嘘も誠になる?
菖蒲と瑠璃嬢のやり取りを一人の青年が見ていた。長い前髪の隙間から少し眠たそうな目つきの青年は、大きな欠伸をして二人の会話に耳を澄ます。
「あれに聞いて来いって言われたから、来てみたものの……」
話している事は、一向に珍紛漢紛だ。それでも青年は、二人の会話を録音している。と言ってもこれもやれと言われているから、その言葉に従っているに過ぎない。
そして、そんな青年とは別方向に、表情を険しくさせている䰠宮蓮条と第五従鬼の鬼兎火の姿が見えた。
距離的に見て、あの二人の所にまで会話が漏れている可能性は低い。きっと、自分よりもあの二人の方が、この会話を傍受したいはずだ。
ふと、青年は録音した会話を聞かせてやろうか? とも考えた。けれど、すぐにその考えを頭から破棄した。
言われてもいない事をやる必要はない。そう思い返したからだ。
むしろ、自分が蓮条や鬼兎火に接触すると後々の行動に支障が出かねない。後々に支障が出る=飯抜きだ。
「それは、マジぃな」
青年はふぅーと短い息を吐き出し、録音機能を切って歩き出す。界隈には、まだまだ人の織りなす流れが続いており、青年は違和感なくその流れに乗った。
ただ少しヒヤッとした。動き出す際に菖蒲の従鬼である魄月花と瑠璃嬢の従鬼である魑衛が一瞬だけ、こちらに視線を向けてきたからだ。
その一瞬に向けられた視線を短い言葉で現すなら、不審だろう。
ただ幸運だったのは、それが深くなる前にお互いの主が話を終え、動き出してくれた事だ。あのまま、話を続けられていたら従鬼たちが何かを感取していたかもしれない。
「あぶねぇ。さっさとズラからねぇと、姉御から大目玉を食っちまう」
早歩きで、道をズンズンと進んでいく。
それにしても……
従鬼という存在は、つくづく変わった存在だなと思う。
式鬼神の上位にあたる従鬼。しかし青年からすると、疑問が浮かぶ。
果たして、従鬼はそんな高位な存在なのか?
「それだったら、俺の方がよっぽど高位な気がすんだけどなぁ」
しかし、仮に従鬼の謂われが大法螺吹きだとしても、それを信じ込めば、嘘も誠になるのだろうか?
「……俺も自分を信じてみようかな? あーでも、何かそれも面倒だな。うん、やめよ」
自分を信じた所で、自分が何かに昇格することはないだろう。自分は今の自分以外にはなれないのだ。
ならば、それをしっかりと受け止め、自分らしくいる方が真っ当な気がする。
「ん? 待てよ……。つまり、それって俺は姉御の下部ポジションかぁ。ありえねぇーー」
力なくそう呟いて、ズボンのポケットの中に入れた小型の録音機を手で触る。
ここは自分のポジションを下部から上げるために、この録音機を道端に捨てて反逆してみようか?
その瞬間に、青年の腹の虫が鳴った。
頭の中を掠めた奮起は、いとも容易く腹の虫によって折られた。
どんなに小間使いにされようと、この空腹感が満たせるのであればそれで十分だ。青年は、ポケットから手を出し、そのまま雑踏の中に紛れてその場を去った。
佳の家に術を施し、光の家を後にした櫻真たちは、ぐったりしていた。
「壮絶でしたね……」
櫻真は、横にいる桔梗にぼそりと呟いた。そして横にいる桔梗も呆れた表情を浮かべている。
大変だったのは、佳の家ではない。
二軒目に行った『shijima』の方だ。つまり光の家で櫻真たちは精神的なダメージを受けていた。
「あの人、あれでも有名な女優やなかったっけ?」
「そうですよ。今も連続ドラマで思慮深い先生役をしてはると思います」
「思慮深いね……」
車に乗り込んだ桔梗が、遠い目で呟く。しかしその気持ちは分かる。なにせ……
「家屋に入るなり、随分と狂的だったの」
「桜鬼の意見に頷くのは癪ですが、憑き物に取り憑かれているようでした」
車の後部座席に座る桜鬼たちも参るほど、光の母親の勢いは凄かった。
櫻真たちがインターホンを押し、櫻真が中共中の学生だと告げると、ドタドタという足音と共に、勢いよく玄関が開いた。
