日は来る
櫻真たちがいるプライベートビーチから、少し離れた大衆海水浴場に陰陽院に属した佳はやってきていた。
ここに来ているのは、紫陽、隆盛、彩香、穂乃果、明音、遠夜と自分の7名だ。
「あともう一人、ここで落ち合うはずなんだけどね。何処にいるのかな?」
運転席から降りた紫陽が端末を弄り、首を傾げさせる。
「待ち合わせ場所とか決めてねぇーのかよ? 紫陽も割と抜けてんなぁーー」
「隆盛がそれを言える義理はないと思いますよ?」
「はぁ? 何でだよ?」
「何で、ではありません。隆盛はここに連れて来てもらっただけなんですから。何もしてないのに、紫陽さんを責める事は出来ませんよ」
隆盛の軽口を真面目に説教する彩香。それを見て、穂乃果が「色気のないじゃれつき、アホくさ〜〜」と呟いている。
これだけ見れば、他の海水浴客と同じ他愛ない光景の一つだ。
関東圏から来ている彼らにとって湖水浴は物珍しく、心が浮かれるのも分かる。
しかし、自分たちは湖水浴を楽しみに来たのではない。この琵琶湖に鬼絵巻があるという情報を受けて、急遽こちらにやってきたのだ。
(でも、この調子で鬼絵巻を無事に回収できるんやろうか?)
心中で佳が溜息を吐く。
そして、昨日の櫻真の言葉が佳の脳裏に浮かんでくる。
『陰陽院の人たちが集めて、それで災厄は起こらへんの?』
温和だと思っていた櫻真からの攻撃的な言葉。
佳はその言葉に返す言葉が全く出てこなかった。悔しいけれど、佳の中でも思ってしまったのだ。自分たちが鬼絵巻を回収したとして、災厄を止める事は出来るのかと。
自分を陰陽院に誘ってきた紫陽は、佳には鬼絵巻を浄化する力があると言っていた。
しかし、それは本当なのだろうか?
この中で一番、声聞力が弱い自分にそんな事ができるのか?
自分に大業を成せる力がある、という実感がまるで湧いていないのに。
(アカンな。変な風に弱気になってしまっとる……)
心中に生まれる不安を振り払うように、佳が視線を琵琶湖の方へと向けた。
駐車場から見える琵琶湖の水面は、陽の光を浴びてキラキラと光っている。
その水辺では、水着に着替えた人々が楽しそうな声を上げていた。
こんな何気ない風景が脅かされてはいけない。そのために、自分の気持ちを揺らしていけないのだ。
「おい、アレは何だ?」
怪訝そうな表情で疑問を口にしていたのは、佳とは別の方向を見ていた遠夜だ。
遠夜の視線の先には、渦を巻く風の柱が見える。
だが、眼下の砂浜にいる人々が何の反応も示さないということは、あれは自然現象ではない。
「䰠宮の……声聞力の気配を感じるね」
そう言ったのは、微かに目を細めさせた紫陽だ。
そして風の渦はまるで導かれるように、こちらへとやってくる。
「ちょっと、待って。あの中に誰か人がいるみたいっ!」
風の中にいる人物に気づいた明音が彩香と一緒に目を丸くさせている。そしてその人物の姿を佳も捉えていた。
「術式に巻き込まれたのか!?」
隆盛が慌てた様子で術式を詠唱し始める。
けれどそんな隆盛の詠唱が終わるより前に、風の渦がこちらへと到着した。
そこから何事もなかったかのように、一人の女性がふわりと降りてくる。
「皆様にご心配を掛けてしまい、申し訳ございません」
行儀の良いお辞儀で謝罪をする女性。
そんな女性の態度に佳は軽く困惑した。
「あの、大丈夫なんですか?」
恐る恐る佳が女性に訊ねる。すると女性は余裕のある女性的な笑みを佳へと返して来た。
「ええ。大丈夫ですよ。声聞力がない方からは見られない様にする為の術式は掛けてましたし……ちゃんと守護の術式も掛けていましたから。ですが随分お早いご到着ですね。私が連絡を入れてから、一時間ほどしか経っていませんよ?」
どうやら、彼女が紫陽の方へ鬼絵巻の情報を流した張本人のようだ。
小首を傾げる女性に佳が小さく肩を竦めて答える。
「大津市は、京都から割と近いですから。でもどうして、その風の中に? あっ、先に自己紹介をしておきます。俺は祝部佳って言います。最近、こちらの陰陽院の方に入らせて頂きました」
疑問を口にした後で、自分の名前を名乗ってなかったことに気づき、慌てて佳が名前を言う。
「まぁ、ご丁寧にどうも。私は立川夜鷹と申します。貴方も䰠宮に負けず劣らずの古い血脈の方ですね。ええ、とても素晴らしいです。血脈とは凄く大切なものですから」
「……はぁ。とは言っても俺の家は䰠宮より廃れてしまってますけど」
自嘲気味に佳が頭を垂れる。しかし、そんな佳に夜鷹が目を見開いて来た。
「まぁ、そんなにお嘆きにならないで宜しいのですよ? 現に䰠宮の中にも祝部の血は幾度となく混ざっております。大きな声を上げずとも、歴史がその有能さを物語っているのですよ。ですが、䰠宮の中には邪が混ざっていると思われます」
「邪ですか?」
不穏な言葉に佳が眉を寄せる。
自分と同じく夜鷹の言葉を聞いていた隆盛たちも一斉に表情を険しくさせた。
