賀茂氏の少年
大変やったわ……。
学校の下駄箱前で、今朝のやり取りを思い返しながら、櫻真は小さく溜息を吐いた。昨日の夜から薄々心配していた事が、見事に的中してしまったからだ。
櫻真が朝起きて、学校に行く準備をしている時に桜鬼が「妾も学校とやらに行きたい」と言い始めたのだ。
従鬼は自らの姿を隠せるとはいえ、桜鬼の性格を考えると学校についてこさせるのは、厳しいだろう。
だから櫻真も母親の桜子と共に駄々を捏ねる桜鬼を説得したのだが……
「櫻真が学校で危険な目にあったら、大変じゃ。一大事じゃ」
と言い張ってきたのだ。
けれど、今の所は桜鬼が危惧するような気配などは感じられない。
「桜鬼、さすがに学校には桜鬼を連れて行く事はできんから、家で待っとって。な?」
駄々を捏ねる桜鬼に櫻真がそう諭しながら、やっと家から出るという感じで学校へと登校することに成功した。
何か、可哀想な気もするけど……こればっかりは仕方ないしな。
「なぁなぁなぁ! 櫻真! 葵祭の時に一緒に居はった綺麗な人、誰なん?」
櫻真が学校の教室に入ると、同じクラスで友人の坂口守が勢いよくやってきた。
「あっ、いや別に。前まで少し遠くに住んではった親戚の人。最近、ウチで住み始めて」
「親戚にあんな綺麗な人がいはるの? マジでか! よし、俺決めた! 俺のお嫁さん候補は䰠宮で探す!」
「えっ、何でそうなるん?」
「何でって……そんなの決まってはるわ。櫻真もそうやけど、䰠宮家って顔がええって評判やん。だから、きっと親戚の中に可愛い子もおるやろ?」
目を輝かせながら、邪な考えを口にする守に櫻真は上手く反応が取れない。
それに、自分たちと年が近い親戚の女子もいるにはいるが……
「あんまり、おすすめはできへんな」
「ええー、そうなん? 何で? もう彼氏がいるとか?」
「いや、そこまでは知らんけど……」
「だったら、俺はワンチャンスに掛ける! そうや! 中学生男子の青春は短いねん!」
守が握りこぶしを作り決意を固めている。するとそこへ、眼鏡を掛けた男子生徒が歩いてきた。櫻真のもう一人の友人である雨宮直規だ。
「守、そんな大層な夢を抱いたらあかんよ。それと櫻真、土曜はおおきに。また父さんの碌でもない事に付き合ってもろうて」
「いや、ええんよ。俺も父さんに行けって言われただけやから」
やっぱり知ってはったんやなぁ、と思いながら苦笑を漏らす。やはり、どこか難点のある親を持つと子供の方も苦労するのだ。
「それはそうと……昨日の葵祭で観光客数人が病院に緊急搬送されたらしいな。どの人も軽度の熱中症らしいけど」
「この時期に熱中症?」
「そうみたいやで。まぁ、昨日は日曜日で晴れとったし、人が多かったからな。もしかしたら、それでやない?」
小首を傾げる雨宮に、櫻真は軽く頷き返すが内心ではしっくりとしていなかった。
確かに昨日は晴れていた。人も多かった。けれどそんな何人もの人が救急車で運び込まれる程だっただろうか?