勢いよく開かれた玄関から出てきたのは、テレビで見かける清純派女優の堀崎優子だ。
パーマのかかった髪を後ろで纏め片方の前髪だけ流し、上品な赤い口紅が似合う姿は清純派女優らしい。しかしその顔に浮かぶ表情は、清純派とはほど遠いものだった。
鬼の形相とは、まさにこの事だった。
「ウチの光に何してくれはったん!?」
この言葉から始まり、そのあと「大女優である私への脅迫ですか?」「光が一粒でも涙を流していたら、許しませんからね」「ああ、貴方が私の可愛い光を苛める主犯格やろ? 許さん、親、PTA、学校、警察さんに報告や!」等と、物凄い勢いで捲し立て、櫻真と桔梗をキッと睨んで来たのだ。
自分の言いたい事を言わはって、人の話を聞かない所……親子、そっくりやなぁ。
金切り声を上げる優子に耳を塞ぎながら、櫻真は四十万親子の共通点を見つけていた。隣にいる桔梗は、耳を塞ぎながら、小声で術式の詠唱を唱え始めている。
もう、すでに混乱でヒステリックになった優子の言葉は聞き流しているらしい。
透過している桜鬼と椿鬼は、泣き叫ぶ優子を見て物珍しげな表情を浮かべている。
「あの、四十万さん落ち着いて下さい。何か勘違いしはってるのか分かりませんけど……光君なら居はるやないですか?」
出来るだけ、興奮している相手を逆立てないように、櫻真はゆっくりした話し方で優子の後ろの方を指差した。
「なに、適当なことをっ! 家に帰ってへんからこんなに心配して……えっ? 光?」
優子の怒声が驚きへと変わる。
櫻真が指差したのは誰もいない階段。しかし、そこには光がいる。桔梗による幻術で生み出された光が優子の目には映っているのだ。
「えっ、えっ、ホンマやわぁ。もう、光ったら帰りはったなら、はよ、言うて。ママ、心臓止まるかと思ったわ」
そう言って、優子が幻術で見えている光の抱きしめるような仕草をしている。そして、幻術の我が子と感動の再開を果たした優子が、玄関先に立つ櫻真と桔梗へと顔を向ける。
「私ったら、子供が心配で心配で……取り乱してしもうて恥ずかしい。すみません。もう居たみたいなんで大丈夫です。あっ、来週の月曜日九時から新しい連続ドラマが始まるんで、観はって下さいね。内容は、幸福家族っていう題名のヒューマンドラマになってますんで」
さっきの態度を一変させ、優子は女優らしい綺麗な笑顔を向けて来た。自分が出演するドラマの番宣もばっちりだ。
櫻真たちは、そんな優子の変わり様に圧倒されながら、光の家を後にしたのだ。
「女優の演技力って怖いですね」
「ホンマやな。でも、僕が一つだけ言える事は……あの人が出るドラマ、絶対に見いへんわ。というか見られへん」
「分かります……。何かもう、さっきの印象が強すぎて、あの人はあの人にしか見えませんもん」
堀崎優子は、清純で演技力の高い女優。櫻真の中にあったその印象が一気に崩壊してしまった。
「でも、やっぱり幻術を施して良かったですね。もう少し遅かったら、ホンマに学校やら警察やらに電話しはってたと思います」
「そやね。でも、ああいう感情的な人ほど幻術は掛かりやすいから、助かったわ」
安堵の息を漏らした櫻真に桔梗が頷く。そしてそのまま、桔梗が櫻真を自宅前へと送ってくれた。
「ありがとうございます。送ってもろうて……」
「ええよ。僕も稽古場に物を取りに行く都合もあったから」
「あっ、稽古……」
桔梗の言葉で、櫻真は何の連絡もなしに稽古を休んでしまった事を思い出した。
「ヤバい。父さんに殺される」
「連絡しはらなかったん?」
櫻真は顔を蒼白にしたまま、ゆっくり頷いた。
「いきなり結界の中に入ってしまったからのう……」
頭を抱えた櫻真に桜鬼が労り、桔梗が同情するような表情で口を開いてきた。
「急な事で頭が回らなかったんやな。でもまぁ、怒られるとは思うけど、事情を説明すれば分かってはくれはると思うよ?」
「確かに……ゆっくり事情は話せへんけど、話してきます」
「うん、その方がええわ。桜子さんも心配しはると思うし」
