事件の予感
櫻真たちはボートでやってきた葵の姿を見て、げんなりとした気持ちになっていた。
葵が来る=厄介事があるに等しいからだ。
「あら、ヤダ素敵。皆んな、葵に会えた歓喜から言葉を失っているわ」
葵の言葉にその場にいた全員が首を横に振る。
「おほほ。まさかのシンクロ率。まさか、所々で藻が浮いていそうな湖でシンクロナイズド・スイミングでもする気? 葵は謹んで辞退するけれど」
櫻真たちの萎え顔を見ても、全く気にする様子を見せない葵。
そんな葵に一番初めに声を掛けたのは、訝しげな表情を浮かべる桔梗だ。
「君、何で来たん? むしろ何処からの情報で此処に?」
本当は喋り掛けたくない、けど訊かずにもいられない、そんな気持ちを織り交ぜた桔梗の声音。
そんな桔梗に葵がニンマリと笑みを浮かべてきた。
昔流行った、北海道のマリモのマスコットキャラのような顔に似ている。
「いやぁね〜〜、桔梗ちゃんの隠し子が此処にいるって聞いて、飛んで来たんじゃない」
「来なくてええから、早よ、帰りはって。あと僕の子でもないから」
「またまたぁ〜〜。きっと桔梗ちゃんも思うはずよ。葵がいてくれて本当に良かった。僕の可愛い子を母親に取られずに済むって」
「……それ、どういう意味?」
葵の言葉に桔梗が眉を顰めさせる。
「あら、聞こえた言葉の通りよ。もうすぐ、その子の母親がやってくるの。自ら捨てた子が口惜しくなって……」
よよよ、と着物の袂で口元を隠す葵に、さらに桔梗の表情が険しくなる。
「そんな詰まらない作り話はええから。君は、あの子がどういう存在か知ってはるんやろ?」
「あら、作り話なんて酷いわ。プンプン」
「ホンマに殺意が芽生えるから、そういうの止めて。百合亜たちも遊びだくてウズウズしとるし、無駄話はナシや」
桔梗が葵をキッと睨みつける。すると葵がしょんぼりとしてきた。わざわざオーバーなリアクションで。
「あーーあ、あーー。せっかくの隠し子ネタだって言うのに……こんな初期の段階でネタバラシ。マジで萎え萎え〜〜。下げポヨヨ。ぴえん過ぎてどうしようもない」
葵の盛大な呟きに、この場にいる従鬼たちが一斉に抜刀の体制を取る。
「はいはい、そんな物騒な物を取り出さないで頂戴。葵は逃げも隠れもしないのだから。そうよ、桔梗ちゃんの手元にいる赤子はただの赤子ではない。それは100時間経つと、見目麗しい少女になるのよ。輝夜という名の通り、急成長を遂げるのよ。まぁ、女の成長は男が思っているよりも早いのだけど……」
従鬼たちからの殺気に観念したように、葵が口を割ってきた。
「姉さん、さっき100時間って言わはったけど……それはいつから数えてなん?」
葵の話の中で櫻真が気になった事を訊ねる。
するとそんな櫻真の質問に葵が目を細めて笑ってきた。マリモ笑みの再来だ。
「実は……今日の子の刻」
「子の刻と言っても、初刻、正刻、終があるじゃろ? それの何処を指す?」
桜鬼がさらに言及する。
すると、葵が首を軽く竦めてきた。
「そこまでは……ちょっとぉ……諸々誤差もありますしぃ。今夜って分かっただけでも、良くなぁい?」
誤差って何だ? と櫻真を含めて誰もが思っただろう。
けれどそんな全員の疑問を無視して、葵が再び口を開いてきた。
「しかもね、今回の鬼絵巻を回収するには……鬼絵巻に選ばれる必要があるのよ」
「鬼絵巻に選ばれる?」
「ええ、そうよ。だから鬼絵巻争奪戦は、今日の夜からスタートですっ!」
「……つまり、赤ん坊の姿だと鬼絵巻としての機能が成熟してないのかもしれないね」
ウィンクを飛ばしてきた葵を見なかった事にして、桔梗が思案の表情を浮かべている。
「じゃあ、今回の鬼絵巻は強い自我があるって事?」
「自我か……。最初に出てきた撹運みたいなのやったら最悪やな」
瑠璃嬢の言葉で、蓮条が苦虫を噛み潰したような表情を浮かべている。
「でも、可能性はあるね。そもそも鬼絵巻の力の強さに個体値があるのかは分からへんけど、今回と最初の時の鬼絵巻には名前がある。つまり、僕たち術者を洗脳するだけの力があるかもしれん」
桔梗が話す憶測に、櫻真が眉を顰めさせる。
するとそんな櫻真に桜鬼が言葉を掛けてきた。
「櫻真、そんな顔をするでない。まだ何も起こってはおらぬ」
「桜鬼……うん、そうやな。桜鬼の言う通りやな」
自分を元気づけてくれた桜鬼に、櫻真が柔らかい笑みを向ける。
するとその一瞬、桜鬼が凄く切なそうな表情を浮かべてきた。
(えっ……?)