櫻真がそんな事を考えていると、一限目の予鈴が鳴り、話はそこで終わりになった。櫻真も慌てて自分の席につく。
「䰠宮君、おはよう。今日はギリギリセーフやったね」
不意に横から掛けられた言葉に、櫻真はドキッとなる。その声の主は、隣の席に座る祥千咲だ。千咲は、大きめな黒目を少し細めて笑みを浮かべて来た。
その笑顔に、顔が熱くなる。
「……おはよう。ほんま遅刻にならんで良かったわ」
顔が赤くなっていないか心配で、あまり千咲の顔が見られない。千咲とは同じ小学校からの同級生で、その時から櫻真が片思いをしている相手だ。
とはいえ今の距離を縮めることはできていない。千咲は、校内では誰もが認める美少女で、頭もよく性格も良い。だからクラスでも中心的な女子生徒だ。そんな千咲と引っ込み思案でオカルト体質な自分では、あまりに不釣り合いだ。
「䰠宮君、いつも遅刻ギリギリやもんなぁ」
「うん、ちょっと朝起きるのが苦手で……」
愉快そうな笑みを浮かべて来た千咲に櫻真が苦笑を返す。すると、千咲が少しホッとしたように胸を撫で下ろして来た。
「なんか、良かった。今日の朝、校門で䰠宮君を見かけた時、疲れとる様な顔をしてはったから」
そんな千咲の言葉を訊いて、櫻真の胸に嬉しさがじんわりと込み上げてくる。
これってつまり、祥さんが俺の事を気にしてくれはったって事やうか? 何とも安易な妄想に、櫻真は思わず口許が緩みそうになるのを抑える。
あかん。変に期待したらアホや。
舞い上がりそうになる自分を抑えて、
「心配してくれて、おおきに」
とぎこちない微笑を返す。
むしろ、これが今の自分の中で最善の反応だ。
「ううん、お礼なんてええよ。私が勝手に心配してただけやから」
勝手にというほんの些細な千咲の言葉さえ、櫻真は嬉しくなる。けれど、そんな櫻真の背筋に突如、悪寒が走る。
何やろ?
櫻真が身体に感じた悪寒の正体を探ろうと辺りを見回す。すると、その気配の先が祥の左腕であることに気がついた。
「䰠宮君、どうかした?」
「あっ、いや。何でもな……祥さん、その左腕どうしたん? ミミズ腫れみたいになってはるけど……」
「えっ、ミミズ腫れ?」
櫻真が千咲の腕を指差しながら訝しげな表情で訊ねる。すると千咲もあわてて自分の左腕に目を向けた。
「ホンマや! えっ、でもどうしたんやろ? 何かで引っ掻いてしまったんかな? 全然、気付かんかった……」
千咲の左腕には、手首から肘にかけて赤いミミズ腫れのような物が浮かび上がっていた。しかも、そのミミズ腫れは直線ではなく、何かが蛇行したような跡だ。微かに邪鬼の気配がする。
自然と櫻真の表情も険しさを増す。
「痛みとかは?」
「ううん。全然」
自分に出来た異変に、千咲が困惑しながら首を横にふってきた。
痛みがないのは良かったけど……
一限目の授業を聞きながら、櫻真は千咲の腕のミミズ腫れついて考えていた。あの左腕から感じたのは、確かに邪鬼の気配だ。
もしかして、この近くに厄介な邪鬼でもおるんやろうか?
櫻真は、そっと意識を集中させて何か怪しい気配がしないかを確認する。教室に流れる気配の中に特に怪しい感じはしない。
今は特に大丈夫そうやけど……もしかして、鬼絵巻が関係してたりするのかな?
鬼絵巻には災厄を起こす術式が込められていると浅葱は言っていた。確信はできないが油断もできない。
でも、ずっとそればかりに気を取られているわけにもいかないしなぁ……。
仕方なく櫻真は、丁度この教室全体を囲うほどの結界を張る事にした。といっても今張る結界は弱い物で、良くない物が近づいた際にそれを知らせるセンサー変わりのものだ。
これで、何か異変があればすぐに分かるし、何もしないよりは良いはずだ。
結界を張った櫻真が、そんな事を考えていると、後ろの席から鋭い視線を感じた。櫻真がはっとして、そっと後ろを振り返る。振り返った先にいたのは同じ班の祝部佳だ。佳も櫻真の視線に気付いたが、無言のまますぐに目を逸らしてきた。
見られた気……したんやけどなぁ。
前に視線を戻し、櫻真は小首を傾げた。
そしてそのまま、佳に何にも訊けぬまま一日が過ぎ放課後となった。
この日は、櫻真と同じ班の生徒が掃除当番だ。掃除をしているのは、櫻真、紅葉、千咲、佳の四人だ。
櫻真が教室の窓を拭き、紅葉と千咲が床の箒で掃いている。佳は前と後ろにある黒板の掃除をしていた。
「䰠宮。少し話があるんやけど、ええか?」
櫻真が窓を拭いていると、佳が真剣な表情を浮かべて話しかけて来た。声も小声で明らかに他の二人には聞かれたくないという雰囲気が伝わってくる。
今朝、見てきた時のことかな?
真剣な佳の態度に櫻真は少し身構える。正直な所、佳とは殆ど話した事がなかった。同じクラスになったのも、今年が初めてだ。櫻真が佳について知っている事といえば、下鴨神社の神主の家の子というだけだ。
そんな佳が自分に話しかけてくるということは、自分を見て来たことに関係がありそうだ。
俺、何か祝部君に何かしてしもうたかな?