桔梗の言葉で思い浮かんだのは、光を心配していた優子の姿だ。きっと、何も言わないままだと、桜子にもあんな風に心配させてしまう。
やっぱり、ちゃんと事情を説明せんと。
「桔梗さん、今日はホンマに助かりました。ありがとうございます。祝部君たちの事は、絶対に結界の中から助けます。桜鬼、行こう」
「そうじゃのう それから妾からも礼を言おう。助かったぞ」
桜鬼が笑みを浮かべながら、桔梗と椿鬼の顔を見る。すると、桔梗はにっこりと笑みを返し、椿鬼は複雑そうな表情で、小さく頷いて来た。
櫻真が家のリビングに向かうと、そこには浅葱に桜子、そして蓮条と鬼兎火の姿があった。
「あっ、蓮条!」
「櫻真を待っとったらしいで?」
驚く櫻真にそう答えたのは、蓮条の正面にいる浅葱だ。浅葱の視線が自分の方へと向いて、櫻真は一瞬だけ、言葉を詰まらせる。
浅葱の表情を見る限り、怒っている様子はない。
しかし、だからといって櫻真が稽古を無断でサボってしまった事を謝らない理由にはならない。
「父さん、稽古をサボってしもうて……ごめん。今度からちゃんと連絡するように気をつける」
櫻真がそう言って、浅葱に頭を下げる。
すると、浅葱が小さく肩を竦めさせてきた。
「まだ、稽古は続いとるよ? 今から参加する?」
「それは……その、できん。これから巻き込んでしまった友達を助けに行くから」
櫻真が意を決して、浅葱に言葉をぶつける。舞台を踏む者として日々の稽古は大切だ。しかし、今は佳たちを助けに行く方が大事だ。
その意志を浅葱に示す。
すると、浅葱が小さく肩を竦めさせて来た。
「まっ、しゃーないな。ちゃんと自分で穴埋めはするんやで? 強制はせん。けど、やらなかったら、櫻真たちに返ってきはるからな? 千丈の堤も蟻の穴より崩れる、言うやろ? 櫻真にいたっちゃ、菖蒲と安宅の舞台もあるんやから」
「……分かった。それから、母さん。無理な話かもしれへんけど心配せんでな? 友達を助けたらちゃんと帰ってくるから」
浅葱の横で、心配そうな表情を浮かべる桜子へと顔を向ける。
「うん、分かった。でも櫻真も蓮条も、それから桜鬼ちゃんたちも無茶はせんようにね」
「せやな。またさっきみたいに……凄い形相で心配されたら敵わへんもん」
「凄い形相……」
やや照れたような蓮条の言葉を聞きながら、櫻真は優子の姿を思い出す。
「桜子がさっきの者の様に荒ぶるとは、思えぬがのう……」
「多分、荒ぶる所にまでは行ってへんとは思うけど……俺も心配掛けないように気ぃつけるわ」
自分の母親である桜子は確かに心配性な所がある。
しかしさっきの優子のように豹変することは、ないと思う。いやそう思いたい。
苦笑を浮かべる櫻真に、さっきの現場に居合わせなかった蓮条たちが、疑問符を浮かべている。
「父さんたちからの許可も降りたし、早速動かんとな」
櫻真が本題に話題を切り替える。すると蓮条が微かに表情を曇らせてきた。蓮条の後ろにいる鬼兎火も厳しい顔を浮かべている。
櫻真と桜鬼はそんな二人の顔に顔を見合わせ、首を傾げさせた。
「とりあえず、場所変えよう。その方が話し易いやろ?」
櫻真の言葉に蓮条が頷き、リビングを出た。櫻真もそんな蓮条に続いて、リビングから出ようとして、一度足を止める。
「父さん」
「ん? なに?」
「俺らの親戚の中に、祝部家の人と繋がってはる人っておる?」
先程の占術結果に出た「二者に通じる血」について、櫻真が浅葱に訊ねる。すると浅葱が片目を少し眇めて、口を開いた。
「祝部と? ああ、それなら菖蒲やな。僕と菖蒲が腹違いなのは、知ってはるやろ? 菖蒲の母親は祝部の出や。それが、どうかしはったん?」
「いや、結界の中に閉じ込められとるのが、そこの家の子で、その子も声聞力を持ってはるから、俺等と何か縁でもあるのかな? って。ただそれだけ……」
櫻真は茫然となりそうになるのを抑え、苦笑を浮かべて部屋を出た。
ダイニングを出たすぐの所に、蓮条と鬼兎火が立って待っていた。
「どうかしたん?」