櫻真がそんな桜鬼の表情に驚いて目を見開いた瞬間、一転して桜鬼がいつも通りの笑顔を作ってきた。
「うむ。とりあえず……あの鬼絵巻が動き出すまでに猶予はあるのじゃ。それまで、湖水浴を楽しもうではないか! のう、櫻真?」
「あっ、うん。そうやな……」
普段通りの桜鬼の言葉に、櫻真は少し戸惑いつつも頷いた。
(さっきのは……気の所為だったんかな?)
ちょっとした桜鬼の異変に櫻真が首を傾げさせる。
けれど、そんな櫻真の手を桜鬼が掴んで水辺の方へと引っ張ってきた。
自分の手を引く桜鬼は、やはりいつもと変わらない様子だ。
そんな桜鬼と櫻真を見ていた葵が弾んだ声を上げる。
「うふふ。面白い事になってるわねぇ」
けれどそんな葵とは反対に、口を閉ざしたままの鬼兎火が険しい視線を桜鬼へと向けていた。
初めて入る湖の冷たさのおかげで、一瞬胸に走った痛みは和らいでいた。
無邪気に水を掛け合ったり、ビーチボールで一緒に遊ぶ櫻真の顔が、凄く楽しそうだからだ。
ビーチボールに興じているのは、櫻真、蓮条、儚、桜鬼、鬼兎火の五人だ。
すぐ近くの砂浜では、桔梗と椿鬼が百合亜たちと共に砂遊びをしている。
「向こうは、本当に大丈夫かしら?」
溜息混じりにそう呟いたのは、ビーチボールを手にした鬼兎火だ。
鬼兎火の視線の先には、今から競泳をしようとしている人の姿がある。
競泳をやろうとしているのは、瑠璃嬢、魑衛、魁……そして魘紫の四人だ。
「何で? 何か問題でもありはるの?」
蓮条が鬼兎火の心配に首を傾げさせている。
きっと、櫻真や蓮条、儚たちからすれば何の心配もない光景に見えるだろう。
けれど、桜鬼も鬼兎火ほどではないが少々眉を寄せていた。
「……あの中に魘紫が居なければ大丈夫だったのじゃがのう」
「魘紫? 百合亜の従鬼が問題なん?」
「魘紫の精神は無垢な子供そのもの。故に加減という言葉を知らぬ。そのため……」
桜鬼の言葉を遮るように、波のようになった大量の水が自分たちの元へ迫ってきた。
「えっ、琵琶湖で波って……」
琵琶湖では立つ事のない波を見て、儚が目を丸くする。
「でも、何で波が起きたん?」
「安心して。何も不可思議なことは起きてないから」
微かに動揺する櫻真に、溜息混じりの鬼兎火が波の起きた先を指差す。そんな鬼兎火の指の先を、櫻真たち三人が目を凝らして見る。
「あれって、えっ、嘘やろ?」
思ってもいなかった光景に蓮条が戸惑いの声を上げた。
櫻真たちが驚くのも無理はないだろう。
数メートル離れた所まで届く波を立たせたのが、バタ足をする魘紫の脚力が生み出しているのだから。
「魘紫の最大の武器は、あの脚力にあるのよ」
「じゃあ、ここに来る前に水上を走れるって言うてたのは……」
櫻真の言葉に、呆れ顔の鬼兎火が頷く。
「ええ。魘紫の脚力に依るものよ」
それを聞いた櫻真たち三人が、
「ちょっと待って。どんな脚力してはるん?」
「いくら従鬼だとしても、強化前であの脚力はチート過ぎるやろ」
「待って。ウチ、あの子と戦いたくないんやけど……あんな脚力で突っ込まれたら即死やん」
其々の意見を述べながら唖然としている。
「まぁ、魘紫は強敵ではあるけど……心配しないで。私たちだって対処がないわけじゃないわ」
