迷いなど斬り捨てて
「やっぱり、頭に来るな……」
「……あの子のこと?」
宇治市方面へと向かう電車内の中で、少年と女性が横並びで座っていた。
少年の名前は、䰠宮蓮条。櫻真と同じく鬼絵巻を集める一人だ。そしてその横に居る女性は、自分と契約した第五従鬼の鬼兎火だ。
鬼兎火は、艶のある顎下ほど伸ばした黒髪を耳に掛けながら、蓮条へと落ち着き払った視線を向けて来た。
電車の中には、蓮条と鬼兎火以外で乗っているのはほんの数人で、誰もこちらに気にとめる様子はない。他者からすると蓮条と鬼兎火は、年が少し放れた姉弟くらいにしか見えないだろう。
蓮条はそれを、やや不服に感じながら息を吐き出した。
「腹立つやん。向こうは、俺の事を憑き物でも見たみたいな顔して……」
一瞬にして、あんなに怒りが沸き起こるとは思わなかった。
向こうは自分の事など知りはしない。けれど自分は向こうの事を知っている。その事実がこんなにも自分の感情を逆立たせてくる。
䰠宮櫻真。
䰠宮本家の一人息子で、誰もが次の䰠宮家の当主だと思っている。
けれどこの認識は、変わる。変えてみせる。
「複雑ね……。でも私は、貴方が満足する形になるために最善は尽くすつもりよ」
熱り立つ蓮条を優しく宥めるように、鬼兎火が優しく微笑んで来た。そしてその言葉の中に、鬼兎火の決意が滲み出ている。
「当然や。俺が今回の鬼絵巻を全部集めたるわ。誰にも負けへん。絶対にな」
蓮条が勝ち気な笑みを浮かべると、鬼兎火が満足そうな表情を浮かべて来た。
そして電車から降り、宇治市内にある自宅へと帰る。
「蓮条、稽古場に菖蒲さんが来てはるよ?」
「分かった。今、行く」
母親である千鶴にそう頷き返し、蓮条は帰って来た足で稽古場の方へと向かう。稽古場には、私服姿の䰠宮菖蒲が立っていた。
菖蒲は、眼鏡を掛けた背の高い美青年で、連条が初めて会ったのは、四年前。菖蒲が二十歳の時だ。
本格的に蓮条に能楽と陰陽師としての術式の稽古を付け始めたのは二年前からで、蓮条にとって叔父にあたる人物だ。
「お疲れさん。それで、向こうの様子はどうやった?」
「これといって、大きく動いてはなさそうでした。従鬼は一緒に連れてたみたいやけど」
「第八従鬼の桜鬼やな……」
菖蒲が腕を組みながら、何かを思案している。
「厄介なんですか?」
「厄介やな。と言っても、今の時点では・・・・・・大丈夫やけどな」
含みのある菖蒲の言葉に、蓮条が微かに眉を顰めさせる。するとそんな蓮条の表情を見て、菖蒲が軽く息を吐いて来た。
「気を張りたい気持ちも分かるけど、もっと肩の力を抜いた方がええ。それこそ、厄介になる前に、鬼絵巻をこちらで集めれば良いだけの話や。もうすでに、一つ目の鬼絵巻の場所は把握しとるし」
「えっ、そうなんですか?」
蓮条が菖蒲の言葉に目を丸くさせると、菖蒲が静かに笑みを浮かべて来た。
「勿論や。僕としても色々と準備はさせてもろとるからね」
「じゃあ、菖蒲さんがそれを取りに?」
「いいや。取らん。取りに行くのは……蓮条、君や。勿論、今から鬼絵巻の第一章がどこにあるかも教える。一つ目の鬼絵巻は、櫻真と同じ中学に通う女子生徒が持っとる。本人は無自覚でな。このままやと、櫻真の従鬼に気づかれてしまうから、早急に動きはった方がええわ」
「えっ……、俺に行かせてくれはるんですか?」
予想外な菖蒲の言葉に、蓮条はまさかという声を出した。
菖蒲は、自分と同じく鬼絵巻を集める器に選ばれている者の一人だ。だから、こんな風にちょっとした情報共有をすることはあっても、探知した鬼絵巻の情報まで自分に提示してくれるとは思ってもいなかった。
「そういうことや。蓮条は䰠宮の当主になりたいんやろ?」
「そうですけど……菖蒲さんは、ええんですか?」
「ええよ。むしろ、僕が初めに言い出したことや」