そんな一同の顔を見て、夜鷹が肩を竦める。
「はい。そしてその邪は血脈に混ざっているのか、それともあの場にいた内の誰かがそれを
醸し出していたのかは、定かではありません。けれど私、ビンビンに感じ取りましたよ、その気配を」
「ビンビンに……」
夜鷹の言葉に隆盛が生唾を飲み、意味深な表情で女性が頷く。
「それは、声聞力があれば誰でも感じ取れる気配なんやろうか?」
佳が夜鷹に訊ねると、夜鷹が少し考えてから首を降ってきた。
「もしかすると難しいかもしれませんね。私が言う邪は人の業が拵えるもの。ですから人の業を受け止める事が出来なければ、感受できないかもしれません」
「そうですか……」
何とも曖昧な返答だ。
この答えだと今後櫻真たちと接触したとしても、その気配を探れない。
佳が夜鷹の言葉に肩を落としていると、隆盛が口を開いてきた。
「邪とか業とか、どっちでも良いけど……そんなの悩んだって仕方ねぇだろ? 今の俺たちがやるべき事は、あいつらよりも先に鬼絵巻を手に入れる。それだけだ」
考える事を放棄したといわんばかりの隆盛の言葉。
けれどそんな少年の言葉に、モヤモヤとしていた胸中が少しだけ救われた様な気がする。
「確かに。住吉の言わはる通りやな」
「だろ? 夜鷹が感じた邪だって鬼絵巻を追ってる内に出てくんだろ」
両手を頭の後ろで組みながら、隆盛が楽観的な笑みを浮かべてきた。
「隆盛君のそういうポジティブな所、穂乃果は嫌いじゃないよ。だから、穂乃果が良い子、良い子してあげようか?」
「良い子良い子って……子供じゃあるまいし、そんな事で喜ぶかよっ」
にんまりと笑う穂乃果の言葉に、隆盛が不服そうに鼻を鳴らす。
「えーー、たまにいるよ〜? 撫でられたいっていう男の人。ねっ? 百瀬ちゃん?」
「わ、私に変な事を振らないでくださいっ!」
(頭を撫でられたい男の人って……)
妙にマニアックさの香りがする穂乃果の話に、佳と隆盛の気分が一気に白ける。
けれどそんな話を間近で聞いても、夜鷹はニコニコと笑っている。
「あらあら。皆さん凄く元気な方たちですね。前向きなのはとても良い事です。極楽浄土に向かう為には、それは、それは厳しい修業を耐え抜かなければいけませんから。けれどその前向きな気持ちと体力があれば、どんな苦境にも耐える事ができるでしょう」
佳たちを見る夜鷹の微笑みには、全てを包み込むような優しさを携えている。
しかし、そんな夜鷹の事を遠夜が胡乱気な視線を向け、紫陽がやれやれといわんばかりの表情を浮かべている。
「まぁ、お二人ともどうかなさいましたか?」
二人の表情に気づいた夜鷹が視線をそちらへ向ける。
「いや、貴方のその熱心さは昔から変わりませんね。さすがの僕でも脱帽します」
「いえいえ、そんな……私はまだまだ未熟者。勿体無いお言葉です。それで、遠夜様とおっしゃいましたか? 貴方はどうかしました?」
「お前から䰠宮葵の臭いがする。それは何故だ?」
鋭い視線で夜鷹を遠夜が詰問する。
そして遠夜の言葉に、明音や彩香が表情を強張らせる。
「䰠宮葵って……彩香たちを変な術式で眠らせた女だろう?」
そう言ったのは、少し腹を立てた様子の隆盛だ。
「まぁ、皆様はもうあの方と親睦を深めていたのですね? ええ、つい先ほどまで彼女とは一緒に居りました。同じ風に巻かれていたので」
「同じ風に巻かれてたって……何で䰠宮の奴が同じ䰠宮を風で吹っ飛ばすんだよ?」
「何故でしょうね? 正直、私たちは風で吹っ飛ばされる様な事はお話していなかったのですが……きっと彼方の方にも色々と事情がおありなのでしょう」
視線を下げて、夜鷹が憂げな表情で溜息を吐いている。
「あの、そこに俺と同じくらいの年の男子は居はりました?」
「ええ、居ましたよ。見目麗しい少年が。けれど私たちに術式を掛けたのは、紫陽様くらいの年のまたまた見目麗しい男性でしたが。その子がどうかしましたか?」
「あっ、いえ……そいつは俺の同級生なんです」
尋ね返してきた夜鷹に佳が顔を下へと背けて、苦笑を零した。
櫻真の事を『同級生』だと紹介した自分の声音に、ちょっとした距離を感じる。
昨日の出来事が脳裏を掠めた所為で、櫻真に対する気まずさが滲み出てしまったのかもしれない。
するとそんな佳に夜鷹が口を開く。
「少し複雑な心境になっている様ですね。ですが、ご安心下さい。空を覆う曇天がこの先雨を降らせようとも、必ず晴れの日は参ります」
温かみを含んだ励ましの言葉。
そんな言葉に佳が下げていた顔を上げると、彼女が柔らかく微笑んでいた。
「そうですね。だったら俺はその日が早く来はるように、頑張らないといけませんね」
胸の底に沈殿するスッキリしない気持ち、その全てが拭えたわけじゃない。
しかし、それでもぼんやりとしていた“櫻真と戦う”事への覚悟が固まったような気がした。