櫻真がそんな事を考えていると、佳が櫻真の真意を見定めるように凝視してから口を開いて来た。
「この教室……いや、学校の至る所に結界を張ったのは䰠宮やろ?」
「えっ、何でそれを?」
予想外なクラスメイトの言葉に櫻真は目を丸くさせた。まさか自分の張った結界の存在を知られるとは思ってもいなかったからだ。
佳に霊感があったとしても、ただ霊感があるだけでは、『結界』という言葉が口から出てくることはないだろう。
櫻真は少し緊張した様子で、佳の言葉を待つ。
すると佳が表情を変えないまま、返事を返して来た。
「陰陽道に精通しとる䰠宮なら、賀茂氏家っていう名前は聞いた事くらいありはるやろ? 俺はそこの血縁者なんよ。䰠宮ほどではないにしろ、声聞力もあるから邪鬼祓いもやっとるし、結界の気配も感じとれる」
「……そうだったんやな。いや、なんか驚きや。まさかこんな近くに、声聞力を持ってはる人がおると思ってなかったから」
しかも賀茂氏の血筋ということは、陰陽道の中では䰠宮家と比肩するほどの家系だ。むしろ陰陽道を日本で最初に発展させたのは賀茂氏家で、安倍家の血筋を引く䰠宮とは歴史上、深い関わりのある家でもある。
「まぁ、無理もないやろ。俺の家は䰠宮ほど盛んに星を見たり、祓い事をしているわけでもないからな。むしろ、祝部でそれをしとるのは、俺ともう一人の人くらいや。お互い姓も変えてはるし」
「そうだったんや……」
「それで、何で結界を張りはったん?」
感心の声を漏らしていた櫻真に、佳が苦笑を漏らしながら質問を続けて来た。けれどすぐに質問に答えることはできなかった。結界を張った理由を素直に言っていいものか迷ったからだ。結界を張るということは、普通ではない。センサー変わりとはいえ、結界は何かを何かから護るための術だからだ。
しかし、家庭の奇妙な揉め事に関係するかもしれない事だ。他者である佳に話すのはやはり気が引ける。
「今は何も感じないんやけど……今朝、少し嫌な気配を感じて。念のために張っとった」
少し口籠もりながら、櫻真がそう説明する。
するとそんな櫻真の顔を佳がじっと凝視してから、今度は少し放れた所で紅葉と話している千咲を見た。
「もしかして、昨日、ウチの神社で感じた気配と何か関係してはる? 祥の左腕からもほんの一瞬、邪鬼がついてはるような気配も感じたし」
佳からの直球な質問に、櫻真は口を閉じる。祥の左腕だけではなく、昨日、櫻真たちが感じ取った気配にも気付いていたらしい。
「俺にも、分からん」
「でも、何かあるんやろ?」
無言ながらも櫻真は佳の言葉を肯定してしまっていた。佳が少し溜息を吐く。
「何か厄介なものなん? それの程度なら俺よりも䰠宮の方が詳しいし、分かるやろ?」
重ねられた質問に、櫻真は無言を貫くしかできない。
するとそこへ、箒を道具箱に片付けた紅葉と千咲が近寄って来た。
「櫻真と祝部君、そっちは終わりはる?」
「ああ、そうやな……多分、終わった」
「多分って……」
「何かあったん?」
呆れ顔を浮かべる紅葉の隣で、千咲が心配そうな表情を浮かべて来た。
「あっ、いや。何もないよ。ただ少しぼーっとしてて……えっ! 何で!」
さっきまでの曇った気持ちなど忘れ、櫻真の意識は驚きへと変貌する。驚いた櫻真の視線の先にいたのは、桜子の私服を借りたと見られる桜鬼と、その横に青色ベースの生地に紫陽花の花が描かれた着物を来た䰠宮葵が立っていた。
「おほほ、櫻ちゃん、お久しぶり。綺麗な、綺麗な親戚のお姉さん二人が、可愛い甥っ子の学校へと馳せ参じたわよ。ちなみに私の自己紹介をそこにいる櫻真フレンズに教えてあげると、䰠宮葵、年齢二十七才。独身。東京出身の京都在住よ」