戸惑う蓮条の様子を余所に、菖蒲はさも当然かのような顔をしている。これではまるで当事者ではなく傍観者のようだ。
「一つ、確認させてもよろしいでしょうか?」
そう言って、蓮条と菖蒲の話に割って入って来たのは、蓮条の従鬼である鬼兎火だ。
「ええけど、何かおかしな点でもあった?」
「はい。この際、訊かせてもらいますが……何故、ご自身で見つけた鬼絵巻を我が主に譲るのでしょうか? その意図をお聞かせ下さい」
「……僕が蓮条を裏切るとでも?」
「…………万が一ということもありますので」
鬼兎火は菖蒲の言葉を否定はしない。けれど、そんな鬼兎火を蓮条も叱咤する気はなかった。菖蒲の事は、小さい頃から知っている。
けれどだからといって、菖蒲の腹の底を全て知っているわけではない。
蓮条からしても、今の菖蒲の言葉には不信感を抱かずにはいられなかった。
蓮条と鬼兎火、そしてその二人と対面する菖蒲の間に静かな緊張が走る。けれどその緊張も菖蒲が吐いた溜息によって払拭された。
「まぁ、疑いたくなる気持ちも分からんでもないけど……別に裏切る気なんてさらさらないわ。むしろ、僕の力を舐められても困る。僕はそれなりに自分の力を自負しとるし、今の櫻真くらいなら蓮条に行かせんでも勝てるわ。でも……それだと蓮条が納得しないやろ?」
そう言った菖蒲が蓮条の真意を確認するように、鋭い視線を向けて来た。
「……納得、できないと思います」
この戦いの中で蓮条が誰よりも負かしたい相手は、櫻真だ。蓮条が鬼絵巻を集める理由の根本には、䰠宮櫻真という存在があり、切り離すことなんてできやしない。
「追々、蓮条と戦うことがあったとしても、今すぐに師弟同士で潰し合いたいなんて、さすがの僕も思わん。といっても、鬼絵巻を完成させるまでは、何度でも櫻真と戦うことになるけどな」
そう言って、菖蒲が妙に辟易とした表情を浮かべて来た。
「何か気になる事でもありはるんですか?」
「まぁ、少しな……」
「何です?」
蓮条が神妙な顔つきで、菖蒲の顔を見上げる。すると、菖蒲が少しの間、思案してから決めたように頷いて、口を開いて来た。
「蓮条、君は桔梗のことは知ってはる?」
「詳しくは知りませんけど……一応は。それでそいつが何かしてきはるんですか?」
「してくる可能性は高い。むしろ桔梗は櫻真を当主にしたがっとるからな」
「理由は?」
櫻真を押している存在に、蓮条の表情は自然と険しいものになる。
「理由? そんなのアレの性格が曲がってはるからや」
菖蒲がそう言って、悩ましげに眉を顰めて苦笑を漏らす。
しかし、そんな菖蒲に対して蓮条が表情を引き締めて口を開いた。
「どんな奴にしろ、敵であることには変わらん。俺は櫻真を倒す。そして邪魔する奴も全員倒したる。ただそれだけのことや」
この言葉に噓偽りなどない。むしろ、このくらいの覚悟なく、鬼絵巻を集める事……奴らを見返してやることなどできはしない。
真剣な目で蓮条が菖蒲の顔を見る。すると菖蒲がそんな蓮条に満足気な表情を浮かべて来た。
「ええやろ。僕はその言葉に期待するわ。何が何でも櫻真を当主にすることだけは阻止せな、あかんからな」
「……任せといてください。それじゃあ失礼します」
笑顔を浮かべた菖蒲に蓮条は頭を下げて、鬼兎火と共にこの場を去った。
自分のことを応援してくれる菖蒲の期待には答えたい。けれど……
「何やろ? この変なもやもや感?」
鬼兎火と二人になり、思わず本音が口から漏れる。
「やっぱり、不安? 彼と戦うのは?」
心配そうに蓮条の顔を覗き込んで来た鬼兎火。そんな鬼兎火に蓮条は強く首を横に降った。
「ちゃうわ。俺が櫻真を怖がるわけないやろ。ただ……」
「ただ?」
「ううん。やっぱ何でもないわ。俺たちは俺たちで準備を備えるで」
そう言って、蓮条は胸中にある不安を払拭するように話を切った。
これからは、迷っている暇などないのだから。