部屋を出て茫然とする櫻真に、蓮条が首を傾げさせてきた。首を傾げる蓮条に伝えなくてはいけない。けれど、それは蓮条の話を訊いてからだ。
確証はないが、蓮条も何かしらの情報を得ていると思ったのだ。そうでなければ、蓮条がわざわざ実家で自分を待たないはずだ。
「少しな。でもその前に蓮条から話してええよ。話す事がありはるんやろ?」
櫻真がそう訊ねると、蓮条が表情を引き締め頷いてきた。
「俺と鬼兎火で、瑠璃嬢の事を尾行しとったんやけど……そしたら、瑠璃嬢の元に菖蒲さんが現れて……話をしてはったんよ。鬼絵巻を手に入れる手助けをしはるっていう……」
自分の得た情報を話す蓮条の表情に、戸惑いのような物が見える。蓮条にとって菖蒲は、櫻真と会う前から親交のある縁者であり、兄弟子だ。
だから、こんなにも早く兄弟子と敵対することに動揺しているのかもしれない。
そしてそれは、櫻真にとっても変わらない。菖蒲は、高校を卒業するのと同時に実家を出て行ってしまったが、それまで一緒に住んでいた兄のような存在だ。
だから、そんな菖蒲がこんな明白に自分たちと敵対してくるなんて、夢にも思っていなかった。
「なんか、ホンマに自分がこの戦いを安易に考えとったなぁって、つくづく思うわ」
櫻真が少し沈んだ声で、自嘲を漏らす。
「櫻真、そんなに気を落とすでない。確かに今は敵であろうとも、昨日の敵は今日の友と言うのじゃろ? だから、この戦いが終われば、懐かし話として酒を酌み交わし、笑い合う時がくるはずじゃ。現にこの間、戦った蓮条とは仲が深まったであろう?」
桜鬼にそう問われた櫻真は、蓮条を見る。すると蓮条がやや照れた様子で頷いてきた。
「そやな。桜鬼の言う通りや……。蓮条、実を言うとな、さっき祝部君と俺の事で占術をしたんやけど、その結果にもやっぱり菖蒲さんがこの件に関わってはりそうな結果が出たんよ。だから、菖蒲さんを追うべきやと思う。ただ……」
櫻真がそこで口籠もる。頭の中に過ったのは、菖蒲の事を指し示す結果の後に出た結果だ。
あの結果には、菖蒲と関わるべきではないと出ていた。まだその理由は分からない。しかし、その結果が出たからといって、蓮条に任せて良いのかとも思う。
「何か引っかかりはる事でもあるん?」
心配そうに声を掛けられ、櫻真はどう答えようか迷う。
ここで、菖蒲との対峙が凶と出たと言えば、蓮条の事だ。自分の身を按じて自分だけで行くと言いかねない。
それに、さっき自分で佳たちを助けに行くと決めたのだ。それなのに、占術の結果を考えて動かないという選択を取りたくはない。
「いや、菖蒲さんたちの行方について考えとったんやけど……『北の宮』ってやっぱり北野天満宮かなぁ? と思うて」
蓮条からの言及を避けるように、櫻真が別の話題へと切り替え、櫻真の真意を分かって、表情を曇らせていた桜鬼に目配せをする。
すると、桜鬼が少し戸惑いながらも「承知した」という意で顔を頷かせてきた。
「北野天満宮か……。うーん、貴船神社とかは? ほら、ここから北の方にある神社さんってあそこやろ? 貴船神社には奥宮さんもありはるし」
顎先に手を当て、蓮条が絞り出すように答えてきた。
櫻真は、そんな蓮条の言葉にしばし考える。
貴船神社と言えば、竜神を祀り、パワースポットとしても有名な神社だ。そして、その近くには源義経と縁のある鞍馬寺もある。
「源義経……。確かに! 蓮条、その線はあり得るかもしれん!」
鞍馬寺には義経記に出てくる、陰陽師鬼一法眼も祀る社がある。しかもその鬼一法眼は、兵法である『六韜三略』を初めとする武芸者で、武道に関わる人々から信仰されている。そのため、術式よりも己の身を強化する事に特化している瑠璃嬢たちからすると、都合が良い場所だ。
声聞力が気場に影響されることも少なくない。相性の有無もある。
もし、菖蒲が瑠璃嬢に鬼絵巻を手に入れさせようとしているなら、瑠璃嬢と相性が良さそうな場所を選択するはずだ。
櫻真は自分の考えに確信的なものを感じて、桜鬼や蓮条たちと共に貴船神社、乃至鞍馬寺へと向かった。