「鬼兎火の言う通りじゃ。妾たちもこれまでの戦いを経て、魘紫への対策は考えておる」
得意げな表情を桜鬼が浮かべると、櫻真が少し安堵した表情を浮かべてきた。
「桜鬼がそう言わはるなら、安心やな」
櫻真の顔には、桜鬼に対する信頼が全面的に現れている。
自分を信頼してくれているのは嬉しい。けれど、その嬉しさの中に、桜鬼は痛みを感じてしまうのも事実だ。
桜鬼の脳裏にこの間の夏祭りでの光景が思い浮かぶ。
一人の少女に対して見せた、櫻真の表情。自分には向けられない事のないものだった。
その事実に気づいてから、不意に見せられる櫻真の優しさに痛みを覚えることがある。
勿論、櫻真が悪いわけではない。櫻真が自分に向ける優しさは紛れもない本物で、心の底から出ているものなのだから。
(先ほどのような顔をしたら、今度こそ櫻真に訊かれるかもしれぬ)
櫻真から心配されたとしても、自分が上手く返答ができるか分からない。
とはいえ、正直に自分の気持ちを云う勇気も今の桜鬼にはない。
今の自分の気持ち伝えれば、きっと優しい櫻真は自分を傷つけまいと返答に窮するだろう。
(そんな櫻真の姿など、見たくない)
ぎゅっと目を閉じるように、自分の気持ちに蓋をする。
そうすれば、櫻真を困らせる事も、どうしようもない自分の気持ちに頭を擡げさせる事もないのだから。
桜鬼がそんな事を考えていると、競泳をしていた四人がこちらへとやってきた。
一人を除いて、その顔には疲労の色が滲み出ている。
「本当に何なの? 百合亜の従鬼……」
「瑠璃嬢。魘紫など気にしてはいけない。此奴は加減という物を知らないのだ」
「昔から厄介だとは思ってたが、本当に厄介だな」
「俺の勝ち、俺の勝ち、俺の勝ち〜〜! やっぱり大人は図体デカくても大した事ないな」
瑠璃嬢、魑衛、魁がそう苦笑いを零す中で魘紫だけは、満面の笑みだ。
「強化もなしに、貴様の脚力に敵うものなど中々おらぬとは思うがのう」
「ええ、まったくだわ」
桜鬼と鬼兎火がやれやれと言わんばかりに、溜息を吐く。
すると、儚が家屋の方を見ながら、
「あの人、誰やろ? お客さんかな?」
首を傾げさせてきた。
家屋の方からこちらを見ているのは、腰あたりまで伸ばした黒髪、ゆったりとしたサマーワンピースに身を包み、ツバの広い帽子を被った女性だ。
女性は、目鼻立ちが整った顔で、好意的な笑みを浮かべている。
けれどここに住んでいる儚を含め、櫻真たちは突如現れた女性に少しだけ困惑している様子だ。
「櫻真たちも知らんのかえ?」
「うん、俺らも知らへんよ」
桜鬼の言葉に櫻真が短く首を振る。
「うふふ。プライベートビーチにも関わらず、謎の美女現る! これは何か事件の予感ね?」
突如として、自分たちの元に割り込んできた葵がいつの間にか掛けていたサングラスをさっと外し、見知らぬ女性の元へと駆け出していく。
「ちょっと、姉さん! ウチの親の知り合いやったら困るから、変な事言わへんでよ〜〜」
先を走る葵を慌てて儚が追い、それにつられる様に桜鬼も櫻真と共に走り出す。
そして、近寄ってくる自分たちを見ても女性は驚きもせずに、微笑みを浮かべていた。




